九州王朝説
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九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)とは、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に王朝があり、大宰府(太宰府)が首都であったとする説である。古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である。
「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智元)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。
邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から、戦後では長沼賢海らがいるが、古田により7世紀まで、敷衍(ふえん)され、体系的なものに整備された。
ただし、現在、本説は東洋史、日本史などの学界からは黙殺されている(後述)。
以下に、その説を詳細に記す(注:学界等では認められていない説であることに留意する必要がある)。
目次 |
[編集] 概要
- 3世紀前半が最盛期であった邪馬壹国は、九州王朝の前身に当たり、7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた。
- 卑彌呼(ひみか)は、筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)(臺與)は、中国風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
- 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州王朝の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
- 筑紫君磐井(ゐわい)(倭わい)は倭の王であり、磐井の乱は継体による九州王朝に対する反乱であった[1]。
- 天皇の称号を初めて用い、独自の元号(九州年号)を初めて建てたのも九州王朝である。
- 中国の隋との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北(または比)孤 號阿輩雞彌 [2]」は、九州王朝の倭国王であった。
- 「白村江の戦い」では、総司令官である九州王朝の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま)」が唐軍の捕虜になり敗北が決定した、これにより日本国内での九州王朝の権威は失墜し衰退に向かった。
- 「壬申の乱」の吉野は佐賀県吉野ヶ里の吉野であり、倭京とは飛鳥宮ではなく大宰府のことである。勝敗を決した美濃軍こそ畿内大和軍のことである。「壬申の乱」の舞台は九州であり、前年に唐軍の捕虜から解放され帰国した九州王朝の天皇である「筑紫君薩夜麻」を巡る九州王朝内の内紛に畿内大和の豪族が介入し軍事的勢力を得た事件である。
- 「大化の改新(入鹿殺し)」は九州年号の大和(大化)元年(695年)のことであり、畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した下克上のクーデターである。
- 通説で飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかった。
- 大宰府(倭京618年~695年)は九州王朝の首都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市である。
- 防人の目的は、九州王朝の首都である大宰府(倭京)占領にあり、「夷(異民族)を以て夷を征(制)す」というヤマト王権の政策であった。
[編集] 根拠
[編集] 山島(九州王朝の継続性)
- 古代において津軽海峡は蝦夷国(『新唐書』における、「都加留(つがる)」、「麁蝦夷(あらえみし)」、「熟蝦夷(にきえみし)」にあり、倭人および中国人にとって本州が島か半島かは長い間不明であった。島と認識されていたのは九州や四国だけである。漢代から隋代の正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは明確に島と認識されていた九州の他にない。
[編集] 金印
- 博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴(ゐど)」の「国王」と読み漢の家臣の倭王の印綬(いんじゅ)であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である倭王の住居があった。つまり博多湾の近くに倭の首都があった。
- 皇帝が冊封国の王に与えた印綬に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無いこと及び、金印は領域国家の王にしか与えられないものであることから、この印は「委奴国王」=「倭王」に与えたものである、通説のように金印を博多湾程度しか有しない小国が授かることは決してありえない。
- 旧唐書倭国条の冒頭等多くの記録に「倭国者古倭奴国也(倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり)」等との記事があり、倭奴国とは倭の中の小国奴国ではなく、倭国そのものである。また奴国は通説では儺県(なのあがた)に合わせるために「なこく」と読ませているが、漢字の音訓上、無理がある。
- 「倭奴」は日本の蔑称であり(現在でも韓国・朝鮮では日本を「倭奴(ウェノム)」と呼ぶことがある、「匈奴」等と同じ使用)、しかも「倭」の字の代わりにニンベンの無い「委」を用いられていたので隠されていたと考えられる。
- 「委」の字は「わ」とは読めないので、「かん ゐど こくおう」と読むべきである。
[編集] 邪馬臺国
- 邪馬臺国は北部九州にあった。「魏志倭人伝」は正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記しているのであり。この方法だと、従来は解決困難とされていた距離も方角も矛盾無く説明できる。(郡~女王國の距離が1万2千里、掛かった時間が水行十日陸行一月)(1里≒76m)
- 伊都國が陳寿の目的地であり、女王國は伊都國の直ぐ近くにあった。
