立浪和義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立浪 和義(たつなみ かずよし、1969年8月19日 - )は、1980年代後半~の中日ドラゴンズ所属のプロ野球選手(内野手、外野手)。右投げ左打ちで、背番号は3番。1998年~2000年と2005年には一時期左翼手として出場した(前年の二塁手は久慈照嘉、後年の三塁手は森野将彦)。ファンからの愛称は「ミスターツーベース」「ミスタードラゴンズ」「タツさん」「タツ」「ナミさん」等
バッティングスタイルは腰を据えてしっかりボールを叩くタイプ。体格の割に長打力もあり、現在通算最多二塁打476本の記録を持っている。コンパクトな構えで球を引きつけてから、鋭い振りでパチンと弾き返す。走攻守すべてに安定した力を発揮するバランス型の選手。中日ファンの間ではミスターツーベース(最近では出場減少もあって二塁打=福留と言うファンもいる)と呼ばれている。応援歌は長らく新人時代に流行したガラスの十代であった。
目次 |
[編集] 人物
- 大阪府済生会吹田病院で出生。チームメイトのタイロン・ウッズや千葉ロッテマリーンズのマット・フランコと同じ日に出生。
- 幼くして父親と死別、母親が化粧品を販売しながら女手ひとつで育て上げた。2歳上の実兄がいる。
- 高校1年生の頃、合宿所で2年先輩の投手桑田真澄と相部屋。桑田の実弟の外野手桑田泉は立浪と同級生。他の同期には橋本清(元読売ジャイアンツ)、野村弘樹(元横浜ベイスターズ)、片岡篤史(元阪神タイガース)がいる。
- PL学園時代の監督・中村順司(現・名古屋商科大学野球部監督)いわく「面倒見のいい選手」。
- 目標に掲げるアマチュア選手も多い。その例が福留孝介である。当時小学生だった福留が高校時代の立浪に憧れ、小学生時代の福留が中日のキャンプを訪れたときにサインをしたことは有名。
- 95年オフ中日に移籍してきた1歳下で自身と同じく甲子園で活躍しドラフト1位でプロ入り(ロッテ)し高卒新人時代から一軍で活躍していた前田幸長と親友となった。
- 近年では球団における様々な打撃記録を更新しているので、「打てば球団記録」と言われている。しかしこれだけの天才的なバッティングセンスを持ち、輝かしい打撃成績を残してきたにもかかわらず打撃タイトルは一度も獲ったことがない。
- 中日一筋なので日本一経験は一度もない。以前から同僚の山本昌と共に「日本一」という言葉が彼らの口から頻繁に発せられている。そのためか中日以外のファンからも「彼らに日本一を経験させて引退させてあげたい」と同情される事が多かった。
- 家族は妻(1990年に結婚)と一女があるが梅宮アンナとの不倫が報じられた事がある。立浪本人のコメントは特に無いが梅宮辰夫が交際の事実が有るようなコメントを残している。
- 入団以来、チームの中心として活躍し続けている彼を球団OBの星野仙一や高木守道同様「ミスタードラゴンズ」と敬称する者も多い。プロ19年目を迎えた今でもナゴヤドームだけでは無く、全国のドラゴンズファンから一番熱い声援を受ける選手である。将来は幹部候補として、ファンに期待されている。
[編集] 来歴
- 1987年 PL学園高等学校の主将として、甲子園春夏連覇を達成。ちなみに同期に前述の片岡、野村、橋本らがいる。また、野村、橋本以外に続く投手の岩崎充宏(元新日鉄名古屋)がおり、他校ならばエース級である投手3人を擁し、ローテーションを組む強力なチームだった。同年のドラフト会議では南海と競合し、星野仙一監督率いる中日が1位指名で獲得(立浪を外した杉浦忠監督率いる南海の外れ1位は立浪の3歳上吉田豊彦)し入団(契約金5500万)。背番号3の前任者は立浪と入れ替えで西武へ移籍した14歳上平野謙
- 1988年 当時の星野監督は、その守備力を見抜き、ドラゴンズの遊撃の定位置を長年守っていた強打の宇野勝を二塁に追いやり、立浪を遊撃手にすえた。ドラゴンズの高卒ルーキーでは22年ぶりの開幕1軍スタメン出場を果たし、このシーズンは110試合に出場。打率.223、22盗塁、21犠打を記録し、中日のリーグ優勝に貢献。入団時にプロレベルに達していたと言われる守備・走塁の技術を高く評価されて新人王巨人勝呂博憲、呂明賜両候補に大差をつけ獲得)。高卒ルーキーとしては初のゴールデングラブ賞を受賞した。(同年ゴールデングラブ受賞者では5歳上の同僚の外野手彦野利勝、平野、桑田、高校の2年先輩の一塁手清原和博)
- 1989年 肩の故障で欠場する。遊撃から肩の負担の少ない二塁手にコンバートされる。星野監督は88年オフの過ごし方がなっていないと激高。この年、故障の影響でシーズン30試合出場にとどまる。
- 1990年 打率.303、155安打で復活。以降は完全にチームの中心打者となり、7度の3割と安定した成績を残す。
