高句麗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高句麗(こうくり、紀元前37年ころ - 668年)は、満州から朝鮮半島にかけて存在した扶余系民族とその国家名。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅による連合軍に滅ぼされた。
三国時代 | |||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
三国時代の地図、5世紀終わり頃 | |||||||||||||||||||||
|
高句麗は扶余系民族が建てた国で鴨緑江周辺で農耕を主としてその他に牧畜・狩猟を生業としていた。高句麗の名称は「大きな都城」の意味であるらしい。
高句麗は後継の渤海と同じように北朝鮮・韓国と中国の間で高句麗史はどちらの歴史に帰属するかについて論争が起きている。中国社会科学院は中国東北部の少数民族の歴史研究プロジェクト、「東北工程」を2002年より開始し、2004年に北京政府が高句麗は自国の地方政権であるとの認識を打ち出したところ、韓国から激しい反発を受けて外交問題に発展しかけた。(詳細は、高句麗問題)
後述するように、高句麗の故地は満州であるが、平壌に都したこともあり、どちらととるかは難しい。常識的に考えれば、高句麗は半島の歴史上の国家であり、かつ中国の歴史上の国家でもある、ということだろう。ある古代国家がどの現代国家の歴史に属するのか、二者択一的に定めよ、という問題設定自体が政治の介入を示すものであり、純粋な学術研究には適当でないと思われる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 建国神話
三国史記によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(ジュモン)により立てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙と言うのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。
[編集] 卒本城時期
初期の高句麗は、紀元前1世紀頃には現在の中国遼寧省本渓市桓仁県(遼寧省と吉林省の省境近くの鴨緑江の少し北)の五女山城を都とした。これを卒本城という。当時、この地域には前漢の武帝により立てられた楽浪郡などの四郡の一つ玄菟郡(げんとぐん)が存在していた。この郡は初め中心が朝鮮北部にあったのだが、宣帝の時代の紀元前75年に西に移動して中心を高句驪県としている。紀元前107年、武帝が朝鮮を滅ぼし、玄菟郡を置き、高句麗を県として帰属させた。これが高句麗の名前が出た最初である。建国後まもなく、西暦3年に高句麗は鴨緑江岸の丸都城に遷都した。
[編集] 丸都城時期
丸都城は現・吉林省集安市(桓仁と省境を挟んで反対側、通化地級市の所管)の山城である。その後、山上を下りて平地の国内城に移ったが、山城の丸都城と平城の国内城は一体とみるべきだろう。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、玄菟郡を西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。遷都後に公孫氏が魏の司馬懿により滅ぼされたために、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍毌丘倹により首都を攻略された。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。しかしその後遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に国都を落とされ、臣従をせざるを得なくなった。その後はあまり奮わなくなり、百済との抗争で故国原王が戦死し、国内は混乱に陥った。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従する。この時期の372年、前秦から僧侶・仏典・仏像などが伝来している。
391年に即位した19代広開土王は後燕と戦い遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都のすぐ傍まで迫り、臣従を誓わせた。その後、百済が倭と結んで新羅を攻めたので援軍を送り、倭を追い返して新羅を朝貢国にした。
広開土王の後も高句麗の伸長は続き、長寿王は平壌城に遷都した。
[編集] 平壌城時期
長寿王は西へ進出し遼東を完全に勢力下として遼河以東を全て手に入れる。更に475年には百済の首都を陥落させ百済王を殺害し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州を領有する大帝国となり、高句麗の最盛期とされる。
しかしその後、盟下にいた新羅の勢力が大きくなり、百済と新羅の連合軍により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、西の中国南北朝には朝貢を行い、友好を保って、新羅との対立を深めていく。この頃の高句麗が最も危惧していたのは中国の北朝の勢力であり、その牽制のために中国の南朝や遊牧民族・突厥などと手を結びながら包囲していく戦略が取られていた。
中国で北朝系隋が誕生して南朝の陳を滅ぼして全土を平定するとこれに対抗するために遊牧民族・突厥と結び、これを危惧した隋の初代文帝・二代煬帝の4度にわたる遠征軍を受けるが、全て撃退し隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳)。隋が倒れ、唐が立つと、今度は太宗による唐の遠征軍を受けるが、こちらも2度撃退し、さらに高宗期の3度の遠征も撃退した。中国との争いで国力を疲弊した高句麗は何度か百済と結んで新羅を攻めるが、新羅は唐に助けを求め、668年に唐・新羅連合軍に首都を落とされ、高句麗は滅んだ。
[編集] 滅亡後
その後、高句麗遺民は営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられるが、その中の粟末靺鞨系高句麗人の指導者により逃亡、その指導者の息子・大祚栄が東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)で独立し震国(大震)を建てた。後の渤海である。渤海は8世紀から9世紀にかけて繁栄を遂げた後、926年に新興国契丹によって滅ぼされた。末裔は数度にわたって再興を目指したが全て失敗し、失敗のたびに指導者や領民のほとんどが高句麗の後継を掲げる高麗に亡命した。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金において、彼らは大いに重用され、その中で女真に取り込まれてゆき、歴史から姿を消した。
朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗り挙兵、新羅北部の大半を占領し独立した。その後、後高句麗の将、王建が後高句麗を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。後高句麗及び高麗は同時期に滅亡した渤海の難民を、同胞として積極的に迎え入れた。
なお、高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。
ちなみに東洋史学者である日野開三郎は弓裔の立てた「後高句麗国」とは別に唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた‘唐の傀儡政権’としての『後高句麗国』が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする学説を唱えている。
[編集] 人種
- 高麗(高句麗)は、夫餘から出た別種である。(高麗者、出自扶餘之別種也)『旧唐書』
- 高句麗は本来夫餘の別種である。(高麗 本夫餘別種也)『新唐書』
- 臣(蓋鹵王)と高句麗は源は夫余より出る(臣與高句麗源出夫餘)『魏書』百済伝
