団塊の世代
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団塊の世代(だんかいのせだい)は第二次世界大戦直後の日本において1947年から1949年(1953年、または1956年生まれまで含まれる場合もあり)にかけての第一次ベビーブームで生まれた世代である。作家の堺屋太一が1976年に発表した小説『団塊の世代』で、鉱物学で一塊の単位で採られる鉱物の呼び名ノジュール(nodule)の訳語を世代をあらわす言葉として用いたことにより登場した言葉である。団塊世代とも言われる。また、その子の世代は団塊ジュニアと呼ばれる。なお、日本のみならず米国等でも同様の現象がみられ、ベビーブーマーと呼ばれる。
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[編集] 定義
定義にはいくつかある。
一番多いものは、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)の3年間に生まれた世代を指す。この場合、厚生労働省の統計では約800万人(出生数)である。通常、この解釈が一番多い。堺屋太一の原著でも3年間としている。
680万人とする説もあるが、こちらは人口推計における、昭和22年から24年生まれの世代が到達しているであろう年齢の人口を足し合わせたものである。(同統計は毎年の10月1日現在であり、その時点で当該年齢に達している人)
また、1953年(昭和28年)ないし1956年(昭和31年)生まれまで含む場合もあるが、マーケティングの分野では広めに解釈する場合が多いようである。
[編集] 団塊の世代の特徴
[編集] 特徴
[編集] 強い競争心
団塊の世代は、人口ボリュームが大きいうえ、その直前の世代が太平洋戦争の影響で出生が極端に少なく、急激に出生が増えたことから、同世代の競争が激しく、青年期を迎える頃には、他の世代に比べてとりわけ自己主張が激しくなったとされる。そのためか議論好きでもある。その反面、「平等」に強いこだわりを持つともされるが、競争のために「平等」を利用しているとも言える(悪平等になりうる面もある)。
[編集] 自立心と責任感の欠如
上記のように一般的には自立心が強く、物事を切り開いてきたイメージがあるが、高度経済成長と年功序列に支えられてきた面があるため、自立した人物はごく一部であり、大多数は指示待ち症候群であるという意見も根強い。少数精鋭が求められる現代社会においては決して高い能力を有している世代とは言い難い面もあるが、この傾向は高度経済成長期においては功を奏しており、指示に対して忠実に行動することで、大量の人物が必要であった当時の勤務状況を切り抜けられたとも言われる。
人口ボリュームが他世代と比較して大きく、知らず知らずに競争を繰り広げたため、競争意識と劣等感が強い場合が多く、また劣等感が強いため責任感に乏しい場合が多い。責任感が乏しいにも関わらず、競争心が強いため、周囲から認められない理由を周囲に押し付ける傾向が強い。競争意識が強い一方で横並び意識も強く、責任の所在を分散させる傾向がある。また、公平より(結果の)平等を求める傾向があり、これらは彼らの子にあたる世代にもあてはまる。 一般的に人間社会においては責任のある行動を取らなければ周囲に認められることは少ないため、この世代の人物がなぜ周囲に認められ難いかは、容易に気付くことが出来ない場合が多い。
[編集] 政治姿勢
団塊の世代は思春期に日米安全保障条約に反対する大人たちの闘争を見ており、また、戦争についても両親や周りの人間から悲惨さを語られ、文字どおり戦後民主主義教育を受けた世代であり、戦争に関連することへ強烈な拒否反応を持つ傾向がある。その一方、団塊世代の属する50歳代の自民党支持率は40%を超え民主党とほぼ拮抗しているという調査結果[1]があり、団塊世代が左翼であるという傾向が成り立つわけではない。
ライブドアによるフジテレビ買収騒動の最中、ライブドア社長堀江貴文を支持するかというアンケートで若い世代を押さえ、圧倒的に「支持」という答えが出たのが団塊の世代であった。このアンケート結果に団塊の世代の特徴がよく現れている。
[編集] 団塊の世代のキーワード
[編集] 団塊の世代がもたらしたもの
[編集] 学齢期
団塊の世代はその膨大な人口が他の世代と比較して目立つために、幼い頃から学校はすし詰め状態となり、教室不足を招くほどで、学校で知らず知らずに競争を繰り広げた。
