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元寇 - Wikipedia

元寇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Disambiguationこの項目では元寇 (文永・弘安の役)について説明しています。元寇 (日清戦争の頃に盛んに歌われた唱歌)については元寇 (唱歌)をご覧ください。
中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。

元寇げんこう)とは、日本鎌倉時代に、当時中国大陸を支配していたによって二度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

『蒙古襲来絵詞』より。弘安の役における戦闘。「てつはう」による攻撃の場面。
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『蒙古襲来絵詞』より。弘安の役における戦闘。「てつはう」による攻撃の場面。
玄界灘に面した生の松原(福岡市西区)。弘安の役における激戦地であり、『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。元の再度の襲来に備えて、玄界灘沿岸には石造による防塁が築かれ、現在も遺構が残る。写真は当時のものを再現したもの(2005年5月撮影)
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玄界灘に面した生の松原(福岡市西区)。弘安の役における激戦地であり、『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。元の再度の襲来に備えて、玄界灘沿岸には石造による防塁が築かれ、現在も遺構が残る。写真は当時のものを再現したもの(2005年5月撮影)

目次

[編集] 経緯

[編集] 外交交渉から侵攻まで

1260年モンゴル帝国ハーン(※)に即位した元の皇帝クビライ(フビライ)は、1268年日本文永五年・元の至元五年)に南宋攻略を開始する一方、既に服属していた朝鮮半島の高麗を通じて、1266年に日本に初めて通交を求める使者を送ろうとしていた。『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝の進言からとある。しかし高麗は航海の困難を理由に引き返し、クビライに対して日本への通使の不要を説いた。クビライはこれを却下し、再び高麗に命令し、1268年正月に大宰府へと到着、大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)[1]、高麗王書状[2] を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。
※…「元」と言う国名が成立したのは1271年(同国の至元八年)のことである。

日本では、京都の朝廷に代わり鎌倉幕府北条氏が専制を行っており、7代執権北条政村連署北条時宗らが補佐する体制が敷かれていた。1268年3月には時宗が8代執権に就任。幕府では関東申次の西園寺実氏に託して蒙古国書を外交権のある朝廷へ奏上する。朝廷では後嵯峨上皇、亀山天皇、関白の近衛基平を中心に返書に関する評定を行い、黙殺を決定する。幕府では諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。

同年には再び派遣された使節が日本へ上陸したが、これを黙殺した。これを見た高麗に反乱を起していた三別抄から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者[3] が来たがこれも黙殺した。

1271年9月、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。クビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、最終的に武力侵攻を決定する。

『元史高麗伝』によると当初より三つの案が検討された。

  1. 日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き国書により属国にする。この案では損害もでず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。
  2. まず南宋を攻略し服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持していた。
  3. 高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。

高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定されたという。

クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する艦船を作らせ、食糧などを供給した。この時の建造費は高麗が負担し、大小900艘と言われる船をわずか半年の突貫工事で完成させた。これらの動向を察知していた鎌倉幕府は、1272年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じた。73年2月には南宋の襄陽を落とし、三別抄も平定する。

[編集] 文永の役

文永の役
戦争: 元寇
年月日: 1274年10月3日~21日
場所: 九州北部
結果: 日本側の勝利
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 高麗連合軍
指揮官
少弐景資 征東都元帥忻都
戦力
5,000人 26,000人
損害
不明 13500人戦死・溺死
'敵國降伏' - 筥崎宮伏敵門
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'敵國降伏' - 筥崎宮伏敵門

1274年10月(日本の文永11年・元の至元11年)に、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発した。

10月5日対馬10月14日壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代平景隆を自害に追い込んだ。さらに『新元史』によれば、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また元の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。

壱岐の状況が博多に伝わり、京都や鎌倉へ向けての急報が発せられる。日本側は少弐氏や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結しつつあった。

元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。10月20日(太陽暦では11月25日)、船団は東に進み百道原つづいて博多、箱崎に上陸した。

日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。『八幡大菩薩愚童訓』によると、百道原より3キロ東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の高麗軍を撃破した。『竹崎季長絵詞』によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より5百メートル付近まで押し返した。さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。

博多でも少弐景資が元将劉復亨を射倒すなど、海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止した。『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。

 一方、元軍は日本軍の抵抗のため海岸付近より前進できず、終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの元の損害も大きく、軍の編成が崩れた。戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。

『高麗史節要巻十九、二十五』に撤退決定の軍議の様子がある。

元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」

高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」

元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」

撤退は決定したが、当時の艦船では、博多‐高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。

夜中、炎上する箱崎宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄海灘渡海は避けていた)我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄海灘で遭難した。翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされる。[要出典]

