豊臣秀吉
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文6年2月6日(1537年3月26日) 天文5年1月1日(1536年2月2日)とも |
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死没 | 慶長3年8月18日(1598年9月18日) | |||
改名 | 日吉丸(幼名)→木下藤吉郎秀吉 →羽柴藤吉郎秀吉→羽柴筑前守秀吉 |
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別名 | 猿、はげ鼠(仇名) | |||
神号 | 豊国大明神 | |||
戒名 | 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士 | |||
官位 | 従五位下・左近衛少将→従四位下・参議→ 従三位・権大納言→正二位・内大臣→ 従一位・関白(内大臣兼任)→太政大臣(関白兼任) →太政大臣(関白辞任) |
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主君 | 松下之綱→織田信長→織田秀信 | |||
氏族 | 平氏→藤原氏→豊臣氏 | |||
父母 | 父:弥右衛門、母:大政所、継父:竹阿弥 | |||
兄弟 | 日秀、豊臣秀長、朝日姫 | |||
妻 | 正室:寧子(お禰とも) 側室:松の丸殿、淀殿、南の局、月桂院、他 |
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子 | 実子:石松丸(秀勝)、鶴松、豊臣秀頼 養子:豊臣秀次、羽柴秀勝、豊臣秀勝、結城秀康、 小早川秀秋、宇喜多秀家、八条宮智仁親王 養女:豪姫 |
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし、/とよとみ の ひでよし、天文6年2月6日(1537年3月26日) - 慶長3年8月18日(1598年9月18日))は、日本の戦国時代から天正時代(安土桃山時代)にかけての武将・戦国大名。「豊臣秀吉」の読み方については「豊臣氏」を参照。
目次 |
略歴
尾張国中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられた。豊臣姓を賜り、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの政策を採るが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康らに託して没した。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻めなど機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
生涯
生い立ち
尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に百姓と伝えられる弥右衛門、なかの間の子として生まれた。生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。弥右衛門の素性には諸説がある(注:後述の人物像を参照)。誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は2月6日である。また血液型は遺品等の体液等を調べた結果O型である事が分かっている。
広く流布している説に父の木下弥右衛門は戦で死んでしまい、母の大政所(本名はなか)は竹阿弥と再婚したが、秀吉は義父の竹阿弥と折り合いが悪く、いつも虐待されており、家を出る事を決意し、侍になるために駿河国に行ったとされるが、木下姓自体父から引き継いだものかも疑問視されており、謎が多い。
ちなみに諱の一字『秀』は放浪時代に六角義秀から拝領したものとも言われる。のち六角一族の六角義郷が近江八幡城主に取り立てられ十二万石を領し、六角義賢の子義治が後継者秀頼の弓の師範になっていることからみて、この説はかなり真実に近いものと思われる。
今川陪臣
はじめ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下長則(松下嘉兵衛)に仕えた(なお、嘉兵衛の名は息子の松下之綱も名乗っており、しばしば混同される。ここで藤吉郎はある程度目をかけられたようだがまもなく退転した。之綱は後、徳川家康に仕えるも天正11年、秀吉に丹波国と河内国内において1600石を与えられ、天正18年(1590年)に、1万6000石と頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられた)。
信長の家臣時代
天文23年(1554年)あたりから織田信長に小者として仕える。清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受け、大きな成果をあげた。これらの仕事ぶりによって信長の関心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。この頃、その風貌によって信長から「猿」「禿げ鼠」と呼ばれていたらしい(注:後述の人物像を参照)。永禄7年(1564年)には浅野長勝の娘、ねねと結婚する。
美濃の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げた話が有名だが、『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく江戸時代の創作であるとする説が強い。このころ斉藤氏の影響下の美濃より竹中重治、蜂須賀小六、前野長康らを配下に組み入れている。