なお、団塊の世代の受験事情と少子化の進む現代のそれとを比較し、人口などの観点から「団塊の世代は受験戦争が激しかった」と評する人もいるが、必ずしも適切とはいえない。団塊の世代は人口が多いが大学進学率は高くなく、現代は少子化が進んでいるが大学進学率も高いため、競争率を単純比較することはできないからである。
[編集] 青年期
青年期には、都市部の若者はその強い影響と自己主張の強さから、大学改革やベトナム戦争反対の反体制活動を繰り広げ、一部は新左翼となって全共闘運動など急進的な活動を行った。しかし、暴力行動に走ったあさま山荘事件や内ゲバなどで反体制組織に対する世間の目が冷たくなると、急速に「しらけ」が進み、学生運動から大多数が手を引くことになる。
一方、高度経済成長の後半、地方の中卒の若者は働き口の少なさのため、東京や大阪などの大都市へ集団就職した。彼らは「金の卵」と呼ばれ、工場や商店などで雇われた。
[編集] 家庭を持った時期
団塊の世代が家族から独立して家庭を持つようになると、著しい住宅不足を招いた。この対策として、大都市の近郊には数多くの核家族向け団地が建てられた。大手企業は集合住宅タイプの社宅を構えた。その周辺に生活物資を売る商店が集まり、衛星都市と呼ばれる中都市ができた。これによって大都市を取り巻く都市圏は大きく広がった。都市圏の広がりに伴い、通勤のための交通網の整備が急がれ、鉄道の輸送力増強や新線建設、道路の新設や拡張が相次いだ。都市膨張の時代である。
団塊の世代の子供たちが誕生した1971年から1974年にかけて第二次ベビーブームが起きた。第二次ベビーブームで生まれた子供を団塊ジュニアと呼ぶこともあるが、団塊ジュニアには団塊の世代以前の世代の親を持つ者も数多くいる。なお、団塊ジュニア世代よりも、第二次ベビーブーム以降に生まれた子供たちのほうが団塊の世代の親を持つ者の比率が高い。(真性団塊ジュニア)
結婚し子供をもうけた後は、ニューファミリー世代とされ、それ以前の世代にはない(家父長的ではないなど)家庭価値観を持っていた時期が長い。バブル景気の時代に社会の中核を担っていたのもこの世代である。
[編集] 中年期
1990年代に入って、団塊の世代が中年期に差し掛かると、折からの不景気と年功序列制度による既得権益化した高賃金で日本企業の収益性は大きく損なわれた。この労務費負担が、1990年代から2000年代前半の若年層の大規模な就職難の遠因とも指摘されている。
[編集] リタイア期
2007年から2010年にかけて、団塊の世代が一斉に定年退職をするため、年金制度に多大な混乱をもたらすと予想されている。多量退職によるベテラン職員不足を回避し、技能継承のため、定年延長、再雇用等で乗り切ろうとする企業がある一方、彼らの蓄えた技術や能力、人脈を自社で生かすべく、団塊の世代の人材を獲得しようとする企業も現れている。こうした、この世代が及ぼす多大な影響を「2007年問題」と呼ぶことがある。
この問題への対策として、団塊の世代が長年にわたり蓄積してきた知識や技能を、いかに後進に伝承するかが企業内部の問題のみならず今後の社会的課題の一つと考えることができる。 但し、彼らが社会人として組織で生き残り出世するために、自身の経験やノウハウを自分の中で「閉じ込める」方法を選んできたこともあり、経験の伝承を実現することは容易ではないとされる。 だが、組織として知識や技術の伝承を進めさせるための配慮を検討しなければ、彼らの莫大な財産が活かされないことになってしまう。
[編集] 団塊の世代への期待
- 消費活動の主体として
- 退職給付等による一時的消費や、健康で旺盛な消費意欲に期待を寄せるむきもある。
- ただ、言葉選びにはかつてシルバービジネスで「自分はまだまだシルバーではない」というシルバー世代の反発を受けて市場化に失敗したことから慎重である。「エルダー」(年長者・先輩という意味)と呼ぶものもあるが、日本語としては定着しているとはいえない。「シニア」は、シルバーよりは若い印象を受けるものの、それのみでは、一線から退いたという疎外感がどうしても払拭できないことから「ネオ・シニア」と呼んだり、あるいは活動的な側面を強調し(ないしは期待し)「アクティブシニア」と呼んでいる。
- 逆に、2006年の紳士服専門店のアオキによるフタタのTOBに関連して、団塊の世代の退職により紳士服、特にスーツ市場が縮小することを予想した戦略ではないかといわれた。
- 地域の担い手として
[編集] 団塊の世代への評価
[編集] 世代論
- 戦後をつくってきた世代