という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている。なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・濊・百済(王族)などが朝鮮半島に広く分布し、高麗王朝以降、「朝鮮民族」のアイデンティティーが確立されてゆく中で、半島南部の韓族とともに民族を構成していった一部とみられている。
[編集] 文化
高句麗の文化は石の文化だといわれる。石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には横穴式石室に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。すでに前期古墳にもみられるもので、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。ただ起源は中国の古墳壁画にある。
[編集] 国際関係
[編集] 北方民族との関係
高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する略奪や侵略で強大化したため、当初から中国文化の影響が強く、匈奴や柔然との関係はそれほど強くはなかった。しかし4世紀になって中国が五胡十六国時代の混乱に陥り、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を立てると高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって急速に滅ぼされ、華北の混乱は高句麗に有利に作用した(この前秦国が高句麗に仏教を伝えた)。この頃高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満州の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には高句麗人が擁立されたこともあった。
6世紀に入ってモンゴル高原に突厥が興起すると、契丹や靺鞨など弱小民族の支配権をめぐって突厥と対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかし隋が中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗平陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。
やがて突厥が復興の兆しを見せると高句麗は対隋戦略上、突厥に接近した。この時期には突厥を通じて西域諸国とも通好したようである。だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、隋煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の反乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後高句麗が唐に滅ぼされた時、后突厥に亡命した高句麗人もいた。
[編集] 日本との関係
長野県には5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とされる。また狛、巨麻の古代地名は日本各地に分布する。
4世紀末から5世紀にかけて倭国(日本)と高句麗は敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。しかし、6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭国と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。聖徳太子の師となった高句麗僧・恵慈は有名である。ここで『新撰姓氏録』に見える高句麗系氏族を列挙しておくと、
- 狛人 高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
- 狛造 高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
- 狛首 高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
- 狛染部 高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
- 大狛連 高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
- 大狛連 高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)
668年に高句麗が滅亡すると倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。
[編集] 高句麗歴代王
- 朝鮮国王の一覧#高句麗を参照。
高句麗には有力な支配者集団が5つあり、これを五部(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)という。王は消奴部(後に桂婁部)から立てられ、王妃は絶奴部から出されていたという。
[編集] 官制
『三国史記』によれば、古くは左輔・右輔の官名が最高位のものとして見られ、百済でも同様に左輔・右輔を最高位の官名としていた。高句麗では第8代新大王のときにその上に国相という官を新設し、王の即位に功績のあった明臨答夫が始めてその位についた。
『三国志』や『後漢書』などの表記・序列に異同はあるものの、3世紀には以下の10段階の官制が整っていたものと考えられている。ただし相加、対盧、沛者、古雛加については五部の有力者が称したものであり、必ずしも王権の元に一元化された官制だったわけではないとされる。
- 相加(そうか、상가、サンガ)
- 対盧(たいろ、대로、テロ)
- 沛者(はいしゃ、패자、ペジャ)
- 古雛加(こすうか、고추가、コチュガ)
- 主簿(しゅぼ、주부、チュブ)
- 優台(ゆうだい、우대、ウデ)
- 丞(じょう、승、スン)
- 使者(ししゃ、사자、サジャ)
- 皁衣(そうい、조의、チョウィ)
- 先人(せんじん、선인、ソニン)
『隋書』や『新唐書』に見られる官位名についても異同は著しいがそれぞれ12階とし、第15代の美川王(在位:300年-331年)の時代に王権の下に、以下のような一元的な13段階の官制に整備されたと考えられている。
- 大対盧(だいたいろ、대대로、テデロ)
- 太大兄(たいだいけい、태대형、テデヒョン)
- 烏拙(うせつ、오졸、オジョル)
- 太大使者(たいだいししゃ、태대사자、テデサジャ)
- 位頭大兄(いとうだいけい、위두대형、ウィドテヒョン)
- 大使者(だいししゃ、대사자、テサジャ)
- 大兄(だいけい、대형、テヒョン)
- 褥奢(じょくしゃ、욕사、ヨクサ)
- 意侯奢(いこうしゃ、의후사、ウィホサ)
- 小使者(しょうししゃ、소사자、ソサジャ)
- 小兄(しょうけい、소형、ソヒョン)
- 翳属(えいぞく、예속、イェソク)
- 仙人(せんにん、선인、ソニン)
高句麗の末期に大対盧の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし、막리지、マンニジ)の位について専権を振るった。莫離支そのものの名称は『三国史記』職官志では『新唐書』を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている。(ただし『新唐書』高麗伝にはそのような記載はない。)
[編集] 関連項目
- 古代朝鮮半島関連の中国文献
- 高句麗古墳群
- 高句麗前期の都城と古墳
- 高句麗語
- 高句麗問題
- 東北工程
- 満州族
- 朝鮮人
[編集] 参考文献と外部リンク
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 高句麗研究会(朝鮮語)
- 高句麗研究会(日本語)
- 朝鮮日報「嗚呼、高句麗」(朝鮮語)
- 北史高句麗等伝(簡体字中国語)