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ジャイアント馬場 - Wikipedia

ジャイアント馬場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジャイアント馬場
プロフィール
リングネーム ジャイアント馬場
馬場正平
グレート・ババ
etc.
本名 馬場正平
ニックネーム 東洋の巨人
世界の巨人
身長 209cm
体重 135kg
誕生日 1938年1月23日
死亡日 1999年1月31日
出身地 新潟県三条市
所属 全日本プロレス
スポーツ歴 プロ野球
トレーナー 力道山
グレート東郷
フレッド・アトキンス
デビュー 1960年9月30日
田中米太郎(桂浜)戦
引退 1999年5月2日
ブルーノ・サンマルチノ&ジン・キニスキー戦(引退セレモニー。パートナーはザ・デストロイヤー


ジャイアント馬場じゃいあんと ばば1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、日本プロレスラー全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。

本名は馬場 正平ばば しょうへい)。

プロレスラーに転向する以前は、読売ジャイアンツプロ野球選手であった。

目次

[編集] プロフィール

新潟県三条市出身。第49・55・57代NWA世界ヘビー級王者(日本人としては初のタイトル奪取)。全日本プロレス創立者。血液型はO型。身長209cm(読売ジャイアンツ時代の発表は203cm)、体重135kg(全盛期は145kg)。リングネームは高い身長からではなく、プロ野球読売ジャイアンツの元投手だったことから、師の力道山命名したという。生涯現役のまま逝去した。

日本プロレス界では力道山アントニオ猪木と並ぶビッグネーム。日本プロレス史上最大の巨体を持ちながらも、その物腰の柔らかさからCMやテレビ番組などでも人気を博す。

[編集] 略歴

  • 新潟県三条実業高校野球部出身。在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球読売ジャイアンツ投手として入団する。背番号は59。新潟県第1号のプロ野球選手だったということもあり、将来を嘱望されていた。
  • 1960年、巨人を自由契約になり(一軍での通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。唯一責任投手となった1敗は杉下茂の200勝達成試合でのもの)、大洋ホエールズの練習生としてキャンプに参加した際、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め、野球を断念し、現役を引退。
  • 1960年4月には日本プロレス(日プロ)に入団、力道山の元に弟子入り。力道山からは特別可愛がられる。新弟子の中で唯一給料を貰い、アパートから道場に通っていた。同年9月30日デビュー。その後何度かアメリカに渡り、数々のタイトルに挑戦する。アメリカ時代のリング名は、当初は本名の馬場正平(ショーヘイ・ババ)であったが、「フランケンシュタイン・ババ」、「ビッグ・ババ」、「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なリングネームがあったようだ。アメリカではプロモーターの指示に従ったことで、大舞台での試合も多く、当時は大変な知名度があったとされる(その為、『日本人として初めてアメリカで成功したレスラー』と言われている)。アメリカでの師匠は、フレッド・アトキンス(後にタイガー・ジェット・シンもアトキンスの指導を受けている)。
  • 1963年力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国(その際、マネージャーだったグレート東郷から、高額の年俸を保障するのでアメリカに定住するように勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。それ以外にも、アメリカでの生活で、売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦に陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも、自分も同じようになった時の事を考えて断ったという理由もあった)。
  • 1965年頃には既に日プロのエースとなり、インターナショナル選手権を獲得。アントニオ猪木とのいわゆるBI砲タッグでインターナショナル・タッグ選手権を獲得するなど華々しい活躍を見せた。
  • 1972年日本テレビの後押しで全日本プロレスを旗揚げ。社長になって以降は練習不足により筋肉がなくなり動きが鈍くなっていった。やせこけた体でよたよた動く様をよく物まねされるようになる。
  • 1974年ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得。
  • 1984年ハンセンブロディ組のツープラトン・パイルドライバーで首を痛めて次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップ。
  • 1985年、スタン・ハンセンにPWFヘビー級王座を奪われたのをきっかけにタイトル戦線から退く。
  • 最後にリングに上がった1998年12月5日までで、通算5769試合を行った。
  • 1999年1月31日、東京医大病院にて、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全により死去。享年61。一切外部には命が危ないことを漏らしておらず、最期を看取ったのも妻の馬場元子、姪の馬場幸子、お世話係の和田京平仲田龍の4人だけであった。このことは、三沢光晴ジョー樋口にさえ知らせていない。これは妻・元子の意向である。