- 若い世代から「勝ち逃げ世代」など、バブル崩壊後、バッシングされることが多い。ただ、団塊の世代は言わば「戦後日本の一期生」であり、適当な反面教師にできる世代がいなかった(戦中世代とは、見てきた風景があまりにもかけ離れている)。ゆえに独自の試行錯誤をせざるを得ず、(彼ら・彼女らにそこまでの意識はなかったにせよ)あるべき「戦後」社会を作ろうと奮闘する姿が、その後に安定し固定化した社会を受け継いだ後の世代から見て、奇異に見えてしまうという傾向はある。
- 団塊の世代と「家」の概念
- 団塊の世代では、長男が家を継いで老いた親と先祖の墓をみる、より一般的には「イエ」「実家」という概念など、古くからの日本的な価値観が継承されている。しかしながら、団塊の世代の子も含めて、それ以降の世代にはそういう意識は低い(社会の変化、都市への人口移動があまりにも急であり、団塊の世代も子世代に特に継承を求めなかったという一面はある)。それゆえに後世代との意識ギャップが大きいともいえよう。
[編集] 学生運動・労働運動の担い手として
団塊の世代の人々の人生は日本の戦後史に符合するため、様々な戦後日本の事象がそれに当てはめられて併せて評価される。1960年代後半における学生運動の盛り上がりはまさに団塊の世代によるものであった。ただし当時の大学進学率は10%程度で半分近くの学生がノンポリだったたため、学生運動に参加した者の数の方が圧倒的に少ないことは注意しておかねばならない。
激しい自己主張からストライキや労働争議に持ち込むことも多いが、それは非常に活動的な性格だからという見方もある。しかし1980年代後半に訪れた好景気によって、労働組合の団結は軒並み崩れ去った。
[編集] 消費文化
青年期に男性はジーンズ、女性はミニスカートを好んで着用し、ドライブを好むなど、後年の若者文化の基盤となった(作り上げた)世代の面もある。
[編集] 日本経済へのインパクト
- 巨大な消費市場
- そのボリュームゆえ、この世代がひとたびある商品を志向すれば、たちまち大きなマーケットを形成した。「クルマ」然り、「住宅」然りである。日本企業には、団塊の世代の加齢とともに成長した企業も多い。
- ポスト高度成長期
- 高度経済成長を支えた世代として記される場合が多いが、この世代が就職したのは中卒で1962~1964年、高卒で1965~1967年、大卒で1969年以降となる。中卒の人々が労働力となった時代は高度経済成長の後半であるが、大卒の人々はすでに高度経済成長末期であり、この世代が高度経済成長を支えたとする見方はあまり適切ではない。この世代が主軸となって支えた経済的事象は30代で経験した世界の機関車の時代と対米攻勢の時代、さらに40代始めのバブル景気ということになる。これは『課長島耕作』が描いた世界でもある。
- 支えられる世代へ
- 団塊のこの世代が、2012年頃には年金受給世代となり、その約10年後にはやがて好むと好まざるに係わらず一定の部分は社会的入院や要介護者になる。そして加齢とともにその比率は高まっていく。つまり「支えられる」世代になるのである。その影響は人数が多い分、後の「支える」世代にとって軽視できないほど大きくなっている。支える側から支えられる側、年金を払う側から受け取る側に回り、日本経済にとって重しになるという見方である。そのため、1990年代から年金問題は発生まで時限性を持った社会問題となり、たびたび改革案が提示された。結果的に給付額の削減と納付額の引き上げ、支給開始時期の先送りが行なわれることとなった。このため団塊の世代の中には、逃げ水のように去っていく年金支給への不満から戦前・戦中の世代よりも損をしているという感覚が広がっている。また、団塊の世代以後の世代は、この世代を支える負担を自分たちが背負わなくてはいけないという不満が広がり、併せて世代間闘争の様相をみせている。
[編集] 誤読
団塊の「塊」の字が「魂」に似ていることから「だんこん」という誤読が多いことでも知られ、しばしばアナウンサーでさえも「だんこんのせだい」と読んでしまう者がいる。そのため各局特番のNG大賞では頻出のものとなっており、毎回笑いを誘っている。2005年に某局の女性アナウンサーがこの誤読を行ってしまい、数ヵ月レギュラー枠から外されるという謹慎処分に近い対応がなされた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- NHK総合テレビ・クローズアップ現代(2005年4月11~13日の3日間で団塊の世代を特集)
- 我ら、団塊(団塊の世代のメッセージ映像特集)