天皇
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天皇(てんのう) は日本古代からの君主の謚号および称号(君主号)。最近の説では天皇号が成立したのは天武朝以降であるという見解が有力であるが、初代神武天皇以降の歴代君主の地位や個人についてもいう。本項では主に称号や地位としての「天皇」を取り扱う。個人としての歴代天皇については別項「天皇の一覧」を参照のこと。現在、この称号を有する日本は125代目の天皇をいただいており、神話上の人物とされる天皇を除いても世界最長の歴史を持つ。
目次 |
[編集] 天皇と称号
天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。
「天皇」という称号の由来には道教の「天皇大帝」(北極星)あるいは「扶桑大帝東皇父」から採ったという説や唐の高宗は皇帝ではなく天皇と称したことがあり、これが日本に移入されたのではないかという説、五世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等、ほかにも諸説が多い。はじめて採用されたのは推古朝説も根強いがが、7世紀後半の天武天皇の時代とするのが最近の有力説である。
天皇という呼称は律令に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国内外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。自称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。
なお、奈良時代、天平宝字六年(762)~同八年(764)に神武から持統天皇までの四十一代、及び元明・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているがこれは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。
平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝をさす言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると法皇とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。
大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇(てんのう)」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)ため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸海軍の統帥権を有することから「大元帥」とも言われ、口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。
なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「お上」「聖上」などの婉曲表現で呼ぶことはまれである。また天皇や皇族には姓氏はない。これは、日本における姓とはそもそも天皇から臣下に対して下賜されるものであったことに由来する(賜姓皇族を参照)。
[編集] 日本国憲法における天皇
現在において天皇(てんのう)は、日本国憲法(1946年11月3日 公布、1947年5月3日 施行)第1章に記されている。
[編集] 天皇の地位
天皇は日本国と日本国民統合の「象徴」とされ、これは主権の存する日本国民の総意に基づくものとされる。天皇が日本国憲法の下における「元首」であるのか否か(あるいは、そもそも日本国憲法の下における元首は誰か)については議論があるが、「象徴」ではあっても立憲君主制国家として事実上の「元首」であるとの意見も強い。対外的には国家元首である。
[編集] 天皇の皇位継承
皇位継承は世襲のものであって、皇室典範によって細かく定められている。皇室典範第1条では皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承すると記されている。
[編集] 天皇の国事行為
天皇は日本国憲法の定める国事に関する行為のみを行うとされ、国政に直接関与する権能を有しない。天皇の行う国事行為は以下のとおり。
- 国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命。
- 内閣の指名に基づく最高裁判所長官の任命。
- 憲法改正、法律、政令及び条約の公布。
- 国会の召集。
- 衆議院の解散。
- 国会議員の総選挙の施行の公示。
- 国務大臣や、その他の官吏の任免の認証。
- 外国への全権委任状、大使、公使の信任状の認証。
- 大赦、特赦、滅刑、刑の執行の免除及び復権の認証。
- 栄典の授与。
- 批准書、外交文書の認証。
- 外国の大使、公使の接受。
国家の儀礼式典のほとんどを行っている。また天皇の国事行為は、内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う。
[編集] 大日本帝国憲法における天皇
大日本帝国憲法はプロイセンやベルギーの憲法を参考に作成されたと言われている。
法文を素直に解釈すると大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無かった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの君主と実態においては近しい存在であったという意見もある。しかしながら重要な政治的局面で影響力を行使することもあったため異なるという意見もある。大日本帝国憲法下の天皇の法的位置付けについては憲法学上さまざまな論争がなされてきた。詳細は天皇機関説、外見的立憲君主制などを参照のこと。
[編集] 天皇の地位
大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められていた。
[編集] 天皇の権限
大日本帝国憲法において天皇は以下のように記されている。
国会において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、国会や内閣の権限を弱め、天皇の名を借りて政府や軍部の権限を強化してあるといえる。この構造が昭和に入ってから軍部に大きく利用されることとなり、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。
[編集] 神道と天皇
天皇の歴史は神話までに遡ることができる。現在においても天皇と神道は新嘗祭などで結ばれている。国事行為だけでなく宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝等「祈り」を行う存在としての天皇も意義深い。亦、江戸時代までは仏教とも深く繋がっていた。
[編集] 天皇の歴史
[編集] 神代と天皇の発祥
天皇家の系図は、『古事記』・『日本書紀』を初めとする史書に基づいて作られ、その起源は紀元前660年に即位した神武天皇、さらにはその始祖であるクニノトコタチなどの神々に始まるとされている。しかし、日本書紀は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる。そのため、天皇家の祖先にまつわる伝承や事績、および初期の天皇の実在については、歴史学的にはその実在性を疑問視されることも少なくない。 特に欠史八代の天皇については、古代中国の革命思想に則って天皇家の歴史を水増したのではないかと指摘する、否定説がある(実在説もある)。
