ロジャー・マリス
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ロジャー・マリス(Roger Maris, 1934年9月10日 - 1985年12月14日)はアメリカ・メジャーリーグの外野手。右投左打。ミネソタ州出身。1961年にベーブ・ルースが34年間保持してきた年間最多本塁打記録を破ったことで知られる。
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[編集] 少年時代
Roger Eugene Maras(後に名字をMarisに変更)はクロアチア移民の息子として米国ミネソタ州ヒビングに生まれる。ノースダコタ州グランド・フォークスで育った彼は同州ファーゴのシャンリー高校に通い、野球を始めとする様々な競技で才能を発揮していった。 マリスは早い時期から個性的な一面を有しており、オクラホマ大学にアメリカン・フットボールの選手としてスカウトされた際も、バスから降り大学側からの出迎えがないのを見ると失望したマリスはファーゴに帰ってしまった。
[編集] 大リーグでの活躍
[編集] 若手時代
1957年にクリーブランド・インディアンスでメジャーデビューを果たしたマリスは、翌年カンザスシティ・アスレチックスにトレードされ1959年に虫垂手術で45試合欠場するものの自身初のMLBオールスターゲーム出場を果たす。 同年12月、7人もの選手とのトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍。当時のアスレチックスは実力選手を頻繁にヤンキースにトレードに出すことで知られ、マリスも例外ではなかった。
ヤンキースでの初めてのシーズンであった1960年は、ニューヨーク特有の辛辣なメディアからのプレッシャーを他所に大活躍の年となった。長打率・打点・長打でリーグ1位に輝き、本塁打数でも同僚のミッキー・マントルに1本差で続く2位であった。素晴らしい守備も評価され、ゴールドグラブ賞をも受賞。同年のアメリカンリーグMVPに輝いた。
[編集] ベーブ・ルース越え
1961年、アメリカンリーグは新規球団の加盟を認可し、それまでの8チームから10チームに膨れ上がった。これにより結果的にリーグ全体の投手の質は低下し、ヤンキースの本塁打数は記録的なペースで積み上げられていった。その年に撮られた有名な写真はマントル、マリス、ヨギ・ベラら6人もの1961年ヤンキース選手を並べたもので、最終的にはこの6人合計で207本もの本塁打を打った打線は「殺人打線(Murderer's Row)」として他チームの投手陣から恐れられた。
シーズンも半ばに入ると6人の中でもマリスかマントル、あるいは両者がルースの34年間保持してきた年間最多本塁打記録を更新する事は確実な情勢になってきていた。好意を持って報じられたマーク・マグワイアとサミー・ソーサの1998年の本塁打争いとは異なり、当時のスポーツ記者は2人の不仲を騒ぎ立てる様な記事を多く書き立てていった(ベラは後年のインタビューで両者の不仲を否定)。
ルースの記録はニューヨークの保守的記者にしてみればまさに「聖域」であった。また、その他にも当時のメディアは生え抜きで記者との関係も良好だったマントルを応援する風潮になっていたのに対し、マリスは外様であり無口だったため「真のヤンキーズの一員ではない」などの批判にさらされ、悪者扱いする人たちも少なからずいた。
そんなマリスをさらに逆風が襲う。ルースの時代では154試合で60本を達成したのに対し、マリスの時には現行の162試合制であった事からコミッショナー事務局は、ルースの記録をマリスが154試合以内で破らない限り両者の記録は併記され、参考記録扱いになると発表した。
154試合目が終了した時点でマリスはまだ59本しか打っていなかったが、1961年10月1日にヤンキー・スタジアムでのシーズン最終戦対ボストン・レッドソックス4回裏に第61号を放ち、記録更新を達成。しかし、この時の記憶は彼にとって決して好ましいものとはならなかった。後年インタビューでマリスはまるで自分が悪いことをやっているかのように報じられ、大変なストレスが溜まったと述べている。また、別のインタビューでは記録を破るどころか近づかない方がよかったのかも知れない、とも語っている。
同年、2年連続となるアメリカンリーグMVPを受賞。
[編集] 残りの野球人生
1962年にマリスは4年連続、そして最後となるオールスター出場を果たす。本塁打記録のイメージが強いため彼の守備能力は軽視されがちだが、同年のワールド・シリーズ最終戦9回では同点タイムリーを防ぐ強肩ぶりを発揮し、ヤンキースの世界一に貢献する。
しかし、怪我がマリスの野球人生を次の4年間に渡って停滞させる。特に医者の診断ミスにより手の中の骨折が判明した際は1965年シーズンのほとんどを棒に振る結果となってしまった。また、その2年前に全国放送されていたミネアポリスでの試合でトンネルをした後に野次る観客に向け中指を立て、悪いイメージを米国中に植えつけてしまった。結局マリスは1966年シーズン終了後にヤンキースを去らざるを得なくなり、追われるようにセントルイス・カージナルスとのトレードに出されてしまった。
だが、愚直とも言われる中西部気質のマリスは都会にいた時とは異なりセントルイスのファンに暖かく受け入れられた。現役最後の2年間をセントルイスで過ごしたマリスは1967年と1968年のカージナルスのナショナルリーグ制覇に貢献し、その内の1967年にはプレイオフで打率.385をマークしワールド・シリーズ制覇も達成。それらに感動したチームオーナーでビール会社アンハイザー・ブッシュのオーナーでもあったグッシー・ブッシュはマリスに引退後ビール配送業者としての第2の人生を斡旋した。
[編集] 引退後
ヤンキースは1984年7月21日に背番号9の永久欠番を発表し、ヤンキー・スタジアムレフトスタンド後方にあるモニュメント・パークにマリスの業績を称えるレリーフを設置。そこには「名選手であり、大リーグの歴史の中に最も印象深い章の一つを刻んだ筆者」との文字が書かれている。
マリスは1983年に悪性リンパ腫と診断され、これをきっかけに癌の研究治療費の寄付を目的とした毎年恒例ロジャー・マリス有名人ゴルフ大会を立ち上げる。1985年12月14日にヒューストンで51歳で死去。
死後、1991年にマリスのシーズン61本塁打は公式記録に変更された。
