日本の歴史
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日本の歴史 |
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日本の歴史(にほんのれきし・日本史(にほんし))をおおまかに紹介する。
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[編集] 歴史
[編集] 旧石器時代
- 詳細は日本の旧石器時代の項を参照。
日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。
約1万2千年前頃、氷河期が終わり急激な温暖化が始まると、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、次の縄文時代へ入っていった。
[編集] 縄文時代
- 詳細は縄文時代の項を参照。
約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。
この頃の人は縄文式土器を作り、竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。
栽培も行われ、後期から晩期にかけては稲作が行われた。
[編集] 弥生時代
- 詳細は弥生時代の項を参照。
紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。 稲作が伝わり低地に水田を作った人々は、弥生式土器を作り、石器にかえて鉄器を使い始めた。人々が住んだ集落の間では戦いが行われ、周りを濠で囲った環濠集落が生まれた。次第にクニと呼ばれる初期国家が各地に成立する。また墳丘墓も築かれ始め、身分が生じ始めたと考えられている。
この頃の日本は中国から倭と呼ばれている。倭の奴国の王は後漢に使者を送り金印を授けられた。倭国大乱と呼ばれる争いの後には、邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送り、金印や銅鏡を授けられた。卑弥呼は亡くなると大きな塚に葬られ、奴婢百余人が殉葬された。
[編集] 古墳時代
- 詳細は古墳時代の項を参照。
各地に大規模な古墳を築く豪族が現れ、次第に地方政権が北九州、出雲、吉備、畿内、北陸、東海、関東などに生まれた。その中でも畿内のヤマト王権の大王らは各地の政権を配下に組み込み、倭国は統一されていったのではないかとの説もある。
ヤマトタケルの説話はこうした統一の過程を伝えるのだろうか。大王を葬る前方後円墳は各地に広がっていき、古墳には殉葬に代わって埴輪が並べられた。
一、二を争う巨大古墳である大仙陵古墳は難波に住み治水などを行った仁徳天皇の陵、誉田御廟山古墳は応神天皇の陵に治定されているが、古墳の築造年代からは再検討の余地がある。また五名の大王は中国への朝貢も行い、倭の五王と呼ばれる。その中の一人ではないかとされる(雄略天皇)と思われる人名を漢字で刻んだ鉄剣が埼玉県と熊本県で発見されている。
倭国はこの時代朝鮮半島で任那まで領域とし、新羅、高句麗と戦った。
[編集] 飛鳥時代
- 詳細は飛鳥時代の項を参照。
6世紀末期から8世紀初頭までは飛鳥時代と呼ばれ、飛鳥にヤマト王権があった。
8世紀初頭に編纂された日本書紀によると、遣隋使や遣唐使を送って中国の文明を学び、7世紀初めには聖徳太子によって冠位十二階や十七条憲法が定められ。中大兄皇子(天智天皇)らによる大化の改新を経て、7世紀後期には百済の復興を目指して唐と新羅の連合軍と戦うが、白村江の戦いで敗れると、その後は急速に法令や国制が整備されてゆき、皇位を争う壬申の乱を挟んで、8世紀初頭には大宝律令が定められた。
中国の法制(国家体制)を採り入れた律令制は、高度な法体系と官制を持ち、地方統治を五畿七道・令制国・国郡里制(国郡郷制)に体系化する地方官制が確立された。
百済から伝わっていた仏教が、古くからの神道と共に信じられ始め、飛鳥文化や白鳳文化と呼ばれる仏教文化が栄えた。法隆寺はこの頃に建てられた寺で、現存する世界最古の木造建築である。
[編集] 奈良時代
- 詳細は奈良時代の項を参照。
三世一身法や墾田永年私財法により農地が拡げられた。東北地方では多賀城や出羽柵などが設けられ、蝦夷の征服と入植が進められた。
古事記、日本書紀、万葉集などの史書や文学が編まれ、遣唐使による大陸の文化に影響を受けた天平文化が栄え、聖武天皇は都に東大寺を、全国に国分寺を建てた。
[編集] 平安時代
- 詳細は平安時代の項を参照。
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京に都が置かれた。
平安前期には百姓階層の分化が進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。11世紀には藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て新興階層である武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。