- 「魏志倭人伝」の距離に関する記述を太字にすると下記のようになる。
-
- 「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗福曰卑奴母離所居絶方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北糴又渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耗田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」
- 郡から伊都國までを計算すると下記のように11900里になる。
- 七千里+千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里+五百里=11900里
- ※方可とあるので対馬南島と壱岐を半周したと考え(四百里×2)(三百里×2)とした。
- 後のほうに「自郡至女王國萬二千餘里」とあり帯方郡から女王國まで12000里。
[編集] 倭の五王
- 「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年が全く合わない。また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないし、中国側が勝手に東夷の王に中国風の名を付けることなどは例が無く考えられ無いので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではない。
- 畿内地方に多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しつつ同時にこのような大規模な土木事業を多数行うことは考えられないので、畿内地方に多くの巨大古墳を造ったのは朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと見られる。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、文化の広がりと権力とは必ずしも一致するものではない。古墳文化の広がりは単なる文化交流の結果であり、これとヤマト王権とを単純に結びつけることは稚拙である。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。
- 宋書倭王武の上表文で、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???となり、比定地を特定することができない。しかし、倭を九州とすると「東の毛人」=中国・四国・畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=韓国南部となり、比定地の特定が可能である。
[編集] 倭(九州王朝)の交流
- 『三国史記』等の倭・倭人関連の朝鮮文献によれば、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1度の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵しているが、ヤマト王権にはこれらの軍事活動に対応する記録は存在せず、ヤマト王権の大王が畿内を動いた形跡もない。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない。政治、祭事、軍事が未分化の時代、必然的に王は司令部のある北部九州に常駐することとなる。つまりヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになり、日本列島を代表して中国・朝鮮と交流・交戦していた「倭の五王」「多利思北孤」らは九州の王だったと考えられる。
- 中国の正史によると漢代から倭は代々使者を中国に送ったり迎えたりしているのに『日本書紀』、『古事記』には遣隋使以前に中国へ使節を送った記録も迎えた記録も無い。また、倭は長い交流を通じて中国の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに初期の遣隋使派遣では、ヤマト王権は外交儀礼に疎く国書も持たず遣使したとされる(第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが遣唐使となっている)。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内ヤマトに中国の社会制度・文化の多くが始めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内ヤマトには中国の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、倭と畿内ヤマトは明らかに別物である。遣隋使・遣唐使が畿内ヤマトと中国との初の直接交流であり、漢代から代々中国と交流していたのは、九州である。
- 倭は朝鮮半島で数世紀に渡って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかなく技術が極めて稚拙である。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為である。
[編集] 磐井の乱
- 百済本記には『531年に日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨せぬ』という記事がある。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していた。
- 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは九州に律令があったことを示すもので、九州に王朝があった証拠である。
[編集] 聖徳太子
- 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀國王の多利思北孤(日出處天子)のいる島には阿蘇山があると明記されているので、俀國は九州のことである[4] )。
- 多利思北孤は男王であり「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」がいるので、太子でも女帝(推古天皇)でもない。
[編集] 倭(九州王朝)から日本(ヤマト王権)へ
[編集] 記録が語る王朝交代