[編集] 人物・エピソード

  • 1988年から1996年まで放送された日本テレビ系クイズ番組「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」に出演。様々な珍解答で、視聴者の笑いを誘った。同番組の初代司会者であった逸見政孝とのやりとりは秀逸だった。解答席のデスクに設置された早押しボタンを放送中ごく普通に押した際、デスクボードごと破壊したことで有名(本人曰く、「早押しクイズは苦手」と言っていた)。他にも「何を作っているのでしょうか?」で、終了5秒前にボタンを押したはいいが、正解が「ボクシンググローブ」であるところを「赤ベコ」と答え、逸見を始めとする出演者全員を悶絶させたこともある。逸見の追悼番組で山城新伍は逸見はこの時はしばらく起き上がれないほど笑っていたと言う。また特番では、代表者になるもののボタンを押さず、業を煮やして高田純次がボタンを押したこともあった。さらに、その時の正解は「トゥシューズ」だったために高田がバレリーナを真似て正解を伝えたが、本人は「オッパイにあてるやつ」と答えてしまい周りを悶絶させたこともあった。
    • 後に山城新伍は、「(演出として)スタッフと相談して、馬場さんに内緒でデスクボードに細工をして落ちやすくしていたのだが、馬場さんはそれを察していて、知らんふりしてボードを叩き落してくれたようだ」と語っている。
    • また、逸見がガンのため入院して以来、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、大好きな葉巻を断ったエピソードも紹介し、馬場の人柄を讃えた。
    • 野沢直子からはこの番組限定で「ジャイヤント」と呼ばれていた。
    • 四択問題ではフリップに十字の線を引いて四分割し、正解と思われる場所に円を付けていた。正解が違うとこっそりフリップの向きを変えて正解であるかのように見せていた(当然無効であり、逸見らに「ダメですよ!」と突っ込まれていた)。
    • 最終回スペシャルも自身の試合が終わってから駆け足でスタジオに駆け付けた。
  • 当初は、テレビタレントなどにものまねされることに対し明らかな不快感を示していたが徐々にそういったおふざけを容認するようになり、そのキャラクターや風貌から、多くのバラエティ番組CMに起用されることとなる。また、全日本プロレスでの自らを主役とした、ギャグタッチのアニメビデオをリリースされるまでに至った。こと、早くから馬場をものまねのレパートリーにしていた関根勤には、初対面の際「ぼくはアッポーなんて言ってないよ」と、関根に文句を言ったが、指で汗をぬぐい大きく息をつく動作なんです、と実演して見せたところ「それは似てる」と、それ以来本人公認のお墨付きを与えたというエピソードもある。また、「笑っていいとも!」に出演したとき、突然関根にババチョップを打ち込んだ。関根は機転を利かせ、馬場のものまねでヒザをついた。
  • 修行時代のヒンドゥースクワットで、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている(これに負けじと、アントニオ猪木も一緒にスクワットをし、汗の水溜りが出来たそうだ)。当時は脚力も強く、逆エビ固めをかけようとする相手レスラーを、膝を伸ばす力だけで跳ね返した。
  • 新人時代には、アントニオ猪木と十六回対戦したが、猪木は一度も馬場には勝てなかった。また、馬場は、その事実を自ら話そうとはしなかった(決まり手は猪木よりも身長が高いことを利用したフルネルソンが多い)。アメリカ武者修行時代に築いた人脈により多くのレスラーの招聘をし、タイトルマッチを日本で行った。
  • 馬場自身が「私は力道山に一度も殴られた事が無い」と発言しているのは有名だが、それは理不尽な暴力を受けた事は無いという意味で、自伝によると力道山から空手チョップの手ほどきを受けた際、皮膚を鍛える為に特殊な農具で手を何度も思い切り叩かれたという、叩かれてる間力道山に「どうだ痛えか」と聞かれたが、「痛くないと言えば余計に力を加えるし、痛いと言えばそのうち痛くなくなると言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と回想している(練習をサボってるのが見つかれば額を叩いて出血させるのが力道山のシゴキだった)。力道山には弟子に酒の一気飲みを強要する癖もあったのだが、馬場も例外では無く、殆ど酔わないのをいい事に何度も飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。馬場は野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由で腕立て伏せもしなかった)、巡業で津軽海峡を渡る際、青函連絡船で力道山の指示でいつも到着するまでバーベルを持たされていた。馬場は北海道に行くたびにあの時の事を思い出すと語っていた。弟子達の中で馬場が唯一給料を貰っていたのは、プロ野球ファンであった力道山が元巨人軍投手の馬場のプライドに配慮した為と思われる。「新弟子はジムに住み込み」というのを知らなかった馬場は、力道山に「(給料は)幾らですか?」と単刀直入に聞き、「巨人時代は幾ら貰ってたんだ?」「5万です」「よし5万だ」で話はまとまった。もっとも、翌月には「試合もしてねえのに5万は高すぎる。3万だ」と値切られた。
  • 野球選手時代に、特大スパイクに住み着いた猫を追い払えなかったエピソードや、喧嘩もろくにした事がないのでプロレス入り当初は困惑したというような話が多くある為か、ジャイアント馬場には紳士的な印象が強く残っているが、自伝には(レスラーの中では喧嘩早い方ではないとはいえ)数多くの武勇伝が記されている。あくまでリング上での話である。
  • 生涯現役を貫いた馬場の業績を称え、1999年5月の東京ドーム大会(没後興行)は「ジャイアント馬場引退記念興行」と銘打たれた。「引退試合」にはスタン・ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。マッチメイクはジャイアント馬場・ザ・デストロイヤー組vsブルーノ・サンマルチノジン・キニスキーの時間無制限一本勝負。
  • 晩年に巨人のOB会に出席した時に、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きつき、馬場がおんぶされるような格好で甘えるという珍しい構図になった。目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりに言われた時はとても嬉しかったと本人が語っていた。