実在説の一つとして八木壮司が主張する『倍年説』がある。倭と中国から呼ばれていた当時の日本では一年が今の半年として数えられたとする学説が「魏略」を根拠にして存在する。これに従えば、神武天皇は127歳生きていたのではなく、その半分の約63歳で天寿を迎えたことになり学問的にも信頼性が高まる。また神武天皇即位も紀元前660年ではなく西暦181年になる。
歴史学的に証明できる天皇家の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王)が統治していた古墳時代あたりまでである。3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、このときに成立した王朝が天皇家の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国の卑弥呼の系統を天皇家の祖先とする説、天皇家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。
[編集] 学問的に実証可能な古代の天皇
中国の史書『宋書』倭国伝には、5世紀初めから同終末にかけて存在した倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王は、仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定されており(比定には諸説ある。詳しくは別項「倭の五王」を参照のこと)、天皇家の始源をこれら五王に求める意見もある。これら五王は、中国王朝から倭国王に封じられており、対外的にはこの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下ワカタケル大王」「ワカタケル大王」とあり(ワカタケルは雄略天皇の実名)、「治天下大王」または「大王」が用いられていたことが判る。
この頃までの代々の天皇の出自や系統については、伝承通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったとする見方も存在する。 例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇・顕宗天皇が王位を継いだとされているが、実際は王位簒奪ではなかったかとの説もある。また、仁賢の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇5世の孫とされる継体天皇が王位に就いているが、これにより仁徳以降の血統が途絶えていることから、王朝交代があったとする説も一部にある。しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が日本書紀などに限られていることもあり、前述の各説は具体的な論拠に乏しいため異論も多く、あくまで数多ある諸説のうちの一説に過ぎない。当時は、一つの血統が倭国王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で倭国王位が継承されたとする考え(連合王権説)も一部の学者に見られる。
不安定な基盤にのっていた王統が確立したのが継体の子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇家を中心とした政府が形成され始めることとなった。また、この時期、中国王朝(隋)に対して「倭国王」ではなく「天子」と自称したことが中国史書(隋書)に見え、中国から独立する意思をうかがわせる。このことから、天皇の称号の成立をこの7世紀初頭に求める意見もある。
[編集] 大化の改新から院政まで
大化の改新等で7世紀中期から中国(唐)の法令体系である律令を導入することにより、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは豪族らの反発により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武帝は、自らの実力で皇位についたことを背景として、絶対的な権力を行使していった。この天武が事実上の初代天皇、すなわち天武が天皇の称号を創始したとする説が有力となっている。天皇号の開始時期は、前述の7世紀初頭とこの天武期とに説が分かれ、激しい議論がくり広げられている。なお、天皇号が成立する以前の王号は、倭国王・倭王(外国向け)および治天下大王(国内向け)だったと考えられている。
さて、律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。しかし、平安初期の9世紀中後期ごろから、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。特に858年(天安2年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、史上初めての幼帝であった。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことに伴って政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇家の統治権を請け負うことが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇家の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。この頃、関東では桓武天皇五代の皇胤平将門が平氏一門の内紛を抑え、近隣の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて蜂起して自ら新皇(新天皇)と名乗り、朝廷の任命した国司を追い払って関東7カ国と伊豆に自分の国司を任命した。新国家の樹立とも言えるが、3ヶ月で平定された。
平安後期の後三条天皇は、摂関家が握っていた統治権を天皇家へ取り戻すため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな政策を展開していった。後三条は天皇譲位後も上皇として政治の運用にあたることを企図していたが、その実現の前に没した。後三条の子の白河天皇は後三条の遺志を継ぎ、上皇(院)として政務に当たるようになった。この院政の展開により、藤原氏の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、自身の政庁である院庁を置き、治天の君(事実上の国王)として君臨したが、それは父権に基づくもので、外祖父として権力を握った摂関政治よりも一層強固なものであった。治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士を登用したが、このことが結果的に平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場をもたらすこととなる。鎌倉時代には院の軍事力強化を目的とした西面武士を設置した。院政はこの後、江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から鎌倉時代末の後宇多上皇までの約250年間と見られている。
[編集] 中世
