日本書紀
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日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。
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[編集] 成立過程
古事記と違って日本書紀には、その成立の経緯が書かれていない。しかし後に成立した『続日本紀』の記述により、成立の経緯を知ることができる。続日本紀の養老四年五月条に「先是一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀三十巻系図一巻」とある。その意味は「以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」である。
中国の史書には、266年に倭国の関係記事があり、その後は、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。この間は記述がなく、日本にも文字はないので、日本の王の名も分からない。この間は「謎の4世紀」と呼ばれる。
聖徳太子の頃、日本でも歴史書を作ろうという考え方ができたが、大和朝廷(ヤマト王権)に十分な記録があったわけではない。もちろん、日本に文字が伝わる以前から、中国人は漢字を用いていたし、日本に来た中国人(渡来人)の中には、鉄剣に漢字を彫り込む仕事をした職人などもいただろう。しかし聖徳太子の歴史書や、古事記や日本書紀も、天皇の祖先については、神とされる人を含め、事実を正確に記録できたわけではない。したがって、天皇家の系譜について、正確な記録があるわけではない(天皇家の成立過程についてはヤマト王権の項を参照)。聖徳太子が作った歴史書はすべて消失し、その後に古事記や日本書紀が作られたのである[要出典]。
最近の研究では、古事記や日本書紀の記述は、継体天皇以前は不正確であることが分かっている。ただ古墳など考古学的資料からは、470-510年頃まで、6,7人の大王が立ったと推測できる。だがこれらの王の名は現在では不明である。つまり、継体の系図を記録した上宮記や、現在は伝わらない聖徳太子による国史の成立以前にも、各種の系図があったが、これはさまざまな王の系図に、祖先として伝説上の王を書いたもので、正確な内容ではなかった。しかしこれらを参考に上宮記や古事記、日本書紀が作られたのである。旧辞や帝紀は7世紀頃の成立と考えられている。
仮に推古朝の610年頃に上宮記が成立したとしても、継体天皇(オホド王)が即位した507年は、当時から百年前の話しである。日本で文字が使われるようになったのは聖徳太子の頃、おそらく西暦600年前後であるから、継体天皇即位の頃については文字としての記録はなく、口頭での言い伝えとして大和朝廷周辺に記憶があったのみである。
[編集] 書名
もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。
『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記記事に「書」の文字がないことを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法に倣ったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるものなので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持していると言われる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。
『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のような近い時代の史料がみな日本書紀と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」など。書紀が参考にした中国史書は、『漢書』『後漢書』のように全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこでこの説の論者は、現存する書紀は、中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるものとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
[編集] 原資料
6世紀の中頃欽明天皇の時代に言い伝えを元にして日本の歴史をまとめた『帝紀』・『旧辞』、諸氏の伝承などを取り入れているとされる。なお、620年(推古28)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより旧い史書であるが、645年(皇極4)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。この後を受けて、歴史書が編纂されている。
なお、『日本書紀』本文中に書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存していない。
- 『日本旧記』
- 『日本世記』
- 『伊吉連博徳書』
- 『難波吉士男人書』
- 『百済記』
- 『百済新撰』
- 『百済本記』
[編集] 編纂方針
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、天皇家や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。
[編集] 文体・用語
『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされており、その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神武紀から巻十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻二十四の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
ところで『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、最近の研究から語彙や語法に倭習が多くみられることが分かってきている。倭習とは、日本語的発想に基づく誤用や奇用である。和臭とも書かれる。
『日本書紀』は、552年(欽明13)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずる、としている。しかし「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」は、538年(宣化3)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように『日本書紀』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。
[編集] 紀年・暦年の構成
暦日に関する研究は戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『日本書紀』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。また研究は、中国の元嘉(げんか)暦と儀鳳(ぎほう)暦の二つが用いられていることを明らかにした。武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。既述のように二組で撰述したと推測されている。
元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(665年=天智4)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。