[編集] 得意技

恵まれた体躯を生かし、主に、相手のロープ反動を利用したカウンターキックである、「十六文キック」をはじめ、「空手チョップ」、「河津落とし」、「ココナッツクラッシュ」など、長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技とした。

ジャイアント馬場の代名詞的な技。ロープに振った相手が反動で返ってくるところにカウンターで蹴りを叩き込む。時には自ら走りこんで蹴りを当てていくこともあった。全盛期は見た目も威力も必殺技としての説得力を十分に兼ね備えていた。しかし、実際に足のサイズは16文もなかったらしい。語呂の良さから十六文にしたという説と、アメリカで購入した靴のサイズ表記が16となっていたためという説がある。左足で蹴るのは、プロ野球時代の名残。タッグマッチで、パートナーにお前もキックだと言われた際、反射的に左足で蹴ったのが、技のきっかけとの事。
若手の頃に使われていた技。他レスラーも使うポピュラーな技、いわゆるドロップキックなのだが、同氏の巨体から繰り出されるこの技は、迫力・破壊力とも他レスラーのそれらの技とは一線を画している。日本人プロレスラーとしては、ズバ抜けて巨体であった同氏限定の称され方。
  • 河津掛け落とし
もともとは相撲の技で、相手の投げを堪える「河津掛け」が原型。力道山がルー・テーズのバック・ドロップ対策として披露したが、馬場は自分の片足を相手の片足に掛け、跳ね上げながら相手の首を抱えて後方に反って倒す技に昇華させた。
馬場の師匠でもあった力道山の得意としていた空手チョップの応用技。相手の頭部に垂直に振り下ろす。意外なことに、手刀を叩きつける際に、まれに相手の頭部あるいは額を割り流血させるほどの威力がある。相手の耳に落とす「耳そぎチョップ」という応用もある。これもまた同氏限定の称され方。
  • 股割き
主に若手の頃に多用されていた関節技。相手の両足を掴み、股を強引に開かせることによって痛みを与える、単純明快な技。デビュー戦もこの技で勝っている(相手は田中米太郎)。
  • ランニングネックブリーカードロップ
ジャイアント馬場自身が考案し、日本人として初めて披露した技。若き日、ライバルであったドリー・ファンク・ジュニアに対して初めて披露した。ロープに振った相手が反動で返ってくるところに、自らも走りこんで首に腕を掛けそのままマットに叩きつける。破壊力は抜群で、ジャック・ブリスコやハーリー・レイスとのNWA世界ヘビーを初めとしてこの技で多くのタイトルを奪取している。まさに、ここ一番の切り札である。
  • ココナッツクラッシュ(ヤシの実割り)
ヘッドロックのような体勢で相手の頭を抱え込み、膝に叩きつけながら前方に倒す大技。「この技が出ると調子がいいんです」というテレビ解説はお約束。
  • アームブリーカードロップ
相手の手首を掴みながら腕にまたがり、そのまま全体重をかけてマットに相手ごと落とす技。かつて上田馬之助とのシングルマッチにてこの技を使い、レフリーストップに追い込んだ事がある。
  • サーフボードストレッチ
相手の背後から仕掛ける。相手の両腕を掴み、背中の方で引っ張り上げて痛めつける。
馬場の隠れた必殺技。2mを超す長身の為、威力は抜群で、アメリカ遠征中はよく使っていたが、国内ではアントニオ猪木の得意技だった事もあり、ほとんど使う事は無かった。
  • ドリル・ア・ホール・パイルドライバー
相手の頭を自分の股にはさみ、逆さまに持ち上げてそのまま脳天をリングにたたきつける。馬場は当時のレスラーの中で、この技をもっともバランスよく美しくきめることができる1人であった。長身の馬場が使えば威力は絶大である。
  • ジャイアント・ニードロップ
倒れている相手に、トップロープから膝を落とす。全盛期のフィニッシュ技として好んで用いられた。
  • ジャイアント・ギロチンドロップ
おなじく全盛期のフィニッシュ技。倒れている相手めがけて膝裏を落とす。

