倭
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倭(わ、やまと)は、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称である。倭の住人を倭人と呼ぶこともあった。紀元前後頃から7世紀末頃にかけて、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。
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[編集] 倭・倭人の語源・語義
日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。倭は遙か遠いところを表すとする説、倭は柔順な性格という語義もあり、当時の倭人が中国人から見て柔順に見えたのだとする説、小柄な人びと(矮人)だから倭となったとする説、中国に到着した倭人が自分を指して「わ」(われ=自分のこと)と称したことから倭となったとする説、倭は『わ(やまと)』の音訳とする説などがある。*[1]
また、中国の古書である『詩経』、『小雅』、『四牡』などの書物における「倭」の用字から見て、「倭」は必ずしも侮蔑の意味を含んではいないとする解釈もある。
[編集] 略史
- 倭・倭人関連の中国文献も参照のこと。
[編集] 古代
中国文献においては『論衡』異虚篇第18・恢国篇第58の記事に「倭人」が見えている。同書では倭人が周王へ暢草(薬草)を献上したと記述しており、これは紀元前11世紀頃のことと考えられている。当時、日本列島は縄文時代後期であり、この頃から日本列島と中国との通交が始まったとする見解もあるが、『論衡』の成立が1世紀であるため、同書に依拠することに慎重な見解もある。
『山海経』(戦国-秦漢期成立)には倭が中国東北部にあった燕国に服属していたという記述があり、紀元前6-4世紀頃のことと考えられているが、同書についても依拠することに慎重な見解が存在する。
紀元前2世紀-紀元前後ごろの時期には、倭人は定期的に前漢へ朝貢しており、また約100の政治集団(国)を形成していた(『漢書地理志』)。1世紀中葉になると北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国が後漢へ朝貢している(『後漢書』)が、これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国が後漢へ遣使したと考えられている。その約50年後の2世紀初頭には、倭国王帥升が後漢へ遣使している。文献に名の残る日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられている。これ以降、7世紀最末期までの間、倭・倭人を代表する/統合する政治勢力は「倭国」を称し続けた。(→詳しくは倭国を参照)
帥升の後、3世紀前半に活躍した卑弥呼も魏の国から親魏倭王の称号を授かった。3世紀中葉-後期に成立したとされるヤマト王権の王たちも対外的には倭王・倭国王を称したと考えられており、実際に4世紀後期から5世紀末にかけて中国王朝と活発な通交を重ねた諸王も中国に対して倭王または倭国王を称している(倭の五王)。607年の遣隋使では、倭王ではなく「日出處天子」と称したことが『隋書』に残されている。これには、中国と対等の地位で通交するため、あえて倭を称さなかったとする見解がある。しかしこのことは中国との外交に大きな影響を生じさせたため、その後再び倭を称するようになった。
<中国史書の国号改称記事>
- 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
- 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
- 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
- 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
660年、百済が滅びると倭国は復興を企図、唐・新羅と白村江の戦いを663年におこなうが、敗れた。これを受け倭国内部では、国制整備・国力増強への志向が急速に強まった。そうした中で新しい国家体制、すなわち律令制の構築が精力的に進められていき、7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行直前の701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされている。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えた。
このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されている。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されているが、古田武彦らはヤマトの日本が九州の倭国を奪胎したと理解する九州王朝説を唱えている。また、朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。
[編集] 中世
その後中世から近世にかけても、中国から大和民族を指す場合には「倭」と呼ぶことがあった(→例えば倭寇を参照)。この場合、琉球や台湾などを含め「中国から東の海を隔てた土地から来る人々」を総称する漠然とした呼称でもあったようである。中世以後、日本の国に対しては、倭(国)、日本の他に、扶桑(国)、東瀛という呼称もある。
[編集] 現代
公式の場において使われることはないが、現代の中国や韓国などでは、日本や日本人に対して侮蔑的な意味を込めて倭という言葉を使うことがある。中国では倭寇、韓国では倭奴などの自国語表現が用いられる。