御家人
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御家人(ごけにん)は、征夷大将軍の家人である武士の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。
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[編集] 中世の御家人
平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える武士を「家人」と呼んでおり、鎌倉幕府が成立すると鎌倉殿(将軍)の家臣を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになった。鎌倉殿御家人、関東御家人、鎮西御家人とも言う。
御家人は、鎌倉殿から所領を安堵されたり、新領を給与されるなど(所領安堵や新領給与は地頭職への補任という形で行われた)の給恩に対して、御家人役(ごけにんやく)と呼ばれる京都・鎌倉への大番役や異国警護役などの役を通して鎌倉殿へ奉仕して恩に報いる義務を負った。これを御恩と奉公の関係という。御家人は、広大な所領を持ち数カ国の守護を兼ねる有力御家人から、ごく狭い所領しか持たない零細な御家人まで大小さまざまな規模であったが、鎌倉殿の直参の家臣として身分上は同格として扱われた。
史料から検出される御家人の数は決して多くはなく、関東諸国を除き、一か国あたり概ね10名程度にとどまっていた。関東諸国は他地域に比べて御家人が非常に多い地域であり、最も多い武蔵国の約80名をはじめ、各国とも数十名の御家人が在住していた。1275年の史料によれば、全国の御家人の総数は約480名であり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だったことを物語っている。
鎌倉幕府の勢力が強まるにともなって、御家人は武士の身分を表す言葉となった。室町幕府は御家人制度を採らなかったが、御家人は将軍直参の武士の身分を示す用語としてしばしば用いられ、戦国時代には転じて一部の戦国大名の家臣を指す言葉となる。
[編集] 近世の御家人
江戸時代には、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に御目見得以下(将軍に直接謁見できない)の家格に位置付けられた者を指す用語となった。御家人に対して、御目見得以上の家格の直参を旗本という。
近世の御家人の多くは、戦場においては徒士の武士、平時においては与力・同心として下級官吏としての職務や警備を務めた人々である。
御家人は、原則として、乗り物や、馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができなかった。ここでいう乗り物には、扉のない篭は含まれない。例外として、奉行所の与力となると、馬上が許されることがあった。有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として3代続けて旗本の役職に就任すれば、旗本の家格になりうる資格を得られた。
御家人の家格は譜代(ふだい)、二半場(にはんば)、抱席(かかえせき)の3つにわかれる。譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた。
譜代と二半場は、無役(幕府の公職に任ぜられていない状態)であっても、俸禄の支給を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることができた。家督相続や叙任にあたっては、御家人は旗本のように将軍に謁見することはなかったが、譜代席のみは城中で若年寄や頭などの上司に謁見して申し渡された。譜代席未満の御家人は、城中ではなく自分の所属する機関で、申し渡しがあった。
譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった。
御家人の大半は、知行地を持たない30俵以上、80俵取り未満の蔵米取で占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身であった。ただし、旗本と御家人の定義は直参のうち謁見できるかどうかであったので、家禄(俸禄)の高低は家格の決定に関係がなく、旗本で最も小禄であった者は、50俵程度で御家人の大半よりも少ない。200石(俵)取り以上の御家人もいたが、400石を越える御家人は存在しなかった。江戸時代中期以降は、地方知行制が崩れ蔵米取に移行したり、旗本に昇進したため知行地を持つ御家人は、ほとんどいなくなった。
御家人の多くは、江戸時代中期以降、非常に窮乏した。諸藩の藩士は、家禄が100石(俵)あれば一応、安定した恵まれた生活を送れたとされるのに対し、幕府の御家人は100石(俵)取りであっても生活はかなり苦しかったと言われる。御家人は大都市の江戸に定住していたために常に都市の物価高に悩まされ、また諸藩では御家人と同じ程度の家禄を受けている微禄な藩士たちは給人地と呼ばれる農地を給付され、それを耕す半農生活で家計を支えることができたが、都市部の御家人にはそのような手段も取ることができなかったことが理由としてあげられる。窮乏した御家人たちは、内職を公然と行って家計を支えることが一般的であった。
[編集] 参考文献
[編集] 鎌倉時代の御家人
- 田中 稔『鎌倉幕府御家人制度の研究』(吉川弘文館、1991年) ISBN 4642026363
- 七海雅人『鎌倉幕府御家人制の展開』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4642028099
[編集] 江戸時代の御家人
- 高柳金芳『御家人の私生活』(雄山閣出版、2003年) ISBN 4639018061
- 氏家幹人『小石川御家人物語』(学陽書房人物文庫、2001年) ISBN 4313751203