上記のほか、巨体に似合わず器用な部分も持ち合わせ、脇がためなど寝技も得意とした。
晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて同氏の必殺技としてファン・マスコミに認識された。「ジャイアントラリアット」「ジャイアントDDT」などはその典型例である。また、スタン・ハンセンとのタッグ時のみ限定で、十六文キックとウエスタン・ラリアットを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション」も披露した。

[編集] 主な戦績

  • 1964年5月29日 豊登とタッグを組み、G・キニスキー、C・ハリケーンと対戦し勝利。アジアタッグ選手権王者に就く(初のタイトル奪取)。
  • 1965年11月24日 ディック・ザ・ブルーザーと対戦し勝利。インターナショナル・ヘビー級選手権を獲得。
  • 1967年10月31日 アントニオ猪木と組み、T・タイラー、B・ワット組と対戦し勝利。インターナショナル・タッグ選手権を獲得。
  • 1971年12月7日 アントニオ猪木とタッグを組んでの最後の試合。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組に敗れる。
  • 1973年10月9日 ジャンボ鶴田との初タッグ。ドリー・ファンク・ジュニアテリー・ファンク組の持つインターナショナル・タッグ選手権に挑戦したが、引き分けて奪取ならず。
  • 1974年12月2日 ジャック・ブリスコと対戦。60分3本勝負、2-1でブリスコを下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。日本人選手初。
  • 1979年10月31日 ハーリー・レイスと対戦。60分3本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に再度就く。
  • 1980年9月4日 ハーリー・レイスと対戦。60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に三度就く。

[編集] 獲得タイトル

  • NWA世界ヘビー級王座…第49代(防衛1回)、第55代(防衛1回)、第57代(防衛0回)
  • インターナショナル・ヘビー級王座…第3代(防衛21回)、第5代(防衛18回)、第7代(防衛10回)
  • PWFヘビー級王座…初代(防衛38回)、第5代(防衛15回)、第7代(防衛3回)、第9代(防衛3回)
  • アジアヘビー級王座…第6代王者。大木金太郎から奪取したが、1度も防衛戦を行わずに返上。
  • インターナショナル・タッグ王座…11度獲得。
    • 第9代(防衛0回)、10代(防衛11回)、12代(防衛4回)、14代(防衛14回)…パートナーはアントニオ猪木
    • 第16代(防衛2回)…パートナーは坂口征二
    • 第23代(防衛12回)、25代(防衛2回)、27代(防衛9回)、29代(防衛19回)、31代(防衛1回)、33代(防衛4回)…パートナーはジャンボ鶴田
  • アジアタッグ王座…3度獲得。
    • 第11代(防衛7回)、13代(防衛3回)…パートナーは豊登
    • 第17代(防衛4回)…パートナーは吉村道明。4度の防衛後、馬場がインター二冠王になったため王座を返上した。
  • NWA世界タッグ(デトロイト版)…1度獲得。
    • 歴代は不明(防衛0回)…パートナーはジャンボ鶴田。1度も防衛を行わずにタイトルを返上した。