中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。 しかし承久の乱(1221年)以降の天皇の権威の失墜は著しく、モンゴル襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していたことは事実であろう。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。天皇家でも、大覚寺統と持明院統に分裂した。鎌倉幕府の崩壊後、一時天皇親政が行われた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝が南朝を吸収することで収拾された。 この頃は天皇の権威の低下が著しく、室町幕府三代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府四代将軍義持がこれを固辞している(義満が自分より義嗣をかわいがっていたため、父を快く思わなかったためといわれている)ので、その真相については未だ定かではない。戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しく、烏帽子を逆さまにして物乞いをしたり、共同浴場に出向いたりする公家も生じるようになったが、有力戦国大名や織田政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後まで制度として継続することになる。
[編集] 近世
江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。庶民の尊敬の対象は大名や征夷大将軍(上様、将軍様)に向けられ、天皇や公家は庶民とは間接的に縁のある存在として敬意が払われる程度であったとも考えられている(天子様)。しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、儀礼上全て天皇から任命されるものであり、権威の源泉として重要な意味を持つ存在であった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁(すけひと)親王に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。
しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。
[編集] 明治維新
幕藩体制が動揺し始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言され、選挙によって大統領(総裁)を選出し、外国の一部の承認も得たが、官軍に程なく平定された。
この戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。これにより皇室制度は、プロイセン式の立憲君主制を採ったが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、皇室制度は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。こうした皇室制度は、国民から隔絶した絶対的な権力を有する天皇制絶対主義であると規定する学者も少なくない。
- ※「天皇制」とは本来コミンテルンの用語であり、それに該当する歴史的用語は「皇室制度」である。[要出典]
[編集] 明治以降
明治31年(1898年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説に「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」とあったため、「共和演説」として問題となり、皇室制度の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた。その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。明治44年(1911年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳富蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。その後は、政府の方針に対する世論の批判をかわす目的で天皇の存在は利用され、天皇を批判する言論は不敬罪として厳重に罰せられたこともあって、天皇批判は影を潜め、「冬の時代」とも称されるようなった。
その後、二度にわたる憲政擁護運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、皇室制度を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。しかし、大正14年(1925年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を否定する言論や運動が禁止された。昭和10年(1935年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で排撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在は大きく利用されることとなった。
世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を大きく利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、政府の方針を無視し満州事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴宣言を通じて勢力を強めていく。この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。その権威が頂点に達したのは太平洋戦争時であり、昭和13年(1938年)の国家総動員法が発令された頃より、軍部により現人神(あらひとがみ)と神格化され、天皇を中心とした戦時国家体制が作られた(皇国史観を参照)。この時代には、ドイツのナチス政権やイタリアの戦闘者ファッショ政権といったファシズム体制が成立し、日独伊三国同盟が結ばれたことから、日本の皇室制度を天皇制ファシズムとする説もある。
[編集] 第二次世界大戦終結後
第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では、軍国主義の一因として天皇を処罰し、皇室制度を廃止すべきだという意見が強かったが、日本政府がその維持を強く唱えたこともあり、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるためにも皇室制度は存続させるべきだという方向性を取った。天皇の戦争責任についても多くの意見があったが、アメリカの外交的策略により、占領当局は追及しないこととした。当時、民間には、天皇をめぐる各種の意見が生じたが、戦前、皇国史観のために被害を受けた津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。その外、天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする説も、南原繁・佐々木惣一・中曽根康弘らが唱えたが、一部に止まった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、撤回した。
この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも肩の力を抜いた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。さらには新日本建設に関する詔書を発表し、このなかで“天皇は現人神ではなく人間である”という所謂「人間宣言」もなされた。しかしこの宣言は、一時期国民が意識していた“日本国民は優秀な民族であり、世界の支配者である”という概念を否定する文脈にあること、詔書の冒頭において「五箇条の御誓文」を掲げていることに見られるように、従来の天皇のありかたそのものを否定するものでは無かった。
