石原裕次郎
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石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、日本の俳優・歌手である。日本映画史を代表する映画スターである。
石原軍団初代総帥(石原軍団の法被による)、石原プロモーション初代社長。所属レコード会社はテイチクだった。
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[編集] 人物
兵庫県神戸市須磨区に山下汽船に勤める父・石原潔、母・光子の次男として生まれる。石原慎太郎(東京都知事)は兄。石原伸晃・石原良純・石原宏高は甥。夫人は日活の元トップ女優であった北原三枝(結婚後・石原まき子)。
愛称は裕ちゃん(ゆうちゃん)。
終生、酒とたばこを愛し、また大変な偏食で野菜はいっさい受け付けず、ビフテキを主食にしていたといわれるほどであった。比較的短い生涯は、この不摂生が一因であったとの声は多い。
[編集] 略歴
船会社勤務だった父親の転勤で兵庫県神戸市須磨区・北海道小樽市・神奈川県逗子市と住所を転々とする。比較的裕福な生活を送っていたようで、裕次郎16歳、兄・慎太郎18歳の時に父よりヨットを与えられるほどであった(これ以後、裕次郎は俳優業以上にヨットに情熱を傾けていた)。
幼少時は病弱で、しかも父親の早世により性格がぐれ、慶應義塾志木高等学校時代は手のつけようのない不良だった。
慶應義塾大学法学部中退後、無職であった。東宝のオーディションを受けるが失格。1956年、兄・石原慎太郎の芥川賞受賞作である『太陽の季節』の映画版でチョイ役としてデビュー(主演は長門裕之と南田洋子)。同じく慎太郎作品の映画化『狂った果実』(中平康監督)で主演しスターとなる。翌年末の映画『嵐を呼ぶ男』の大ヒットで、その人気は決定的なものとなった。
日活の看板俳優として活躍しながら、歌手としても多くのヒット曲を出し、小林旭と共に日活の二枚看板として名を馳せ、鶴田浩二に続く歌う映画スターとなる。しかし、アクション映画のマンネリから1960年代後半になると客が入らなくなり、倒産寸前となった日活は1971年に低予算のポルノ映画専門会社に転進してしまう。そのため、1970年代以降はテレビドラマ出演、およびプロデューサー業へと活躍の場を移した。刑事ドラマを得意とし、代表作として「太陽にほえろ!」「大都会」「西部警察」などがある。
1978年には舌癌と診断された。1981年には解離性大動脈瘤で一時危篤状態と取りざたされたが、奇跡の復活を果たす(手術の成功率はわずか3%といわれた)。手術成功のあと、慶応義塾大学病院の屋上から、まき子夫人、渡哲也と共に手を振るシーンはワイドショーで中継され、お茶の間に感動を与えた。しかしその後原発性肝臓癌に侵され(本人には告知されず)、結局肝臓ガンだけは克服する事が出来ず、1987年7月17日午後4時26分、入院先の慶応義塾大学病院にて死去。享年52。市川雷蔵と同じ命日であった。歌手としては11枚のヒットシングルをもつ。
伝記としては、兄・石原慎太郎によって書かれベストセラーとなった伝記的小説『弟』がある。これは2004年にテレビ朝日によって同名のタイトル『弟』としてドラマ化された。
[編集] 主なヒット曲一覧
- 1961.01 銀座の恋の物語
- 1965.05 二人の世界
- 1962.10 赤いハンカチ
- 1967.02 夜霧よ今夜も有難う/粋な別れ
- 1957.02 俺は待ってるぜ/狂った果実
- 1957.08 錆びたナイフ
- 1966.03 夜霧の慕情
- 1964.05 俺はお前に弱いんだ