[編集] 性格

力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。

新日本プロレスを立ち上げてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情は無かったようである。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会う時の態度は全くと言っていい程違っていた。馬場に対する猪木の言動の裏には、滅多な事では動かない馬場の性格を見越した上での、一種の甘えがあったと思われる。本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスの幹部の腐敗ぶりに愛想を付かして退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田との感情的なしこりは、日本プロレス崩壊後大木金太郎らと全日本プロレスに移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした事と(事実上の吸収合併だった)、すぐに移籍して来なかった元仲間に対する馬場の不信感で決定的になったという。

野球をしていた当初、一度、スパイクシューズを履かずにストッキングのまま練習に出てきたことがあり、ひどく叱られたことがあったが、一向に戻ってスパイクを履こうとはしなかった。巨大なスパイクの中に、猫が子供を産んでしまったというのが、その理由であった。プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し、副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。ギャラの約束を必ず守り、レートを360円から下げず、丁重に扱ったことで外国人レスラー間の評判は高かった。無論当時は「名外国人を本場アメリカから呼ぶことに団体の意義・名誉のあった時代」であり、日本人レスラーへの給与形態などはやや違ったようだ。ズル休みなどは大物外国人でも絶対できなかったという。NWA副会長であったことから、ビンス・マクマホン・ジュニアも、馬場に対しては頭が上がらなかった。マクマホンがWWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している(馬場は控室ではしゃぎ回っていた幼少時代のマクマホンを覚えており、後年に馬場を訪ねて来日した際も「ビンス(シニア)の倅」としか思っていなかったと言う)。

外人頂上決戦は、全日本ならではの名物メインであった。特にタッグマッチではザ・ファンクス対地上最凶悪コンビ、ファンクス対超獣コンビ、ハンセン、ジョニー・エース(もしくはダニー・スパイビー)組対殺人魚雷コンビのカードは出色で、猪木がメインとして絡む事の多かった新日本とは対照的に、マッチメイクにも柔軟性があった。また、NWA王者リック・フレアーAWA王者リック・マーテルという本場米国でも実現不可能な夢のカードをも実現させた。

契約には厳しいことで知られ、ジャパンプロレスとして参戦していた長州力の造反に対しては非常に厳しかった。しかし、天龍源一郎メガネスーパー社から引き抜かれ、SWSへ移籍した際、憤慨していたジャンボ鶴田に対して「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と優しく諭したのも有名である。これは天龍と馬場の間に十分な話し合いが持たれていた結果であるが、天龍にくっついて契約期間が終了していない全日勢がゾロゾロSWSに流れていった際には「話が違う」と激怒した。

馬場は辞めていった日本人選手を二度と全日本マットに上げることはしなかったが、その弟子はリングに上げた(冬木弘道の弟子の、邪道外道等)。師匠の事で弟子が巻き添えになる事はよくあることだが、馬場は若い芽を摘もうとは一切せず、師匠の事とは別の事と割り切って、その弟子達をリングに上げた。その点は特に馬場の人柄が表れている。

英語の能力は日本人レスラーでは随一だった。アメリカのレスリング・シーンに多大な影響力を持ったのも英語がよくできたからだといわれるほか、同郷の女優・水野久美と同じアパートに住んでいたことがある。

歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎司馬遼太郎のファンだった。他にも絵画などを趣味に持つ。「引退したら(当時別荘を持っていた)ハワイで絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。水戸黄門の大ファンで、欠かさず見ていたという。アイドルとして人気絶頂だった松田聖子に初めて会った時、「テレビは水戸黄門しか見ないから知らない」と言ったという話や、高倉健に会った時にはファンの人かと思い「はい、どうも」と座ったまま握手をしたは有名。逆に東野英治郎と初めて面会した時は、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。また、中谷一郎と会った時には「おう、弥七」と声をかけ、高橋元太郎と会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。本編だけを見るため、役者の名前を知らなかったのだ。水戸黄門に忍者などのキャラクターが出るようになると「とっぴな事はやらない方がいい」と苦言を呈していた。東野英治郎時代のような典型的な勧善懲悪ものが好みだったようだ。

もごもごとしたしゃべり方や、こもった低音の声質に特徴がある。それがものまねのネタになりやすかった。故郷・新潟の風景を題材にした「砂山」を歌うのが好きで、くぐもった声からは意外だが馬場の歌はなかなか上手いという話もある。