永禄11年(1568年)、信長の上洛に際して明智光秀らとともに京都の政務を任される。当時の文書に秀吉の名乗りが見られる。
元亀元年(1570年)の越前朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、越前金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉はしんがりを願い出てこれをよく防いだ(金ヶ崎の退き口)。秀吉の奮戦で危機を脱した信長は、秀吉の働きに対し褒美として黄金30枚を与えた。この貢献で秀吉の勇名は一気に高まる事になる。その後も浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。
天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、(事実であるとすれば)尾張浅井の傍流で近江浅井の末流という血統を買われたかその旧領北近江三郡に封ぜられて、元々今浜という名だった地を「長浜」と改める。そして長浜城の城主となる。この頃に丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、苗字の木下を羽柴に改めている(羽柴秀吉)。
近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成・加藤清正・福島正則などの有望な若者を積極的に登用した。
天正4年(1576年)に越後の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまった。その後勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒したが、やがて許されている。
その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨に進軍し、赤松則房、別所長治、小寺政職らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。
天正7年(1579年)に備前・美作の大名・宇喜多直家を服属させる。
天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城城主・別所長治を2年に渡る兵糧攻めの末、降した。同年、但馬の山名堯熙が篭もる出石城も攻め落とした。
天正9年(1581年)には山名家臣団が、因幡の山名豊国を追放した上で毛利方の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた。その後は中国西地方一体を支配する毛利輝元と戦った。同年、岩屋城を攻略して淡路を支配下に置いた。
天正10年(1582年)には備中に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。
このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮している。
信長の死・清洲会議
1582年、本能寺の変で明智光秀により織田信長が殺された時には備中国高松城を水攻めにしていた。事件を知るとすぐさま高松城城主の清水宗治の切腹を条件に毛利方と講和し、京都に軍を返して(「中国大返し」)、山崎の戦いで光秀を破った。
この功績により丹羽長秀・池田恒興の支持を得た秀吉は清洲城での重臣会議で主導権を握った。織田信孝を織田家の跡取りにすべしと主張する柴田勝家の主張を退け、秀吉は織田信忠の遺児である幼児・三法師(織田秀信)を織田家後継者とし、その後見人になる事に成功している。
柴田勝家との対立
1583年にはこの政争で抑えた柴田勝家と戦う。激戦となるが、柴田方の佐久間盛政の暴走や、前田利家が勝家から秀吉へ寝返った事などがきっかけとなって、秀吉軍は勝利をおさめる。その後勝家の本拠の北ノ庄城を攻め、これを滅ぼした(賤ヶ岳の戦い)。賤ヶ岳七本槍の賤ヶ岳はこの戦いのことを指している
秀吉は勝家に嫁いでいたお市の方の助命を考えていたとも言われているが、前夫浅井長政に続き、ふたたび夫の勝家を秀吉の軍勢に殺される羽目になったお市の方は、夫に殉じる形での死を選んだ。
この戦いのあと勝家という後ろ盾を失った織田信孝や滝川一益などの反秀吉勢力も、やがて秀吉に降伏。信孝は切腹、一益は臣下となった。
徳川家康との対立
1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康に池田恒興・森長可を討ち取られるなど苦戦するが、秀吉は徳川方の織田信雄と和議を結ぶことに成功。その為家康も兵を引き、息子の松平秀康を秀吉の養子として送って和している。
その後秀吉は1586年には妹の朝日姫を家康の正室として、さらに母の大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。これによって秀吉は織田信長の実質的な後継者となった。
大坂城築城・豊臣政権の確立
1583年、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。九州の大名大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちの大坂の役で真田信繁は、防御の弱さを指摘されていた箇所に真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強化。徳川勢を大いに苦しめた)。