定説では日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて元の船団はその夜のうちに撤退したとされる。しかし、これに関しては史料に矛盾する。詳しくは後述の神風を参照。

元は撤退し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず主力は江南に向けられる事になった。

なお、文永の役における両軍の兵力は、元軍が約2万6000(元軍2万、高麗軍6000)、鎌倉軍が約5000程だとされる。

[編集] 弘安の役

弘安の役
戦争: 元寇
年月日: 1281年5月21日~7月7日
場所: 九州北部
結果: 日本側の圧勝
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 高麗連合軍
指揮官
北条実政 征東行省右丞相アラカン
戦力
120,000人 142,029人
損害
不明 130,000人戦死・溺死
 史跡元寇防塁東区筥松。本所の周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する。(2004年8月撮影)
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史跡元寇防塁
東区筥松。本所の周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する。(2004年8月撮影)
 元寇防塁
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元寇防塁

1275年(日本の建治元年・元の至元十二年)、クビライは再び日本に使節を送る。北条時宗はこの使者を全員斬首に処した。(これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる) 元は使者が殺されたことを知らないままに新しい使者を1279年(日本の弘安二年・元の至元十六年)に送り、再び殺される。(総計、5名という説が有力)この年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなった上(後項参照)、再度の使者の処刑にクビライは腹を立てていたため、日本への再度の攻撃を計画し始めた。

1281年(日本の弘安四年・元の至元十八年)に、高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本に向けて出発した。

しかし、日本側は既に防衛体制を整えていた。博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いてこれを迎えたのである。この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされている。いち早く到着した東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが日本軍の切り込みを受ける。文永の役によって元軍の戦法を承知していた日本軍は優勢に戦い元軍を海上に追い落とした。更にゲリラ戦術により元軍を悩ませた。東路軍は遅れてやってきた江南軍と合流した。しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。これを好機と見た武士らは元軍に襲い掛かり、元軍を殲滅した。元軍で帰還できた兵士は後に解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。なお、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らずに殺害したが、交流のあった南宋人に対しては捕虜として助命したという。博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。この戦いによって元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ、残った軍船も、かなり破損された。

なお、弘安の役における両軍の兵力は、元軍が約14万(東路軍4万、江南軍10万)、鎌倉軍が約12万(京都守備軍6万、博多守備軍4万、長門守備軍2万)だとされる。

『蒙古襲来絵詞』より。弘安の役における竹崎季長らによる元の軍船への斬り込みを描いたもの
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『蒙古襲来絵詞』より。弘安の役における竹崎季長らによる元の軍船への斬り込みを描いたもの

[編集] 影響

クビライは三度目の元寇を画策していたが、この時期に元の内部でも反乱が続き、日本へ軍が出せる状態ではなくなり、フビライの死と共に完全に頓挫した。なお、正安3年11月(1301年)に薩摩国甑島の沖に異国船が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものと見られている。

文永の役後、幕府は博多湾の防備を強化しようとした。しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、見返りとしての恩賞は御家人たちの満足のいくものではなかった。中には竹崎季長などのように鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得るといったケースもあった。

弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、文永の役に続き弘安の役においても十分な恩賞給与がなされなかったため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は完全には解消されなかった。

実際に戦った御家人たちへの満足な報償がなかった理由の見解の一つとしては、「元に勝ったのは、武士の戦いによる成果ではなく、その間の公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」、あるいは、「僧侶や神官らの折伏(しゃくぶく)や祈祷による結果である」との考えが上層部にはあったことが挙げられる。実際に弘安4年から翌年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じられている。

当時の日本国内では、対元戦争を日本の神と元の神の争いと見る観念が広く存在しており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識されていた。これを天人相関思想というが、日本を救った暴風雨を神風と呼ぶこととなったのも、この天人相関思想に起因するという説が有力となっている。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、この動きは鎌倉幕府滅亡へとつながっていく。

[編集] 元寇の諸相

[編集] 日本侵攻の理由

文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本征服を望んでいたわけではないと考えられている。また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。

それは、

  • 日本側の対応を確認するため。これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。
  • ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。

これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。

威力偵察目的であったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。

一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。 近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている。このため、戦争に勝利した暁には屯田を目的としていたと考えられている。これをもって侵略の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、南宋の10万人は軍隊と言うよりも移民船団だったのではと言う見解も出されている。

[編集] 高麗の関与

高麗史』によると1272年に、高麗王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」[4]と具申したとある。また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴルの娘を王妃にしていた。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の三策の内、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。

[編集] 蒙古国書・元使殺害

元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね謙っていると見て、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる。wikisource:蒙古皇帝国書を参照のこと。ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。