負傷のためプロ野球選手の道を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話す。当時のプロ野球界の最高峰であった巨人の「ON(長嶋茂雄王貞治)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いがでてしまった」という逸話を晩年に語っていた。但し、経営者として節税出来たことから、新聞で発表される長者番付の馬場の順位は下位であった。本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で5、6百万稼いでいた。

彼の体の大きさはビートたけしによくネタにされた。「巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の森の頭を叩いてしまった」「投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた」「タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった」「車のサンルーフから頭を出して運転していた」「飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる」「ゴルフもショートコースはパターしか使わない。カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった」「一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180°倒したらオレの腹の部分に頭がのった」など。これらのネタは、学生時代にビートたけしのオールナイトニッポンの熱心なリスナーであり投稿者でもあった、消しゴム版画家でエッセイストでもあったナンシー関が考えたとも言われる。本人も著書の中で、ジャイアント馬場の大きさについてのネタを考え出すといくらでも浮かぶと語っている。

シュート(真剣勝負・ガチンコ)を超えたもの、それがプロレス」という名言を残した(後に弟子の三沢が小川直也とタッグで対戦し(三沢、力皇vs小川、村上)、完全に小川、村上を子供扱いにし、馬場のこの名言を完全に実行したような象徴的な試合となった)。他団体が格闘技路線を進めていたころの全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった名言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元週刊プロレス編集長「ターザン山本」が考え出したものである。だが、馬場がこのコピーを大変気に入っていたことは事実である。

「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」のキャッチコピーを揚げたかたわら、一試合だけ異種格闘技戦ラジャ・ライオンを行う。色々と事情があったようだが、あの一戦を行った事は馬場の汚点だったという意見も多い。しかし馬場の計算で異種格闘技戦はつまらないと見せつけるためにやったという説もある。実際にこの試合はあっけなく終わり、往年のプロレスファンから見れば凡戦だった。

巨人軍時代、下垂体腫瘍により視神経が圧迫されて視力障害を引き起こしたため、開頭手術をしたことがある(当時の技術では成功率が非常に低く、医者から失明する可能性も高いと言われたが、僅かな可能性に賭け、手術は無事成功する。ちなみに、もし手術に失敗し失明した場合はマッサージ師になろうかと考えていたと後に語っている)。

大変健康に気を遣うと言われているが、後楽園ホールのロビーでも常に葉巻を吹かしていた。長らく糖尿病を患っていたこともあり、酒は付き合い以外では飲まなかった。また、食事も一般人ほどしか取らず、毎日恵比寿の自宅から六本木にあった全日本プロレスの本社までウォーキングするのが日課だった。若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来サウナ好きでもあった。

師匠である力道山はスポンサーの前で「プロレスラーの頑強さ」を見せることをしていた。デビュー前の馬場は、スポンサーの前で、力道山に「ジョニ黒」を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」そうだ。一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、チェイサーに差し出されたのは「ビール」だったという。

ジャイアント馬場の代名詞「16文」(約38.4cm)は、日本に合う靴がほとんどなかったため、アメリカ遠征の際入手した靴にアメリカ規格の「16」(約34cm)とあるのを見たプロレスマスコミが16文と誤認して、そのまま定着したもの。一部では「16文ではなく16インチ(約40.6cm)」という更に誤った説もあった。

付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの、何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って全盛期の強烈な張り手を食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、別の興行で大仁田はまたしても馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず興業中の約1ヶ月間、スーツに赤ジャージのズボン姿で通した。

元子夫人との間に子供はいない。馬場は巨人症(下垂体腫瘍肥大)であり、それが遺伝することを恐れて子作りをしなかったといわれている(実際には巨人症が遺伝することはほとんどない)。甘いもの、特にあんこが好きと述べていた。テレビ番組「ニュースステーション」の企画である「最後の晩餐」でも人生最後に食べたいものを大福と答えている。

1本数万円の葉巻を愛用し、1個2500円のチーズバーガーを食べ、三沢に1個1万円のメロンを潰して作ったメロンジュースを振舞う、新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど、お金の使い振りは豪快なところがあったが、所属選手の年俸は新日本プロレスよりはるかに安かった。また、選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などを制度として行わなかったため、馬場の死後、選手大量離脱の要因となった(馬場死後の新体制はそれを導入する方向だったが、オーナーである馬場元子(馬場夫人)が「馬場さんの時代にはなかった」と拒否した)。 なお、その遺産は、渋谷税務署に8億7千万円と公示された。