奈良期から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名・片仮名の使用が開始し、源氏物語・枕草子に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。
[編集] 鎌倉時代
- 詳細は鎌倉時代の項を参照。
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、本格的な武家政権が始まった。
治承・寿永の乱を経て源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉に鎌倉幕府と呼ばれる政権を開いた。幕府は源氏の将軍が三代で絶えると、北条氏が執権として実権を握り、承久の乱で朝廷を破って、支配を全国に広げ、13世紀末には元寇を退けた。朝廷は六波羅探題に監視され、また両統迭立が始まり大覚寺統と持明院統で交互に皇位が継がれた。
地方では御家人が守護と地頭に任じられ、従来の国司らによる国衙領や荘園の支配を奪っていった。問丸など経済の進展が著しく、中期頃を境として商品経済や貨幣流通などが急速に活発化していく。それは大きな社会変動を生んでいき、悪党や惣村が生まれた。
文化面では運慶と快慶の金剛力士像など、写実的な美術が行われた。また浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、時宗などの新しい仏教が、庶民に広がっていった。
[編集] 南北朝時代
- 詳細は南北朝時代の項を参照。
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と持明院統の北朝に朝廷が分かれた。室町時代の初期に当たる。
大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離れ、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追い、南北朝の争いが全国で行われた。
文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。
[編集] 室町時代
- 詳細は室町時代の項を参照。
14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。
足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開く。孫の足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い日本国王と冊封を受けた。守護大名による内乱が多く、明徳の乱、応永の乱、永享の乱、結城合戦、嘉吉の乱、応仁の乱などと続き、明応の政変を契機に戦国時代に入った。
鎌倉時代から始まった武士による土地の蚕食は、この時代に特に強まり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、戦時を理由に権限が拡張された守護は、実質的な領主へと変化していった武士を配下に守護大名と呼ばれるようになり、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。
西方では倭寇が朝鮮や中国を襲った。北山文化、東山文化などが栄え、能楽や書院造が生まれ、水墨画が描かれた。
[編集] 戦国時代
- 詳細は戦国時代の項を参照。
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼び、各地で戦国大名らが戦いを行った。
この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国はあたかも地方国家の様相を呈し、従来より強権的な大名領国制が確立した。領国間の政治的・経済的矛盾・紛争は、武力によって解決が図られた。
そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などで自領の武力を強力に組織化し、急速に支配地域を拡大し、かつ支配地域内では中世的支配勢力の排除に努めた。しかし、本能寺の変で明智光秀により滅ぼされると、その光秀も羽柴秀吉により滅ぼされ、天下統一事業は秀吉が継承することとなった。
ヨーロッパとの交易が行われ、火縄銃やキリスト教などが伝わった。また一向宗の信徒らによる一向一揆が行われ、特に加賀一向一揆では百年ほど信徒らが加賀国を支配した。
[編集] 安土桃山時代
- 詳細は安土桃山時代の項を参照。
信長から天下統一事業を引き継いだ秀吉は、ほどなく統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。
秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な文化が展開した。
[編集] 江戸時代
*詳細は江戸時代の項を参照。
慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。 豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康は関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍に任じられ、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。幕府は禁中並公家諸法度や武家諸法度で朝廷や大名を統制し、諸大名は参勤交代で江戸と領国の往復を課せられた。海外とは鎖国を行っており、李氏朝鮮との朝鮮通信使や、オランダとの長崎出島における交易が、わずかに行われた。
中期には幕府の財政が悪化し、徳川吉宗による享保の改革、寛政の改革、天保の改革などで建て直しが図られた。末期は特に幕末と呼ばれ、欧米諸国から開国を迫られ、アメリカ合衆国との日米和親条約などの不平等条約が結ばれた。国内では尊皇攘夷の考えが強まり、徳川慶喜は大政奉還で朝廷に政権を還した。
元禄文化や化政文化などの町人文化が栄えた。寺子屋や藩校で広く教育が行われ、歌舞伎が演じられ、俳諧が詠まれ、浮世絵が描かれ、お陰参りなど旅行が行われた。
[編集] 明治時代
- 詳細は明治時代の項を参照。
朝廷とそれを推戴する諸藩は、王政復古の大号令や戊辰戦争などを経て江戸幕府勢力を退けると、新たな政府(明治新政府)を樹立した。新政府は欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県など明治維新と呼ばれる様々な改革を行った。また同時に欧米の文化・文物が導入され、その有様は文明開化と呼ばれた。新政府は帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で韓国併合を行った。
文化面では欧米から新たな学問・芸術が伝来し、それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。
[編集] 大正時代
大正デモクラシーと呼ばれる運動などにより、普通選挙が行われた。
[編集] 昭和時代
大戦景気で沸いた日本だが、その後の大恐慌で経済は沈滞し、社会不安が増大する。その不安を解消しようと満州の植民地化を開始するが、それは中国やアメリカとの反発を招き、日中戦争、さらには第二次世界大戦につながっていく。
日本はアジア諸国を有力に味方につけられず、またアメリカを敵に回すなど幾つも失策を犯し、第二次世界大戦で敗れる。戦後はGHQの占領の下で、今の日本国憲法により、天皇は象徴とされ、国民主権や平和主義などが定められた。サンフランシスコ平和条約により主権を回復し、日米安全保障条約が結ばれると、その後は高度経済成長を遂げ、経済大国と呼ばれるに至った。
文化は、映画が撮られ、漫画が描かれ、ラジオやテレビが流れ、洋服が広く着られ、世界各国の料理が食べられ、集合住宅や超高層ビルなどが建った。
[編集] 平成時代
- (詳細は平成時代の項を参照。)
[編集] 時代区分
- 日本史時代区分表を参照のこと。
[編集] 論争
[編集] 歴史学・歴史観
歴史をどのような立場から見てゆくか、歴史観によって歴史の解釈は変わってくる。以下、近代以降の日本における主要な歴史観・歴史学の変遷を概観する。
- 皇国史観
- 日本は天皇を中心とした政治体制が続いてきたとして、それを正当化する史観。戦前に国定史観として扱われ、小中学校で教育された。
- 唯物史観(マルクス主義歴史学)
- マルクス主義の理論に基づき、歴史の発展を経済中心に見てゆく。実証主義歴史学と並んで戦後歴史学の主潮流をなし、学会に多くの支持者がいた。1970年代後期ごろから次第に衰退していった。
- 実証主義歴史学
- 19世紀ドイツの歴史家ランケによって確立された厳密な史料批判を行い、客観的な事実を確定し、歴史記述を行う。戦前から実証主義歴史学の流れは存在したが、皇国史観の台頭によって傍流に追いやられた。戦後は、マルクス主義歴史学と並んで歴史学の主潮流をなした。
以上の他、次のような歴史観が存在するという主張もある。
- 司馬史観
- 司馬遼太郎の歴史小説に見られる人間観察などを指す。学術的な史観ではないが、政財界を中心に多くの支持者がいる。
- 網野史観
- 中世史家・網野善彦の独特な歴史認識を指す。(「『日本』ありきの日本史」ではなく、「日本列島での人々の歴史」として「日本の歴史」を観る。百姓=農民ではない、など)
- 自由主義史観
- 教育学者・藤岡信勝の唱えた史観。保守勢力を中心に支持者がいる。経済重視の唯物史観への反発から、一部の人物が歴史をリードしてきたという英雄史観的な色彩が濃い。
[編集] 関連