- 1993年 6月11日から守備機会連続無失策を続け、それまでの記録を更新。シーズン守備率.997を残し、記録を継続したままシーズンを終える。1994年 6月11日の対巨人戦で松井秀喜の放った強烈な打球を弾いてしまい、記録は712回でストップ。最終戦で中日と巨人の勝者が優勝が決定するという、10.8決戦ではヘッドスライディングをした際に肩を脱臼し退場。立浪の代走は明治大学出身のルーキー鳥越裕介で、その後そのまま立浪が守っていたショートの守備に就いた。
- 1995年 2度目のゴールデングラブ賞を受賞。ゴールデングラブ賞はこの年から3年連続で受賞する。
- 1996年 自己最高となる打率.323を記録し、リーグ3位の記録を残す。この年、ベストナインに選出される。
- 1997年 4月4日横浜戦で、立浪と同い年で同じ87年ドラフト1位盛田幸妃と、1歳下で後のチームメイトになる谷繁元信のバッテリーから球団史上唯一の開幕戦初回先頭打者本塁打を記録。この年オープンしたナゴヤドーム初の公式戦第1号本塁打となる(この記録は日本プロ野球史上唯一のPL出身者による開幕戦初回先頭打者本塁打でもある。MLBでは立浪の6年後輩松井稼頭央が2004年に記録)。8月22日の対阪神戦ではサイクルヒットを達成した。
- 1998年 巨人松井、高橋由伸と共にセリーグ外野手部門でオールスターゲーム・ファン投票選出(88年遊撃手、96年二塁手で選出。史上初の三部門)される。
- 1999年 打率・本塁打共に良い成績ではなかったが、勝利打点はチーム1位とリーグ優勝に貢献。優勝を決めた9月30日の対ヤクルト戦では、最後の打者ロベルト・ペタジーニの打球を二塁手としてキャッチした(胴上げ投手は宣銅烈)。この頃から、モチベーションが低下したのか、身体のキレが失せ、プレイに精彩を欠いていた。星野監督は奮起を促す意味で、立浪と同様に精彩を欠いていた中村武志を監督室に呼び出し、「お前達の引退試合は来年用意するから」と通告。立浪はこの年のシーズンオフに肉体改造に励み、翌シーズン4年ぶりの打率3割を記録し、復活。
- 2001年 12月より社団法人日本プロ野球選手会理事長に就任。労働組合日本プロ野球選手会副会長も兼任し、選手の地位向上や野球の普及活動にも力を注ぐ。
- 2002年 長距離打者不足にあえぐ山田監督時代、7月7日の対横浜戦に自身初の4番に抜擢され(翌年もしばしば4番を打った)、その試合でホームランを放っている。この年チームの打点王になる。そして5月22日のヤクルト戦では五十嵐亮太からサヨナラ満塁本塁打を放った。
- 2003年 6月26日1000得点達成。7月5日PL学園の2年先輩の清原に先んじて2000本安打達成。名球界入り。10月1日には150本塁打を達成。また、この年プロ野球史上初めて3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)でのゴールデングラブ賞を受賞するなど記録づくめの年となる。この年のオフに井端弘和を球団選手会長として自ら指名し、その職から外れる。
このオフには選手兼任を条件に監督候補にも上がっていた(本人が打診があったことを『サンケイスポーツ』に二塁打の日本記録達成時に語っている)。 - 2004年 落合監督就任一年目に3番打者としてチームを牽引。ホームラン数は減ったが、得点圏打率で一時5割を超えるという驚異的な勝負強さで優勝に大きく貢献する。このシーズン、後半調子を落としたものの、5月、6月に月間MVPを獲得するなど5年ぶりの優勝への貢献度は大きい。また、2度目のベストナインに選出される。日本シリーズでは、第2戦の7回裏、松坂大輔から放った同点3ランホームランを打つなど活躍したが、チームは3勝4敗と惜しくも日本一を逃した。
- 2005年 開幕直後は調子が良かったが、5月6日のタイロン・ウッズが暴行による出場停止処分を下された頃から調子を崩し、徐々に打率は低迷した。また、この時期から三塁の守備に自信をなくし、時折軽いイップスになるなどして、監督に「サード、もう自信なくなりました」と自ら左翼へのコンバートを志願。2005年末に東海地方のローカル放送局であるCBCで放送されたドラゴンズ特番によると、落合監督はこの時がシーズン中で最も困惑したことらしい(理由は、あらゆる場面を想定して準備をする落合監督の頭の中に左翼立浪は構想になかったため。しかし、打線の構成上、あらゆるケースに対応するバッティングセンスのある立浪3番は欠かすことが出来ない条件だったからと語っている)。5月19日に450本目の二塁打を放ち、福本豊の持つプロ野球通算二塁打の最多記録を更新。さらに6月4日、2275本目の安打を放ち、高木守道の持つ通算安打の球団記録を更新している。