- 1977.04 ブランデーグラス
- 1963.09 夕陽の丘
- 1987.08 北の旅人
[編集] 主な出演映画
- 「太陽の季節」 - デビュー作
- 「狂った果実」 - 初主演作、また後に夫人となる北原三枝と共演
- 「嵐を呼ぶ男」
- 「銀座の恋の物語」
- 「憎いあンちくしょう」
- 「夜霧のブルース」
- 「太平洋ひとりぼっち」 - 日本人初太平洋単独横断の堀江謙一の実話をモデルとした作品
- 「赤いハンカチ」
- 「夜霧よ今夜も有難う」
- 「黒部の太陽」
- 「素晴らしきヒコーキ野郎」
[編集] 主な出演ドラマ
[編集] 豆知識
- 渡哲也と同じ誕生日である。また、同じ兵庫県出身でもある
- アニメ映画『わが青春のアルカディア』で初代ハーロックの役で声優デビューしている。
- 野球選手・長嶋茂雄との親交は深かった。
- 俳優・勝新太郎とは義兄弟の契りをかわしていたと言われる。
- 落語家・林家三平とは家族ぐるみの付き合いをしていた。
- ヨットレースにかける情熱は俳優活動よりも強かったと言われる。
- ハワイが一番好きな場所であり、静養のためにハワイに別荘を購入していた。現在、正月をハワイで過ごす芸能人が多いが、そのはしりとなった人物である。
- 彼が亡くなった日、東京は梅雨明け宣言がされたばかりであったが、その翌日から葬儀・告別式が終わるまでは戻り梅雨に見舞われ、東京の梅雨明け宣言が取り消しになった。以来、三回忌や七回忌、十三回忌などの節目の日や、彼の命日近くになると必ずと言っていいほど雨が降り、いつしかその雨は『裕次郎雨』と呼ばれるようになった。その「裕次郎雨」を、お天気キャスターの森田正光が俳句の季語にしようと運動を始めるが、2006年現在も季語としては認められていない。
- 1980年代になると裕次郎は心臓の病気を患ったが、この時の主治医は、後に宇宙飛行士となる向井千秋である。
- 『太陽にほえろ!』で松田優作がジーパン刑事として出演時、たまたま撮影を見学に来ていた松田と同じ文学座所属の桃井かおりが、その体当たりの演技をみて『怪獣みたい』と評したところ、(決してアクション志向ではなかったため)激昂した松田が失踪し、撮影が中断される事件があったが、それを聞いた裕次郎は怒りもせず、「これでこれだけ怒ったアイツはいい役者になるぜ」と言ったという。『大都会 PARTII』における松田のブッキングは、裕次郎のラブコールによるものである。
- デビュー当時の渡哲也が右も左もわからなかった頃、日活の撮影所内の食堂で裕次郎との初対面の時に「石原裕次郎です。新人の渡君ですか、頑張ってくださいよ。」と、新人の渡にそっけない態度だった他の俳優達とは違い、食事中にもかかわらず立ち上がって、優しく声をかけて握手してくれた裕次郎に感動。以後、渡も自身がどれだけ偉くなっても自分よりも年下の人や新人俳優に対して、裕次郎と同様の接し方でいこうと決めたという。
- 意外にも国民栄誉賞はおろか、出身地の兵庫県民栄誉賞すら受賞していない。
- 死去後にジョイサウンド、ダイドードリンコのCMにデジタル合成で出演した事があり、話題を呼んだ。
- 身長183センチ 股下90センチと型破りの体型であると宣伝されたが、公称178cmの長嶋茂雄と並ぶ姿を見ると長嶋よりずっと背が低く、足の長さも身長の半分よりずっと短い。(参考 石原裕次郎と握手する長嶋 )
[編集] 関連項目・人物
- 日本の男優一覧
- ムード歌謡
- 石原慎太郎(裕次郎の兄、現東京都知事)
- 渡哲也
- 舘ひろし
- 神田正輝
- ゆうたろう(石原裕次郎のそっくりさん)
- 宝酒造(先代会長が裕次郎と親交があり、その縁でCM契約を結んだ)