[編集] 讖緯(しんい)の説
神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が、明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。緯書にある鄭玄の注にある、一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとする辛酉革命の思想(参考:甲子革令/戊辰革運/辛酉革命)によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇九年の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。
[編集] 紀年論
古い時代の天皇寿命が異常に長い事から、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。今日の学説では、初代神武の即位年を辛酉(紀元前660年)とすることによって、年代を古くに引き上げたとされる。そこでこの紀年がどのように構成されているか、明らかにしようとする試みが紀年論である。代表的な論として、1年を2倍にして、年次を設定したとする2倍暦がある。しかし2倍暦で、書紀紀年の全期間が説明できる訳でもなく、多くの人に支持されるには至っていない。また応神紀には朝鮮史書と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると、朝鮮史書と年次が一致する。したがってこのあたりで、年次は120年古くに設定されているとされる。しかし干支2順、古く設定したという説も、その前の神功紀で引用される、魏志の年次との整合性はない。書紀紀年が、何らかの実年代を反映しているのか、それとも、まったく架空の年次かは、書紀伝承が史実であるか否かと深く関わる。しかし論者による見解の開きは大きく、混沌とした状況下にある。 一方、『古事記』は年次を持たないが、文注の形で一部の天皇について没年干支が記される。『日本書紀』の天皇没年干支と、古い時代は一致しないが、二十七代、安閑(乙卯、535年)。三十一代、用明(丁未、587年)。三十二代、崇峻(壬子、592年 )。三十三代、推古(戊子、628)は一致する。このあたりの年次は実年代を反映しているとも考えられる。また『古事記』の天皇没年干支をもとに、『日本書紀』の年次を探ろうとする考えもある。
[編集] 本文と一書
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。
[編集] 尊号と国風諡号
天皇の名には、天皇在世中の名である尊号と、『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762)~同8年(764)、淡海三船による神武から持統天皇までの四十一代、及び元明・元正天皇へ一括撰進された和風諡号(しごう)(国風諡号)と漢風諡号とがある。十五代応神天皇から二十六代継体天皇までの和風諡号は、原則として、尊号、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。
[編集] 構成
- 卷第一
- 神代上(かみのよのかみのまき)
- 第一段、天地のはじめ及び神々の化成した話
- 第二段、世界起源神話の続き
- 第三段、男女の神が八柱、神世七世(かみのよななよ)
- 第四段、国産みの話
- 第五段、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話
- 第六段、イザナキ死に、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行く。アマテラスはスサノオと誓約し、互いに相手の持ち物から子を産む。
- 第七段、スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。スサノオは罪を償った上で放たれる。
- 第八段、スサノオが出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。スサノオがクシイナダヒメを救うためヤマタノオロチを殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。姫と結婚し、オオナムチを産み、スサノオは根の国に行った。
- 神代上(かみのよのかみのまき)
- 卷第二
-
- ※卷第三より以降の漢風諡号は、『日本書紀』成立時にはなく、その後の人が付け加えたものと推定されている。
- 卷第三
- 神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)神武天皇
- 卷第四
- 卷第五
- 御間城入彦五十塑殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)崇神天皇
- 卷第六
- 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)垂仁天皇
- 卷第七
- 卷第八
- 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇
- 卷第九
- 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)神功皇后
- 卷第十
- 誉田天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇
- 卷第十一
- 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇
- 卷第十二
- 卷第十三
- 卷第十四
- 大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇
- 第第十五
- 卷第十六
- 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)武烈天皇
- 卷第十七
- 男大述天皇(おほどのすめらみこと)継体天皇
- 卷第十八
- 卷第十九
- 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)欽明天皇
- 卷第二十
- 淳中倉太珠敷天皇(ぬなかくらのふとたましきのすめらのみこと)敏達天皇
- 卷第二十一
- 卷第二十二
- 豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)推古天皇
- 卷第二十三
- 長足日広額天皇(おきながたらしひひぬかのすめらみこと)舒明天皇
- 卷第二十四
- 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらのみこと)皇極天皇
- 卷第二十五
- 天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)孝徳天皇
- 卷第二十六
- 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)斉明天皇
- 卷第二十七
- 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)天智天皇
- 卷第二十八
- 天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのかみのまき)天武天皇 上
- 卷第二十九
- 天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのしものまき)天武天皇 下
- 卷第三十
- 高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)持統天皇
[編集] 現存本
現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本第10巻ならびにその僚巻に相当する巻1断簡)。