[編集] その他
- 育ちの故郷であるノースダコタ州ファーゴでは依然英雄として人気が高い。彼の名を博した道路や博物館に癌センターなどが存在している。また、これらはマリスのアメリカ野球殿堂入りを果たそうとする動きの一部でもある。
- 彼の死後、2001年にはマリスとマントルの本塁打記録への挑戦を描いた映画[[61*]]が公開。その中にはマリスが実際受けた嫌がらせの数々やストレスによる抜け毛が描写されている。マリス役はバリー・ペッパーにより演じられた。
- 2005年、マリスを越える61本塁打以上を放った3選手(マグワイア、ソーサ、バリー・ボンズ)にステロイド使用疑惑が浮上した際、ノースダコタ州議会はマリスの記録が正当な記録であると迫る文書を大リーグ機構に送った。
- マリスは日本における県民栄誉賞に匹敵するノースダコタ州ラフライダー賞を授与されている。
[編集] 所属球団
- クリーブランド・インディアンス:1953年-1958年途中
- カンザスシティ・アスレチックス:1958年-1959年
- ニューヨーク・ヤンキース:1960年-1966年
- セントルイス・カージナルス:1967年-1968年
[編集] 通算成績
年 度 |
球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
四 球 |
三 振 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1957 | CLE | 32 | 116 | 358 | 61 | 84 | 9 | 5 | 14 | 51 | 8 | 60 | 79 | .235 | .344 | .405 |
1958 | CLE-KCA | 5/35 | 150 | 583 | 87 | 140 | 19 | 4 | 28 | 80 | 4 | 45 | 85 | .240 | .294 | .431 |
1959 | KCA | 3 | 122 | 433 | 69 | 118 | 21 | 7 | 16 | 72 | 2 | 58 | 53 | .273 | .359 | .464 |
1960 | NYY | 9 | 136 | 499 | 98 | 141 | 18 | 7 | 39 | 112 | 2 | 70 | 65 | .283 | .371 | .581 |
1961 | NYY | 9 | 157 | 590 | 132 | 159 | 16 | 4 | 61 | 142 | 0 | 94 | 67 | .269 | .372 | .620 |
1962 | NYY | 9 | 157 | 590 | 92 | 151 | 34 | 1 | 33 | 100 | 1 | 87 | 78 | .256 | .356 | .485 |
1963 | NYY | 9 | 90 | 312 | 53 | 84 | 14 | 1 | 23 | 53 | 1 | 35 | 40 | .269 | .346 | .542 |
1964 | NYY | 9 | 141 | 513 | 86 | 144 | 12 | 2 | 26 | 71 | 3 | 62 | 78 | .281 | .364 | .464 |
1965 | NYY | 9 | 46 | 155 | 22 | 37 | 7 | 0 | 8 | 27 | 0 | 29 | 29 | .239 | .357 | .439 |
1966 | NYY | 9 | 119 | 348 | 37 | 81 | 9 | 2 | 13 | 43 | 0 | 36 | 60 | .233 | .307 | .374 |
1967 | STL | 9 | 125 | 410 | 64 | 107 | 18 | 7 | 9 | 55 | 0 | 52 | 61 | .261 | .346 | .405 |
1968 | STL | 9 | 100 | 310 | 25 | 79 | 18 | 2 | 5 | 45 | 0 | 24 | 38 | .255 | .307 | .374 |
通算 | 11年 | * | 1463 | 5101 | 826 | 1325 | 195 | 42 | 275 | 851 | 21 | 652 | 733 | .260 | .345 | .476 |
- 太字はリーグ最多。
[編集] 獲得タイトル・記録
- アメリカンリーグMVP:2回、1960年、1961年
- ゴールドグラブ賞:1回、1960年
- 最多本塁打:1回、1961年(61本)
- 最多打点:2回、1960年(112打点)、1961年(142)
- オールスターゲーム選出:4回、1959年-1962年
[編集] 関連項目
[編集] 参照項目
[編集] 関連書籍
- Okrent, Daniel, and Steve Wulf (1993). Baseball Anecdotes. Collins.
- Pietrusza, David, Matthew Silverman & Michael Gershman, ed. (2000). Baseball: The Biographical Encyclopedia. Total/Sports Illustrated.
- 1968 Baseball Register published by The Sporting News
[編集] 外部リンク
- Obituary, New York Times, December 15, 1985
- Baseball Library
- Tribute - Minnesota Public Radio
- Article on North Dakota's Senate Resolution
- Roger Maris - Baseball Hero
- Roger Maris Museum official website
- Give it Back To Maris - petition to return the single season home run record to Roger Maris
- The Sporting News' Baseball's 25 Greatest Moments: The Summer of '61
- Retrosheet