また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。『八幡大菩薩愚童訓』には「夜々ニ筑紫之地ヲ見廻、船戦之場懸足逃道ニ至マテ、差図ヲ書」とあり、『元史』趙良弼伝にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上」とある。こういった間諜行為が考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。

元使殺害の評価については賛否両論がある。同時代では日蓮が批判し、後世の評価では日本侵攻の口実になった暴挙を評価する論者と、元の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。

[編集] 神風

文永の役における蒙古軍の撤退に関して、日本側の史料には一夜明けると蒙古船が消失していた事実が記されているのみとされる。

公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として逆風が吹いたことを記されてる。

高麗の史料、『高麗史』などには撤退途中に風雨が起き多数が座礁した事が記されている。がしかしそれならば何故日本側の史料にその記載が無いのか。

気象学的には過去の統計に台風の渡来記録が無いことから、台風以外の気象現象という見解もとられている。

文永の役に関しては、台風説の可能性はほぼなかったと、今日ではみなすものが多い。弘安の役に於いても、当時の日本が知り得なかった江南軍壊滅の理由を台風や熱帯低気圧の影響としながらも、博多沖の東路軍は、それとは違った理由で壊滅したという説もある。

[編集] 軍事面

定説では元の集団戦術に対して、当時の日本は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われており、また元軍には毒矢、鉄砲(火器)などの最新兵器のために各地で日本軍は苦戦したとされる。 しかし、史料には武士達が集団戦術に対応した様子が書かれている。

日本側の弘安の役での戦術や対策としては、

  1. 先述の防塁に楯を用いた防御。
  2. 前回の文永の役での元の戦力を分析し、日本は元軍より射程距離の長い弓矢を開発して使用した。(一方、東路軍は、沖の波に揺られる船上から不安定なまま矢を射ることとなり、射程距離も及ばないことも重なり、日本軍にダメージを与えられないまま、沖の上で停滞を強いられた。)
  3. 夜間、日本側からの小舟に分乗して、高麗船を奇襲。狭い船内での斬り合いでは、日本の武士の方に分があった。
  4. 合流するはずだった江南軍は、指揮官の交替と、多人数による混乱により、統率が取れず、東路軍との合流が、1ケ月半ほど遅れた。
  5. 一方、東路軍は、博多沖の海上で釘付け状態となり、度重なる日本軍のゲリラ戦術と食料や水不足と発生した疫病により、「兵糧攻め」と同じ状態になって疲弊していた。
  6. 江南軍が遅れて出発したが、そのために、台風時期と重なり、合流前にほぼ壊滅状態。博多沖の東路軍も、時間差で同じ台風ないしは、熱帯低気圧によって壊滅したとみなされている。

その他、敗因はさまざまに語られるが、上記のとおり重複する点も含めて、日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し、連戦連勝を重ねてきたお得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として、船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていた。また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため、士気が低かったと思われる。

[編集] その他の説

なお、国家によっては異なる歴史解釈を行なっている。例えば、韓国の高等学校歴史教科書(国定)[5]から引用すれば、

元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵器の供給、兵士の動員を高麗に強要した。
こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した。
元は日本遠征のため、高麗に征東行省という役所を置いた。
征東行省は日本遠征が失敗した後には高麗との公的連絡機関として運営された。

と記述されており、高麗は元に強制されて日本へ兵を送ったという解釈を行なっている。

[編集] 史料

  • 『元史』
  • 『新元史』
  • 『八幡愚童記』
  • 『高麗史』

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1.  蒙古國牒状 南都東大寺尊勝院所藏 東大寺宗性 筆 『調伏異朝怨敵抄』所収によれば 上天眷命大蒙古國皇帝、奉書日本國王、朕惟自古小國之君、境土相接、尚務 講信修睦、況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即位之初、以高麗无辜之 民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦 已知之、高麗朕之東藩也、日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚 恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相 通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣、    至元三年八月日  なお同一の記載が「元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」にもある。 
  2. 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、 瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、 皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。 今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。 漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』 其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。 且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。 但以無外之名高於天下耳。 若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。 惟貴国商酌焉。
  3. 高麗史節要より 初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。 及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。 又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。 権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。 故権臣頥指気使、争先効力。 金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。
  4. 高麗史 元宗十三年 三月の条 『惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師』 高麗史 世家巻第二十七 高麗史二十七   世子 諶(後の忠烈王)云の箇所
  5. 新版 韓国の歴史 第二版 -国定韓国高等学校歴史教科書- (大槻健、君島和彦、申奎燮訳)(明石書店) ISBN 4750312738
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