写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。 神代巻(巻第一・第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている(参考:『古事記日本書紀必携』学燈社)。
以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。
(1) 古本系統
- 佐佐木本 9世紀写 第1巻断簡
- 四天王寺本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背には空海の漢詩を集めた『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』(真済編)が記されている。訓点なし。個人蔵。
- 四天王寺本 9世紀写 第1巻断簡
- 佐佐木本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。四天王寺蔵。
- 猪熊本 9世紀写 第1巻断簡
- 佐佐木本・四天王寺本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。個人蔵。
- 田中本 9世紀写 第10巻
- 佐佐木本・四天王寺本・猪熊本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。奈良国立博物館蔵。
- 岩崎本 10~11世紀写 第22,24巻
- 訓点付きのものとしては最古。本文の声点は六声体系。図書寮本と比較すると、本文・訓点ともに相違は大きい。京都国立博物館蔵。
- 前田本 11世紀写 第11,14,17,20巻
- 訓点は図書寮本と同系統であるが、多少古態を存する。声点は四声体系。前田育徳会蔵。
- 図書寮本(書陵部本) 12世紀写 第10,12-17,21-24巻
- 訓点あり(第10巻を除く)。第14巻と第17巻は前田本と、第22~24巻は北野本と、それぞれ同系統。声点は四声体系。宮内庁書陵部蔵。
- 北野本 第1類…第22-27巻(平安末期写)
- 鴨脚本(嘉禎本) 1236年写 第2巻
- 訓点あり。京都・賀茂御祖神社の社家・鴨脚(いちょう)氏旧蔵本。本文・訓点とも大江家系か。國學院大學蔵。
(2) 卜部家本系統
- 卜部兼方本(弘安本) 1286年写 第1,2巻
- 訓点あり。平野家系の卜部兼方の書写。大江家点との比較を丹念に記す。声点は四声体系。京都国立博物館蔵。
- 卜部兼夏本(乾元本) 1303年写 第1,2巻
- 訓点あり。吉田家系の卜部兼夏の書写。『弘仁私記』(書紀古訓と書紀講筵にて後述)その他の私記を多数引用。声点は四声体系。天理大学附属天理図書館蔵。
- 熱田本 1375~7年写 第1~10,12~15巻
- 訓点あり。熱田神宮蔵。
- 図書寮本(書陵部本) 1346年写 第2巻
- 北野本 第2類…第28-30巻(平安末~鎌倉初期写)、第3類…第1,4,5,7-10,12,13,15,17-21巻(南北朝写)、第4類…第3,6,11巻(室町後期写)、第5類…第16巻(幕末写)
- 訓点あり(第1巻を除く)。第2・3類は第1類同様白川伯王家・資継王の旧蔵本。資継王が加点しているため、本文とは異なり訓点は伯家点系である。北野天満宮蔵。
- 卜部兼右本 1540年写 第3~30巻
[編集] 刊行本
- 小学館新編日本古典文学全集2-4「日本書紀」全3冊
- 講談社学術文庫「全現代語訳 日本書紀」上下巻
- 訳者:宇治谷孟
- 1988年初版
- 現代語訳のみ
- 岩波書店日本古典文学大系(新装版)上下巻
- 岩波文庫「日本書紀」全5冊
- 原文、注釈、書き下し文を収める。
- 中央公論新社中公クラシックス 全3巻
- 2003年-2004年
- 監訳:井上光貞
- 現代語訳のみ
[編集] 書紀講筵と書紀古訓
『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老五年(721年)には早くも、『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に7年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。
以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。
- 養老五年(721年)
- 博士は太安万侶。私記は現存しないが、書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。
- 弘仁四年(813年)
- 博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる甲本私記)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。
- 承和六年(839年)
- 博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。
- 元慶二年(878年)
- 博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。
- 延喜四年(904年)
- 博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。
- 承平六年(936年)
- 博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。
- 康保二年(965年)
- 博士は橘仲遠。私記は現存しない。
なお、書紀古写本には単に「私記」として引用されているものも多い。上記年次私記のいずれかに由来するものと思われるが、残念ながら特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点(本来は漢字の声調を示す記号であるが、ここでは日本語のアクセントを示すのに用いられている)付きの傍訓はなんらかの説に由来する由緒あるものと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。
ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存するが、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政~鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。
[編集] 竟宴和歌
元慶の講筵以降、終講の際にはそれを記念する宴会(竟宴)が行なわれるようになり、参加者によって『日本書紀』にちなむ和歌が詠まれた。それらを集めたものが『日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)』(943年成立)である。現存本は元慶・延喜・承平の各講筵の竟宴和歌より成る。歌題として選ばれるのが神々や古代の聖王、伝説的な英雄たちということもあって、和歌の内容がどうしても類型的なものになりがちなため、文学的には特に見るべきものはないが、藤原時平や藤原忠平といった当代の最上級の貴族の歌を集めているという点ですこぶるユニークな歌集となっている。
[編集] 外部リンク
- 国立国会図書館ホームページ
- http://www.ndl.go.jp/
- 電子図書館の蔵書>近代デジタルライブラリーで日本書紀(原文)が閲覧できる。
- 新編 日本書紀
- 日本書紀
- 日本古代史参考史料古籍
[編集] 参考文献
- 水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書、2001年) ISBN 416660192X
- 武光誠『大和朝廷と天皇家』(平凡社新書、2003年) ISBN 4582851800