天正13年7月11日(1585年)には近衛前久の猶子として関白宣下を受け、翌年9月9日には豊臣の姓を賜って、同年12月25日太政大臣に就任(※)、政権を確立した(豊臣政権) 。秀吉は「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られた、という説もある。
※…『公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』に後陽成天皇即位式当日に式に先立って任命が行われたとされており、『公卿補任』はその事実を憚ったとされている(橋本政宣『近世公家社会の研究』)。
四国・越中征伐
そして紀州の一向一揆勢を破り、矛先を四国を統一したばかりの長宗我部元親に向けた。秀吉は元親に阿波国、讃岐国、伊予国の三国返上を要求するが、元親は拒絶。秀吉は弟の豊臣秀長を総大将に任じ、四国征伐軍を起こす。
秀長・秀次らの兵は阿波国、宇喜多秀家らは讃岐国、さらに毛利氏の兵が伊予国へ侵攻。総勢10万の大軍となった。緒戦の連敗により、元親は敵わずと見て早々と全面降伏した(四国征伐)。
その後、豊臣方の加賀前田利家を攻めるなどして反抗していた越中の佐々成政を、屈服させる(成政は1588年に肥後の失政を咎められ切腹となる)。
九州征伐
そのころ九州では島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。秀吉は島津義久に降伏勧告を行うが断られ、九州に攻め入る事になる。
1586年には豊後国戸次川において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親、信親親子・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。
だが1587年には秀吉自らが、弟の秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久・義弘らを降伏させる(九州征伐)。こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。
1587年、バテレン追放令を出す。天正16年(1588年)刀狩令を出し大規模に推進した。
小田原征伐
1589年に後北条氏の家臣・猪俣邦憲が、真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は1590年に関東に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。
東北諸大名にも、臣下としての小田原参陣を要求。しかし東北の大半を制していた伊達政宗は、派兵を渋り姿を見せなかった為に、秀吉は激怒する。その様子を知った政宗が、あわてて死装束をまとい秀吉の元に赴き謝罪した為、秀吉は遅延を許した。この時秀吉は平伏する政宗の首を扇子で軽く叩き、「もう少し来るのが遅ければここが危なかった」とつぶやいたとも言われている。
小田原城は、上杉謙信や武田信玄でも落とせなかった堅城だが、天下をほぼ手中に治めた秀吉の前では無力であった。三ヶ月の篭城戦ののちに北条氏政・氏直父子は降伏。氏政・氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された(小田原征伐)。
天下統一
最後の大敵、後北条氏を下し、ついに天下を統一する。秀吉は長きに渡って続いた戦国の世を終わらせたのである。
1591年には関白を甥の秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。
また、秀吉に仕えていた茶人千利休に自害を命じている。利休の弟子の古田織部、細川忠興らの助命嘆願も空しく、利休は切腹して果て、首が一条戻橋で晒された。この事件が起きた理由については諸説がある。
この年、東北の南部氏一族、九戸政実が後継者争いのもつれから反乱を起こす。秀吉は南部信直の救援依頼に対し、豊臣秀次を総大将とした蒲生氏郷・浅野長政・石田三成を主力とする九戸討伐軍を派遣。東北諸大名もこれに加わり、6万の大軍となった。九戸政実・実親兄弟は抗戦するが、多勢に無勢の為やがて降伏。その後九戸氏は豊臣秀次に一族もろとも斬首されて滅亡。乱は終結した。
文禄・慶長の役から晩年
1592年朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や明から援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。
1593年には側室の淀殿との間に、秀頼が産まれる。その二年後の1595年に、「『殺生関白』(摂政関白のもじり)と周りから呼ばれるほどの過ぎた乱行」を理由に、秀吉の甥で関白の豊臣秀次に切腹を命じた。秀次の補佐役であり、秀吉を長く支えてきた古参前野長康らも連座して切腹処分となった。秀次の妻や子などもこの時処刑されている。実際に秀次にこのような乱行行為があったのかどうかには諸説がある。一説には「実子の秀頼が生まれたので、秀次が邪魔な存在になった」という見方もある。
講和交渉が決裂したため、1597年再び朝鮮に出兵した(慶長の役)。秀吉はその最中の1598年8月18日に五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で胃がんのため没した、享年61。
秀吉の死を契機に、慶長の役は終了した。この戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受け、援軍を送った明帝国もダメージを被った。また日本側でも多くの武士が戦死し豊臣家と家臣の間に亀裂が走った。次の徳川時代では戦争によって悪化した日朝関係の改善が外交の課題の一つとなった。
秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。
評価
政策
秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、楽市楽座・朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を行った。太閤検地と刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたと評価される(但し、近年では刀狩については不徹底に終わったという見方も有力である)。
また、いち早く日本におけるキリスト教徒を弾圧し、キリスト教の布教を禁止した。この政策はより徹底されて江戸幕府に受け継がれた。しかし、晩年に領土拡大を目論んで行った対外的な侵略戦争である文禄・慶長の役は失敗に終わった事が原因で、これに不満を示した豊臣家の家臣が徳川家に味方する者が相次いだ。これは豊臣政権が短命に終わる原因の一つになった。
人物像
- 本能寺の変から中国大返し、山崎の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦いに至るまでの軍事政治手腕は、神懸り的ともいうべき能力を発揮している。信長の死後一年足らずで、信長勢力での席次が3~4番手の軍団長が主席となり、以後、日本有数の実力者にまで当極している。しかし次第に平衡感覚を失い、それを補うべき秀吉の一族の多くも不幸になった(母の大政所と妹の朝日姫は家康の人質となり、実弟で有能な補佐役であった秀長は早くに亡くなり{一般には寿命とみなされる}、甥の秀次と一族を処刑するように命じた)。特に彼等夫婦自身に非がないとはいえ、正室高台院との間に嫡子を儲ける事が出来なかった事は、世襲も有用な政略である戦国時代にあっては致命的ともいえる。仮に秀吉没時に、壮年の後継者がいれば、多少凡庸であったとしても、家康の跳梁も、豊臣家が無残に殲滅される事はなかったかもしれない。
- 晩年の秀吉は信長時代のような切れ味がなくなり、独裁による弊害が目立つ。このため、豊臣氏は結果的に家康に滅ぼされたとはいえ、その遠因を作り出したのは、秀吉自身と見なされる論が多いのである(特に豊臣秀次一族粛清と文禄・慶長の役は、多くの史家から秀吉最大の愚行とまで言われている)。
- なお明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった。文禄・慶長の役を「朝鮮征伐」として、「敵(朝鮮)の将軍を恐れしめ、日本の国威を世界にしらしめた偉大な人物」とされている文献もあったとされる。その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。
- このように秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に、誕生の地である名古屋市中村区(記念館がある。また名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする)、政権を執った本拠地の大阪市(江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い)などでは人気が高い。
- 秀吉の父の弥右衛門は百姓であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。平時も農業の経営に主としては参加せず、合戦には傭兵的に参加する階層だったのだろうか。太田道灌や北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が始めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。秀吉の真の出自と初期の人生についてはいまだ謎に包まれている側面が大きいとも言える。
- 生涯において子宝に恵まれにくかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民は、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回しことが、始まりと伝えられている。しかし、実子秀勝は、幼少で病死(その後、秀吉は、2人の養子を秀勝と名付けている)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したと近江坂田郡誌に記載されている。秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。しかし、舎那院では現在、秀吉の母堂大政所のために寄進されたものであると説明している。多聞院日記によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で亡くなっているとされているので年代にズレがある。「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。
- 猿と呼ばれたとされる説も有名ではあるが、実際に秀吉が猿と呼ばれたのは実は関白就任後に落書などの中で、「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味での皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するものであり、容貌とは何ら関係なく、まして信長がそう呼んだという証拠すら見あたらない。いっぽう「禿げ鼠」の呼び名も、信長からねねへの書状の中で一度触れられたのみで、常用されていたわけではない。