昭和天皇は人間宣言をした後、日本全国各地への巡幸をはじめたが、多大な犠牲者を出した地上戦が行われ当時日本と切り離され連合軍の直接統治下におかれた沖縄は、対象とされなかった。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられ、たが、47年にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった。尚この巡幸の目的には、新たな象徴天皇崇敬の国民の意識形成があったともいわれる。
[編集] 天皇と課題
[編集] 皇位継承権論争
1965年の秋篠宮文仁親王の誕生から2006年の悠仁親王の誕生まで男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そのため、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、旧皇族を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている(詳しくは別項「皇位継承問題」を参照のこと)。
[編集] 国体論争
大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ国民主権原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。特に尾高・宮沢論争と佐々木・和辻論争が有名。
[編集] 国家元首としての天皇と憲法改正に関して
自民党憲法改正試案、民主党鳩山氏憲法改正試案、民主党小沢氏憲法改正試案、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇にすべしと提言している。 議案提出権を有しない衆議院憲法調査会、及び議案提出権を有しない参議院憲法調査会では天皇の地位に関して現在も議論中であり、結論は出ていない。また両院憲法調査会で、そもそも天皇制を廃止すべきとの意見は出なかった。読売新聞憲法改正試案では天皇制は現状維持と述べている。
[編集] 天皇と海外の国々
海外における天皇への感情は概ね良好である。特に現存する世界最古の君主としての崇敬の念を以てみられることもある。昭和天皇の大葬の礼の際には世界の163ヶ国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れ、親日国のインドは3日間、ブータンでは一ヶ月間喪に服した(日本は2日間)。米国のフォード大統領は昭和天皇の前に立った時には足が震えたというエピソードもある。また、明仁親王の天皇即位の際にも世界中の多くの国家元首が参列に訪れた。
しかしその一方で、昭和天皇は第二次世界大戦での敵国関係にあったオランダ・イギリス等からは憎悪の目でみられる事もあった。一例として昭和天皇のオランダ訪問の際には一部の人々から火炎瓶や卵を投げつけられる事もあった。
タイ、ブータンの王室とは交友が深い。ポーランド国民も天皇や皇室に対して親しみが深いと言われる。
[編集] 外交儀礼における地位
元首の呼称に基づく外交儀礼(プロトコル、国際礼譲)では国際的な慣行から通常次のような扱いが為されている。
- 天皇・皇帝・女帝(Emperor、Empress) > ローマ教皇(Pope) > 国王・女王・スルタン(King、Queen、Sultan) >首長、公など(Emir、Prince、Duke)>共和国の元首
天皇の英語に於ける呼称は基本的に「Emperor」である。これに拠り儀礼的には通常、他の称号を帯びる君主より上位の存在として扱われる。プロトコールの実例としては、国際的な場において同席する際にイギリスのエリザベス女王が天皇に上座を譲ること、ローマ教皇が日本を訪れた際、自ら皇居を訪れた事などが挙げられる。
但し、これらの扱いはあくまで外交儀礼に於けることで、現実の国際社会の政治・経済・軍事等様々な局面においてまで、一部でいわれる「天皇が世界最強の権限・権力・権威を有している」ということを示すものではない。また中国からは会食の際の天皇並皇后席が江沢民国家主席(当時)を中心にはさむ様にされ、韓国からは金大中大統領が天皇に道を譲らない等、最上とはいえない待遇を受けることもあった。
[編集] 朝鮮半島での天皇への感情と呼称
朝鮮半島が属していた中華文明圏では、「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。その為、冊封国に位置した朝鮮の歴代君主は皇帝と称する事は殆どなく同時に、日本の天皇が皇や帝を称するのも認めず「倭王」等の称号を用いたりした。但し新羅等は一時期、日本に朝貢しておりその様な間は皇や帝と称していた可能性もある。近世に入って日清戦争後に朝鮮は中華文明圏から離脱し大韓帝国となると天皇を皇帝と称した。その後の日本統治下の朝鮮では当然に天皇の称号が用いられた。
しかし独立後は英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず独自に「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し産経新聞ソウル支局長黒田勝弘に拠れば、2006年9月の悠仁親王誕生時、韓国日報を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという[1]。
この原因として、朝鮮が清国から独立した後、大韓帝国と改称して皇帝を称するようになれたのに日本により再び「皇帝」から「王」に格下げされたことを指摘する説がある。しかし大韓帝国の独立は日本が日清戦争に勝利して清との間に結んだ下関条約によること、中国は日清戦争に敗れてから列強に蚕食されるようになったが「天皇」の呼称が定着しているなどから、韓国の「小中華主義」の影響も指摘される。
1992年に韓国のMBCが李朝の末裔が天皇を狙撃する番組「憤怒の王国」を放送しこれに実際の明仁親王の即位式の映像を用いた為、日本の外務省から抗議を受けた。亦、日韓ワールドカップの決勝戦と閉会式の際、貴賓席着座の際に金大中が後に続く天皇に進路を譲らずに自分の後ろを通らせた事に対し一部から非礼であると非難の声が出た。
金大中大統領は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたがマスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。そして次の盧武鉉大統領は天皇という称号が世界的かどうか確認していない為「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。但し公的な外交儀礼では天皇と言う称号を用いる。
[編集] 天皇の配偶者の称号
明治維新以前は一般的に側室を認める時代の為、天皇には皇后以外の複数の配偶者がいた。天皇の配偶者は、出身の家柄に応じて名乗れる称号は決まっていた。
明治維新以降、国民の間では民法の影響で一夫一妻制が浸透したので、皇族や貴族の中においても一夫一妻制が広まった。ただ、明治天皇には側室がいたため、最初に一夫一妻制を実現した天皇は大正天皇である。それ以後の天皇、皇族は一夫一妻制に基づき、配偶者は一人である。
[編集] 関連項目
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- 皇室用客車
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- アインシュタインの予言
- 天皇制廃止論