長州力らジャパンプロレス勢が全日本マットに参戦した当初、いわゆる「ハイスパート・レスリング」に対し、シャムネコのケンカと揶揄したが、しかし皮肉にも結果的にはそれまでアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本の試合内容に変革を起こす事となった。それは長州の全日本マット参戦前後のVTRを見ればスピードの違いがよくわかる。その後長州に呼応した天龍が長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築く結果となった。

1987年11月、所属選手のハル・園田(マジック・ドラゴン)が、全日本プロレスから派遣されて南アフリカ共和国のプロレス興行に参戦する際に、結婚したばかりの園田夫妻にポケットマネーを提供して、興業後の新婚旅行を奨めた。ところが、南アフリカに向かう飛行機がインド洋上でテロ(?)によって空中で爆発。ハル・園田とその夫人が事故死することとなった。馬場は生涯、園田の派遣を決めたことと新婚旅行を奨めたことを悔やんでいたという。リング上で弔辞を読んでいる時に号泣した。

新日本の前田日明の長州顔面蹴り事件に馬場は「オレならクビにしない。プロレスは何でもありだから」とコメントしたという説もある。実際に全日本マットでは、天龍は輪島大士の顔面を、その数年後には天龍の弟子だった川田も三沢の顔面を容赦なく蹴っていた。

世界中のプロレス界を股にかけた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れた事もある。実際二人は、互いに並外れた巨体を持つ故の孤独を理解できたのか大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、フランスに遠征経験があり、フランス語が話せるマイティ井上を話し相手として帯同させ(アンドレ自身は英語も堪能だったが)、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。

亡くなる約2ヶ月前に徹子の部屋に2週にわたり出演した。奇しくもこれが一般人にプロレスについての最後のメッセージの場となった。馬場は受けの説明等行った。この時初めてテレビで歌も歌った。ハル・園田の飛行機事故死がきっかけで飛行機が怖いとコメントした。黒柳徹子にスクワットのやり方を教え、黒柳はこれがきっかけで今でも毎日スクワットをしている。黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と語っている。

[編集] 入場テーマ曲

使い出したのが80年代中期と比較的遅めでその数年後には中継が深夜に移動したため、アントニオ猪木の「炎のファイター」(イノキ・ボンバイエ)に比べるとプロレスファン以外の知名度は低い。その為、「ジャイアント馬場=日本テレビスポーツのテーマ」というイメージが現在でも持たれている。

[編集] 著書・関連論文

  • 『プロレス入門』小学館、1971年
  • 『たまにはオレもエンターテイナー』かんき出版、1983年
  • 『ジャイアント馬場の16文が行く』ダイナミックセラーズ、1983年
  • 『個性豊かなリングガイたち』ベースボール・マガジン社、1987年ISBN 4-583-02566-1
  • 『16文の熱闘人生』東京新聞出版局、1994年ISBN 4-8083-0485-6
  • 『16文が行く』ダイナミックセラーズ出版、1999年ISBN 4-88493-279-X
  • 『ジャイアント馬場』日本図書センター、2002年ISBN 4-8205-9566-0
  • 香山リカ 「ジャイアント馬場と日本人」 『図書』(岩波書店、1999年5月 第601号)
  • 「NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 ジャイアント馬場巨人伝説 (香山リカ 他)」(日本放送出版協会2006年8月)

[編集] その他

  • 酒井法子がデビュー当時使っていた「のりピー語」では、「馬場ピー」は「大きい」を意味していた。
  • 女優の水野久美は同郷で上京前からの友人。馬場にとって水野はマドンナで、上京後、互いに下積み時代だった頃も馬場は水野の引っ越しを手伝ったりした。
  • 柳田理科雄の『空想科学読本2』では、怪獣やヒーローの能力を比較して最強を決めるための統一基準として「行動形態が怪獣に近い」を理由に馬場を採用、「ジャバ」という新単位を考案している。
  • 2006年8月NHK教育テレビ知るを楽しむ私のこだわり人物伝で、4週にわたり香山リカがジャイアント馬場について語った。
  • 同年12月に阪神競馬場がリニューアルオープン。其れを記念してジャイアント馬場自身の足のブーツが使われている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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