- また、彼は指が一本多い多指症だったとルイス・フロイスや前田利家が記した記録に残されていて、後者によれば右手の親指が一本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時(現在もそうだが)、普通は小さい頃に1本を切除し5本とするが、秀吉は6本指を生涯通したとのことである。
- また、死因にも説が多い。一説には、脳梅毒によって死亡したとする説がある。
性格
- かなりの好色家で、10歳の女子を側室として迎えたり、性欲に関してはかなり横暴だったという。ただし子供に恵まれなかった事や、精力剤を頻繁に求めていた事からも、精力絶倫では無かったと思われる。むしろ側室を数多く迎える事によって、自らの地位と権力を誇示したい目的があったものと思われる。また当時盛んだった男色への興味が全く無かったため、性欲が女性に対してのみ向けられた事も考慮すべきであろう。
墓所・霊廟・神社
死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社(京都)に祀られたが、三代将軍家光の時代幕府により廃された。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。高野山奥の院にも墓所がある。
戒名「国泰裕松院殿霊山俊龍大居士」
主祭神に秀吉が祀られている神社として、京都市以外には豐國神社(大阪市)、豊国神社(長浜市)、豊国神社(名古屋市)がある。大阪市と長浜市はかつて秀吉が統治した町に、名古屋市は秀吉の生地に由来する。
系譜
秀吉の親族
- 正室:高台院(お禰) - 木下定利の娘
- 側室:南殿 - 石松丸秀勝の母
- 側室:南の局- 山名豊国の娘
- 側室:松の丸殿(京極竜子) - 京極高吉の娘
- 側室:淀殿(茶々) - 浅井長政の娘
- 側室:加賀殿(摩阿姫) - 前田利家娘
- 側室:甲斐姫 - 成田氏長の娘
- 側室:三の丸殿- 織田信長の娘
- 側室:三条殿(とら) - 蒲生賢秀の娘
- 側室:姫路殿 - 織田信包の娘
- 側室:広沢局- 名護屋経勝の娘
- 側室:月桂院(お嶋・嶋子)- 足利頼純の娘
- 側室:安楽院(お種の方) - 地侍の娘
- 側室:法鮮尼(おふく) - 三浦能登守の娘、宇喜多秀家の母
- 弟:豊臣秀長
- 甥:豊臣秀次
- 甥:豊臣秀勝
- 甥:豊臣秀保
- 子:豊臣秀勝
- 子:豊臣鶴松
- 子:豊臣秀頼
- 義弟:浅野長政
秀吉の養子
- 羽柴秀勝(織田信長の四男)
- 宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子)
- 豊臣秀勝(秀吉の姉・とも(日秀)と三好吉房との間に生まれた次男。羽柴秀勝を継ぐ)
- 豊臣秀次(秀吉の姉・とも(日秀)と三好吉房との間の長男で、豊臣秀勝の兄)
- 結城秀康(徳川家康の次男)
- 小早川秀秋(秀吉の正室・おね(高台院)の甥)
- 豪姫(前田利家の娘。母は利家の正室・芳春院)
- 智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮家を創設)
家臣
譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を新たに得た。
織田信長に仕えた頃からの陪臣として浅野長政、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏、竹中重治、樋口直房、脇坂安治、片桐且元、石田三成、黒田孝高、増田長盛などがおり、福島正則、加藤清正は幼少の頃から自身で養育する。
賤ヶ岳の戦いでは、抜群の功績を上げた正則、清正に加え加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元らが七本槍として数えられる。ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。
信長の後継を得るとその重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、これらは友人としての関係を保ったとも考えられている。
関ヶ原で敗れて処刑された石田三成や自害した大谷吉継、敗れて島流しとされた宇喜多秀家は別として、正室の高台院(おね、ねね)が、秀吉の子の秀頼が側室の淀殿の子であることから、福島正則ら秀吉子飼の大名たちに対して豊臣家に忠義だてしなくてもよいと言ったため、彼らの中で大阪冬の陣、大坂の役とも豊臣家に忠誠を尽くしたものは皆無である(ただし、加藤清正と浅野幸長は、徳川氏が黙認する中、消極的な形ながら豊臣氏の擁護に終生尽力した。ただし、このために毒殺されたと言う説もある)。
晩年には豊臣政権の職制として五大老、三中老、五奉行を設けるが、死後に譜代の家臣は関ヶ原の戦いで武断派と文治派に分かれ戦った。
- 黄母衣衆
- 青木一重、伊木遠勝、石尾治一、伊東長実、井上道勝、井上頼次、猪子一時、織田信高、小野木公郷、郡宗保、仙石秀久、津川親行、津田信任、戸田勝隆、友松盛保、中島氏種、中西守之、長原雲沢軒、野々村吉安、長谷川重成、蜂須賀家政、服部一忠、速水守久、尾藤知宣、舞兵庫(前野忠康)、神子田正治、箕浦勘右衛門、三好房一、毛利吉成、森可政、山内一豊、分部光嘉
- その他子飼い
- 小西行長
関連項目
- 大坂城
- 聚楽第
- 伏見城
- 黄金の茶室
- 花見
- 果心居士
- 出世稲荷神社
- 源平交代思想
- 羽柴誠三秀吉…実業家。本名は三上誠三。1990年代より羽柴秀吉、羽柴誠三秀吉などを名乗って国政選挙や地方自治体の首長選挙にたびたび出馬し(いずれも落選)、話題となる。秀吉の子孫ではない。
関連フィクション
- 小説
- 『夢のまた夢』津本陽
- TVドラマ
- 漫画
- ゲーム
- 資料館