- 魏志倭人伝の邪馬臺國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州からヤマト王権への権力の移動がなければならないが、中国の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。中国の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に国号が変っているので、この時期に王朝が交代したと推定される。
- 中国文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すための歴史書「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であることを物語っている。
- 日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州王朝が建てたとされる「九州年号」(517年~700年(695年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」も7世紀末で終わっており、この時期に王朝の交代があったことをうかがわせる。
[編集] 記録の消滅
- 漢委奴国王印や親魏倭王印等の金印は倭が文字を理解したから皇帝から賜ったのであり、また倭も手ぶらで中国に朝貢したのではない、上表文を携えて行っていることからも倭では既に1世紀には文字の使用が一部では始まっていたことが推定できる。したがって記紀の編纂時には古墳時代や飛鳥時代の多くの歴史書が存在しているはずであるが、そのような物は現在は一つも存在しない。これは、記紀の編纂時にヤマト王権以前の都合の悪い記録を意図的に消しさったことを示している。また畿内では九州より遅れて文字の使用が開始されたため古い記録が残っておらず記紀の編纂に当たっては九州王朝の記録が多く参考にされたと考えられる。
[編集] 壬申の乱
- この記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)、これは当時日本に存在していた唯一の都市である大宰府のことと考えられる。
- この乱では、大分恵尺(えさか) ・大分稚臣(わかみ)等の九州の豪族が活躍している。
- ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは佐賀県鹿島である。
[編集] 大化の改新
- 下記のように「大化の改新」は695年に畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した下克上のクーデターであり、藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄(かいざん)した記事である。
- 『日本書紀』の「大化の改新」は新興勢力の豪族を誅した程度で、何故、政権を改新したり、改革することができたのか全く意味不明である。既存の権力を倒して史書に記すような政治の大改革を行ったのであれば、倒された権力は、それ以前長期に亘り権力を掌握し、政治体制を維持してきた者でなければならないし、倒した側はそれまでの権力者とは全く違わなければならない。しかし日本書紀の記述では、倒された蘇我氏の歴史は100年にも満たない新興勢力であり、倒した側は代々の天皇であり最高権力者である。『日本書紀』の記述には明らかにこのような矛盾がある。
- 下記のように「大化の改新」は7世紀末の出来事であると考えられる。
- 「日本書紀」は「大化の改新」の時に「郡(こおり)」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降、それ以前は「評(こおり)」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。
- 646年正月の改新の詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら646年から後も伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)が所有する部曲(かきべ)や田荘(たどころ)の領有権が認められていた。
- 詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあるが、戸籍・計帳・班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
- 大宝律令が発布されたのは701年である。律令制度が定着したのは、大宝律令からである。
- 『日本書紀』大化元年七月の条に高句麗や百済の使者に「明神御宇日本天皇」と示したという記事があり、日本における「日本」という国号の最初の使用例となっている。しかし、中国の正史(『旧唐書』『新唐書』など)で日本の国号が「倭」から「日本」に変っているのは7世紀末である。
- 『二中歴』など九州年号では、大化(大和)元年は695年である。[5]
- 元号は連続するものであるが、日本書紀では大化から大宝の間の年号が飛んだり無かったりしている。
- 蘇我氏の存在も名前からして馬子、入鹿(二人合わせて馬鹿)など怪しい点がある。
- 藤原氏という一族がいるのに藤原京という家臣の名の付く都を朝廷が建設することはない。藤原京が有って後で藤原姓を賜ったのである。藤原不比等が「大化の改新」の主役だから中臣鎌足の息子で不比等だけが藤原姓なのである。「大化の改新」の功績で不比等が藤原姓を賜り、父の中臣鎌足には不比等が自分の功績と藤原姓を後で贈ったと考えられる。
- 645年即位とされる孝徳天皇も696年即位とされる文武天皇も即位前は軽皇子と名乗っており、孝徳天皇は実は文武天皇のことであると考えられる。
[編集] 大宰府(倭京)
- 次の理由により大宰府は、九州王朝の首都(倭京)であったと考えられる。
[編集] 名称
[編集] 記録の空白
[編集] 都城
- 日本最古の都市である
- 条坊の建設は単なる区画整理事業に過ぎず、城砦や城壁を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である水城等が建設されたとされる664年には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたと考えられる。
- 7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはない、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。
