入来祐作
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入来 祐作(いりき ゆうさく、1972年8月13日 - )は、アメリカ・メジャーリーグ、ニューヨーク・メッツとマイナー契約を締結しているプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。宮崎県出身。
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[編集] 来歴・人物
1999年と2000年に、兄の入来智とともに読売ジャイアンツに在籍していた。その際のスコアボード表記は入来弟。
ピッチャーとしては小柄な方であるが、140~145kmの球を躍動感のある飛び跳ねる様なフォームで投球し、良くも悪しくも自分のペースでテンポよく投げ込み、相手の打者を討ち取ってゆくピッチングが持ち味。感情が表に出やすい典型的なピッチャーである。
日本ハムにおける最終年は苦しい投手事情の中、前年の不振を脱し奮闘した。その年のスライダーのキレや、ストレートの球威はかなりのものがあった。
[編集] 略歴
- プロ入り前の経歴: PL学園-亜細亜大学-本田技研
- 1996年のドラフト会議で読売ジャイアンツに1位指名され入団。(同年2位は小野仁。西武ライオンズとの激しい逆指名争奪戦に勝っての獲得だった)
- 2001年、チーム最多の13勝を挙げる。オールスターゲームに初出場し、福岡ドームでの第1戦先発~兄の智(当時ヤクルトスワローズ)と日本プロ野球史上唯一の球宴での兄弟継投を行った。
- 2003年オフ、井出竜也との交換トレードで北海道日本ハムファイターズに移籍。このとき、2年後のメジャーリーグ行きを希望し問題となった。
- 2006年、念願のメジャーリーグ、ニューヨーク・メッツに移籍。しかし、開幕枠に残れずマイナースタート。4月19日、戦力外通告を受ける。
- 2006年4月20日、ニューヨーク・メッツとマイナー契約を締結し、メッツ傘下3Aノーフォーク・タイズに所属。
- 2006年11月15日、メッツより解雇通知を受ける。
[編集] エピソード
PL学園高等学校では甲子園に出場することはなかった。東北楽天ゴールデンイーグルスの沖原佳典とは亜細亜大学時代の同級生。
2001年は兄の入来智(この年はヤクルトだが、前年までは兄弟共に巨人でプレー)と共にオールスター戦に兄弟登板する。また2001年シーズンはヤクルトの藤井秀悟と最後まで最多勝利を争うが、1勝足らずで(藤井14勝)タイトルを逃す。しかし巨人では同年最多の勝星を挙げる。(ちなみに勝率はリーグトップだったが、セ・リーグは最高勝率のタイトルが無かった為、結局タイトル獲得は出来なかった。)
2001年のシーズン終了で勇退(引退)する長嶋茂雄監督、槙原寛己投手、斎藤雅樹投手、村田真一捕手に最終戦で引退挨拶・セレモニーが行なわれ、入来は槙原に花束を渡す。(他、原辰徳ヘッドコーチが長嶋監督へ、上原浩治が斎藤に、阿部慎之助が村田に花束を渡す)
2002年シーズン中、対阪神タイガース戦で打者ジョージ・アリアスの背後に大きく外れる速球を投げ乱闘騒ぎの原因となった。それ以降彼の得意技は「背面を通す快速球」として紹介されることが多くなった。
実母は非常に熱心に応援する事で有名で、兄の智の試合の為に渡韓もしたが、祐作の試合もよくスタンドで観戦し激励している。
2006年4月28日、禁止薬物違反として50試合の出場停止処分を受け、2006年6月に復帰。(日本人選手の薬物違反による出場停止は2005年5月に当時に2Aバーミンガムに所属していた亜大の1年後輩である養父鉄以来、2例目。)
巨人時代には長嶋監督から理由は不明だが「岡田」と呼ばれていた。当時巨人には岡田展和が所属しており、ある試合で岡田とともにリリーフに備えてブルペンで投球していたところコーチから「岡田、準備しておけ」と言われ、当然入来は休んだが場内アナウンスのコールは「ピッチャー、入来」。もちろん入来はろくに肩を作ることが出来ずに登板し、打ち込まれ試合後にコーチなどから「お前監督のことなんだから準備しておけ!」などと叱責された。
[編集] 通算成績
- 212試合登板 35勝35敗3セーブ 防御率3.73
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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