- 2006年 プロ入り以来19年連続で背番号3を背負う。これは、榎本喜八の18年連続を抜いてプロ野球最長記録。森野将彦と三塁のレギュラーを争い、シーズン直前の森野のケガにより開幕スタメンとなる。4月7日の巨人戦では、上原浩治投手から通算2本目となるサヨナラ満塁本塁打を放った(ちなみにサヨナラ満塁本塁打数は歴代1位タイ記録)。6月17日のソフトバンク戦で犠牲フライを放ち、球団新記録となる970打点をマークした。さらに同年6月30日の広島戦で、プロ野球タイ記録となる5度目の1試合5安打を記録。しかし、7月からは三塁手の座を森野に奪われ、スタメンから外れ、代打の切り札となる。シーズン終盤の10月4日の対広島戦、一死一、二塁のチャンスで高橋建からサヨナラタイムリーツーベースを放つ。お立ち台で「今までのサヨナラヒットの中で一番嬉しい」と発言し、涙を見せた。PL学園時代の同級生であり、無二の親友である片岡篤史の引退試合となった10月12日(リーグ優勝後)甲子園での阪神戦は落合監督に志願して3番レフトでスタメン出場。引退セレモニーでは花束を贈呈し、片岡と熱く抱擁を交しながら号泣した。
- これまで4度のリーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも涙を呑んでいる。(1勝4敗が3回(1988年、1999年、2006年)と3勝4敗が1回(2004年))そのため、同じくリーグ優勝を4回経験している山本昌(山本昌広)とともに日本一にかける思いは強い。
[編集] 略歴
- 身長・体重:173cm 70kg
- 投打:右投左打
- 出身地:大阪府吹田市
- 球歴・入団経緯:PL学園高-中日(1988年- )
- プロ入り年度・ドラフト順位:1987年(1位)
- 英語表記:TATSUNAMI
- 推定年俸:22500万(2006年)
- 守備位置:二塁、三塁、遊撃、外野(左翼)、DH(交流戦、日本シリーズ時)
[編集] 主なタイトル、記録
- 新人王(1988年)
- ベストナイン(1996年=二塁手・2004年=三塁手)
- ゴールデングラブ賞(1988年=遊撃手・1995年-1997年=二塁手・2003年=三塁手)
- 712連続守備機会無失策(二塁手としてのセリーグ記録・1993~1994)
- 7年連続30二塁打以上
- 月間MVP3回(02年6月、04年5月、同年6月)
- オールスター出場10回
- 10犠飛(1シーズンの球団最多記録)
[編集] 通算成績(2005年シーズン終了時)
- 試合 2209(歴代18位、球団2位)
- 打率 .286(歴代47位、球団10位)
- 打数 8209(歴代8位)
- 安打 2346(歴代11位、球団1位)
- 二塁打 466(歴代1位)
- 本塁打 166
- 長打 668(歴代24位、球団1位)
- 塁打 3382(歴代23位、球団2位)
- 得点 1149(歴代17位、球団1位)
- 打点 948(歴代37位、球団2位)
- 犠飛 61(歴代21位、球団1位)
- 四死球 1091(歴代11位、球団1位)
- 盗塁 132
[編集] 関連項目
中日ドラゴンズ - 2007 |
---|
0 金剛弘樹 | 1 福留孝介 | 2 荒木雅博 | 3 立浪和義 | 5 渡邉博幸 | 6 井端弘和 | 7 李炳圭 | 8 平田良介 | 9 井上一樹 | 11 川上憲伸 | 12 岡本真也 | 13 岩瀬仁紀 | 14 朝倉健太 | 16 佐藤充 | 17 川井進 | 18 中里篤史 | 19 吉見一起 | 20 中田賢一 | 21 樋口龍美 | 22 藤井淳志 | 23 鈴木義広 | 25 新井良太 | 26 小田幸平 | 27 谷繁元信 | 28 田中大輔 | 29 山井大介 | 30 石井裕也 | 31 森野将彦 | 32 中川裕貴 | 34 山本昌 | 35 上田佳範 | 36 平井正史 | 37 小山良男 | 38 斉藤信介 | 39 清水将海 | 43 小笠原孝 | 44 T.ウッズ | 45 森岡良介 | 46 デニー友利 | 48 沢井道久 | 49 マルティネス | 50 佐藤亮太 | 51 中村一生 | 52 春田剛 | 53 柳田殖生 | 54 鎌田圭司 | 55 前田章宏 | 56 中村公治 | 57 英智 | 58 石川賢 | 59 小川将俊 | 60 高江洲拓哉 | 61 久本祐一 | 62 普久原淳一 | 63 堂上剛裕 | 65 金本明博 | 67 高橋聡文 | 68 長峰昌司 | 69 小林正人 | 201(育成選手) 加藤光教 | 202(育成選手) 竹下哲史 | 未定(育成選手) チェン | 未定 堂上直倫 | 未定 福田永将 | 未定 浅尾拓也 | 未定 菊地正法 | 未定 岩崎達郎 | 未定 清水昭信 | 未定 西川明 | 未定 三澤興一 | 監督 落合博満 | 二軍監督 辻発彦 | 球団 | |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 | 名球会 | 1969年生