- 九州年号に倭京元年(618年)とありこの年に建設されたと考えられ、ヤマト王権最古の条坊制都城である藤原京(694年)より古い日本最古の本格的な都市である。
- 中国の首都(長安)をモデルとした都市である
- 日本最古の風水都市である
[編集] 日本書紀・続日本紀の記録
- 711年~800年の蓄銭叙位令などが示すように畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』769年(神護景雲3年)の記事で大宰府の役人が都に「この府、人・物殷繁(いんぱん)にして、天下の一都会なり」と報告しているように太宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。
- 『日本書紀』「壬申の乱(672年)」の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)、これは当時日本に存在していた唯一の都市である大宰府のことと考えられる。
[編集] 測定調査・発掘
[編集] 関連する主張
- 日本神話の神武東征にある畿内のヤマト王権は、九州王朝内の豪族の一派が東征して成立したものと見る(天孫降臨の地、筑紫の日向とは福岡市と前原市の間にある日向峠であり、高千穂とは前原市の高祖山のこと)。
- 景行天皇の九州大遠征説話や神功皇后の筑後平定説話などは九州王朝の史書からの盗用である。
- 『日本書紀』の持統天皇の吉野行きの記事は、ひと干支(60年)前の「白村江の戦い」時の天皇の佐賀県吉野地方への出撃部隊視察の記事である(部隊は機密保持のため有明海に集結し、有明海→五島列島→韓のコースを辿ったと考えられる)。
- 「九州」の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)からなっていたことに由来すると俗に言われるが、「九州」という用語は本来古代中国では天子の直轄統治領域を意味するもので、九つの国の意味ではなく天下のことである。(中国で国を九分して治める習慣から九州=天下)
<中国史書の国号改称記事>
- 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
- 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
- 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
- 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
- 『旧唐書』には倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは倭(九州王朝)と日本(ヤマト王権)とは別の国であり、倭が最初に日本を名乗り、その後ヤマト王権により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである。
- 青龍山野中寺(やちゅうじ)の弥勒像台座の下框(かまち)部分には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」という陰刻があり、これが丙寅年(666年)の四月に「中宮天皇」が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かる。しかし、666年には、既に斉明天皇は亡くなっており、穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)が即位したこともなく、天智天皇が「中宮天皇」と呼ばれた文献資料も残されていない。つまり、この時期、ヤマト王権の正史にはない「中宮天皇」という天皇がいたことになるが、これも九州王朝の天皇である。
- 九州年号に「聖徳」(629年)とあることから聖徳太子との関連が考えられ、伝説の聖徳太子が九州王朝の王の一人だった可能性が高い。(聖徳太子の太子は本来は日羅大師等と同じく仏教に深く帰依した大師)
- 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の貨幣は和同開珎(708年)である。しかし、古代日本には和同開珎より以前に無文銀銭や富本銭(683年)などの貨幣が存在している。また、蓄銭叙位令(711年~800年)などが示すように畿内大和では8世紀になっても通貨経済は未発達であったが、『続日本紀』769年の記事で大宰府の役人が都に「この府、人・物殷繁にして、天下の一都会なり」と報告しているように北部九州では既に通貨経済が活発であった。つまり7世紀以前に無文銀銭や富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州王朝の富本銭等を参考にして和同開珎等の貨幣を発行した(和同開珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本で多くが鋳造されていた。)のである。
- 「遣隋使」はもちろん、「遣唐使」も7回目(669年)までは九州王朝が派遣したものであり、小野妹子らのヤマト王権の者は九州王朝の遣隋使に同伴させてもらったのであり、裴世清らの目的地は筑紫であり畿内大和は未知の土地だったので、ついでに足を伸ばしたにすぎない[4]。
- 「正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、稲・塩・酒・粟などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は鷹狩のための養鷹人と猟犬。白玉・青玉・縹玉などの玉類などである。鷹狩・曲水の宴などの貴族趣味は畿内ヤマトにはなく、筑後にはあった。
- 「正倉院文書」日付の最も古いものは、大宝2年(702年)のものである。奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州王朝の宝物である。
- 法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(大宰府都城の観世音寺or福岡市難波池の難波天王寺or筑後国放光寺)が移築されたものである。
- 「君が代」は九州王朝の春の祭礼の歌である。
- 『萬葉集』の代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)」や「額田王(ぬかたのおおきみ)」等は九州王朝縁の人物である。また山上憶良等も元は九州王朝の役人であったものがヤマト王権に使えたものである。
- ヤマト王権は694年に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、701年に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、これに必要とされた多くの人材は、滅亡した九州王朝の官僚を再雇用したものである。7世紀末に突如として畿内大和に出現した官僚集団は、九州の大宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州王朝の官僚機構を引継ぐことにより、改革に必要な人材を確保することができたのである。また、知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の奴隷的な扱いはこの為である。
- 2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌を発見した。この「井真成」は死後に皇帝から「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)の位を授けられており「尚衣奉御」が歴代皇帝の親族がその任に当たっていたことや、現在「井」及び「井」という氏から派生した「井野」という姓は九州熊本県の産山村・南小国町・一の宮町などに多く存在すること、また井は倭(ゐ)に通じることから、この「井真成」は、九州王朝の皇族であると考えられる。
- 大津宮は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)である。大津宮への遷都は、敵の上陸に備えた大宰府から内陸部への疎開である(近江では遷都の理由が不明である。瀬田の唐橋の瀬田は、大津町瀬田)。
- 『萬葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためである。
[編集] 九州年号表
鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで熊襲の年号と考証したものである。古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。
散見される年号が九州王朝が使用した元号であるとする証拠は無いが、この時期既に新羅等の朝鮮半島の諸国は独自の元号を建ており、半島の盟主を自認していた倭だけが独自の元号を建てることがなかったとは有り得ず、また阿毎多利思北孤[2]などは「日出處天子」と名乗っており「天子」と宣言している以上、元号の制定は当然であるとする意見もある。なお九州年号には仏教的な語句が見られる。
次にあげるのは『襲国偽僣考』の考証を修正したものである(「二中歴」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。二中歴以外の文献では、「継体」を欠いて二つ目の「善記(善化)」から始まる。)。
※695年の大和(大化)以降は、ヤマト王権の建てた元号が混入していると考えられる。
開始年 (西暦) |
元号名 | 読み | 干支 | 天皇年代 |
---|---|---|---|---|
517 | 継体 | 丁酉 | 継体11年 | |
522 | 善化(善記) | 壬寅 | 継体16年 | |
526 | 正和 | 丙午 | 継体20年 | |
531 | 発倒(教到) | 辛亥 | 継体25年 | |
536 | 僧聴 | 丙辰 | 宣化 1年 | |
541 | 同要(明要) | 辛酉 | 欽明 2年 | |
552 | 貴楽 | 壬申 | 欽明13年 | |
554 | 結清(法清) | 甲戌 | 欽明15年 | |
558 | 兄弟 | 戊寅 | 欽明19年 | |
559 | 蔵和 | 己卯 | 欽明20年 | |
564 | 師安 | 甲申 | 欽明25年 | |
565 | 和僧 | 乙酉 | 欽明26年 | |
570 | 金光 | 庚寅 | 欽明31年 | |
576 | 賢接(賢稱) | 丙申 | 敏達 5年 | |
581 | 鏡當 | 辛丑 | 敏達10年 | |
585 | 勝照 | 乙巳 | 敏達14年 | |
589 | 端政 | 己酉 | 崇峻 2年 | |
594 | 従貴(告貴) | 甲寅 | 推古 2年 | |
601 | 煩転(願転) | 辛酉 | 推古 9年 | |
605 | 光元 | 乙丑 | 推古13年 | |
611 | 定居 | 辛未 | 推古19年 | |
618 | 倭京 | 戊寅 | 推古26年 | |
623 | 仁王 | 癸未 | 推古31年 | |
629 | 聖徳(なし) | しょうとく | 己丑 | 舒明 1年 |
635 | 僧要 | 乙未 | 舒明 7年 | |
640 | 命長 | 庚子 | 舒明12年 | |
647 | 常色 | 丁未 | 孝徳 3年 | |
652 | 白雉 | はくち | 壬子 | 孝徳 8年 |
661 | 白鳳 | はくほう | 辛酉 | 齊明 7年 |
684 | 朱雀 | すざく | 甲申 | 天武12年 |
686 | 朱鳥 | しゅちょう | 丙戌 | 天武14年 |
695 | 大和(大化) | 乙未 | 持統 9年 | |
698 | 大長(なし) | 戊戌 | 文武 2年 |
[編集] 説の歴史
古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、本説提唱当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。一時期は高等学校日本史教科書の脚注で言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって主張する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。1990年代に『東日流外三郡誌』に古田が深く関与し、同書が偽書であることが強く疑われると、同書に関する議論と本説とは直接的な関係はないにも関わらず、一部に『東日流外三郡誌』の議論をもって本説をも誤謬と断ずる声もあがった。
歴史学および考古学の研究者は、本説の内容に関して、史料批判など歴史学の基礎手続きを踏んでいないこと、考古学の資料分析の成果とそぐわないことをもって、検証に耐えうる内容ではないとみなしており、議論の対象とされていない。
その一方で一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者がおり、従来からの古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれ、現在も研究がなされている。
[編集] 問題点
九州王朝説は現在のところ、日本古代史の学界からは「批判・検証を受ける段階に無い」と見られ黙殺されている。それは以下のような理由による。
- 九州王朝の歴史を記録した一次資料は存在しない[6]。したがって記紀や中国や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府など僅かに残された資料をつなぎ合わせて王朝の歴史を推測するしかない。この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠となっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。また、資料の扱いが恣意的である[7]点も、九州王朝説の弱点である(九州王朝説からすると通説が資料の扱いが恣意的であるとなる[8] )。
- 同じ九州王朝説の支持研究者でも、白村江の戦いまでを九州王朝の歴史と見る、壬申の乱までを九州王朝の歴史と見る、大化の改新まで九州王朝の歴史と見る[1] 等考え方は様々であり定まっていない。
[編集] 関連書
[編集] 肯定側
- 古田武彦 『失われた九州王朝』 朝日文庫 朝日新聞 ISBN 4022607505
- 古田武彦、福永晋三、古賀達也 『九州王朝の論理』「日出ずる処の天子」の地 明石書店 ISBN 4-7503-1293-2
- 古田 武彦、谷本 茂、『古代史の「ゆがみ」を正す―「短里」でよみがえる古典』 新泉社 ASIN 4-7877-9403-5
- 内倉武久 『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代史』ミネルヴァ書房 ISBN 4-6230-3238-8
- 草野善彦 『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的転回』 本の泉社 ISBN 4-8802-3646-2
[編集] 否定側
- 安本美典 『虚妄(まぼろし)の九州王朝』(古代史論争シリーズ)独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ 梓書院 ISBN 4-87035-066-1
- 安本美典 『古代九州王朝はなかった』古田武彦説の虚構 新人物往来社 ISBN 4-404-01352-3
[編集] 参考
- 坂本太郎ほか 日本書紀〈1〉 岩波書店
- 石原道博 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 岩波書店
- 石原道博 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝 新訂�中国正史日本伝 (2) 岩波書店
[編集] 外部リンク
[編集] 史料
[編集] 肯定側
- 古田史学会の会報
- 倭の五王と九州王朝
- 古田武彦氏による日本古代史
- Historical
- 帝國電網省>「大化」は日本最初の年号ではない!!
- 九州元号
- 古代九州王朝
- 古田史学の素晴らしさ
- 科学の目で見えてきた日本の古代
- 古田史学の会のために
- 中小路駿逸氏による「古田武彦ノート」
[編集] 否定側
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ↑ 1.0 1.1 磐井の乱について無かったと見る説や九州内だけの反乱と見る説がある。
- ↑ 2.0 2.1 「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」と号す」 オホキミはヤマト王権で使用されていた首長の呼称と一致するが、九州王朝説では、「大王」は九州・関東などでも使用された称号であるとみている。アメ又はアマ・タラシヒコは古事記、日本書紀に見られる呼称と一致する。また、大王・天君は首長以外にも用いられた一般的な尊称であるとして、隋書の「俀王姓阿毎 字多利思北(または比)孤 號阿輩雞彌」は聖徳太子を指すとする説がある。
- ↑ 通説には隋書の「山島」は、隋書以前の史書の記述を再録したものであり、単に九州が倭国(ヤマト王権)の領土であることを述べているに過ぎないと見るものもある。
- ↑ 4.0 4.1 隋書に「其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。(国境は東西五月行、南北三月行で各海である。その地勢は東が高く西が下い。邪靡堆に都する、則ち魏志の謂う所の邪馬臺なる者である)」とあるが、東西五月行,南北三月行は九州の領域を超えてしまう。また隋書には「又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。(十余りの国を経て海岸に達する、竹斯(ちくし)國より東は皆倭に所属している)」ともあることから、通説では隋使裴世清(日本書紀によると推古十六年に大和に入る)は九州から海路を経て、近畿の海岸に到達したと考えている。九州王朝説では倭(九州王朝)が日本列島の盟主であったことを示していると考えている。
- ↑ 江戸時代天保九年(1838年)春に下総、冨山家の近くの熱田社傍らの畑より出土した『大化五子年土器』は、「大化五子年二月十日」と記されているが『二中歴』では大化六年(700年)が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が一年ずれているが、干支が一年ずれた暦法が採用されたためと考えれば一致する。一方、『日本書紀』の大化年間には全くこの年はない。従って、この土器の大化五子年は七世紀末の699年のことと考えざるを得ず、『二中歴』にある「大化」が使用されていたとする仮説を補強する。
- ↑ 日本書紀の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台を九州とする説がある。九州王朝説には「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州王朝」の史書からの盗用であり、「古代大和王朝」の文献資料など存在しないとするものもある。
- ↑ 九州王朝の存在を仮定して既存の資料を解釈する上記関連する主張などが、通説側からは結論ありきの理論であり恣意的とみられるようである。
- ↑ 上記根拠として挙げていることに対してこれを否定論者が無視していることなど。