武家政権
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武家政権(ぶけせいけん)とは武家による政権である。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。
一般には、建久3年(1192年)の源頼朝による鎌倉幕府の設立から、慶応3年(1867年)の徳川慶喜による大政奉還まで、約700年間に渡る武家による政権を指すが、平清盛の平氏政権からを始まりとする場合も有る。
その多くは、武力により政権を樹立し、朝廷から征夷大将軍に任ぜられて幕府を開き、封建制により統治を行った。
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[編集] 歴史
武家政権の誕生以前の日本は、天皇親政、摂関政治、院政など、主に皇族や公家により統治されていた。
しかし、11世紀に荘園公領制が成立すると、対等な権利主体となった荘園と公領(国衙領)の間に武力紛争が多発し、荘園の現地管理者である荘官、公領の現地管理者である惣司、郡司、郷司、保司には武芸の家の者たる武士が任命されるようになった。こうして武士は地方領主化して地域の実効支配者としての地位を築いていった。
[編集] 平安時代末期
平安時代末期、平清盛が武家としては初めての太政大臣に任じられた。清盛は朝廷の内紛に起因する保元の乱と平治の乱で、武功を挙げ政権を獲得したが、平氏政権は平家一門で朝廷の官位を占め、清盛自身は天皇の外戚となるなど、従来の摂関政治と大差は無かった。そのため、地方の実効支配者としての地位の向上を望む多数の地方武士の利益代表者の位置を十分構築できず、同時多発反乱の中から台頭した源義仲や源頼朝らによって滅ぼされた(ただし、清盛が設置した諸制度の中に後の頼朝政権に引き継がれた組織の萌芽が見られるというのが近年の有力説である)。
[編集] 鎌倉時代
本格的な武家政権は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた事により始まる。頼朝は治承・寿永の乱を経て、鎌倉を本拠とした地方政権を樹立し、東国を中心に守護と地頭の設置を朝廷に認めさせ、さらに征夷大将軍に任ぜられた。頼朝とその子らの源家は三代で滅びるが、御家人であった北条氏は、摂家から藤原頼経を迎えて将軍へと就任させ、自身は執権として政権を握る。幕府は承久の乱などを経て、次第に朝廷へ介入し、地頭は国衙領や荘園へ浸食し、武家政権は徐々に全国への支配を強めた。
[編集] 南北朝時代
南北朝時代、南朝の後醍醐天皇らが鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を開始し、武家政権は中断する。しかし新政は武家の支持を得られずに瓦解し、足利尊氏は南朝を吉野に追い、北朝から征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府を開いた。
[編集] 室町時代
室町時代、幕府はさらに朝廷の権力を奪い、三代将軍である足利義満は、中国の明から「日本国王」に冊封される。また守護による地方支配も進み、この頃の守護は守護大名と呼ばれる。
[編集] 戦国時代
戦国時代、朝廷や室町幕府はほぼ権力を失っており、武家は戦国大名として各国を支配し、一部は朝廷から官位を受けて、権威や大義名分を得た。これらの戦国大名の中から強大化した織田信長が室町幕府を滅ぼし、強力な中央集権の基礎(織田政権)を築いた。信長の後を継いで天下を統一した豊臣秀吉は、公家である藤原氏の養子として関白宣下を受け、政権(豊臣政権)を権威付ける。次の徳川家康は清和源氏を称し、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた。
[編集] 江戸時代
江戸時代は264年間に渡って続き、幕府は朝廷を禁中並公家諸法度などにより統制した。地方政治は藩によって行われ、幕府と合わせて幕藩体制と呼ばれる。
[編集] 幕末
江戸時代末期になり、諸外国が幕府に開国を求めると、尊皇攘夷などの運動が盛んとなり、政情不安の中で、十五代将軍の徳川慶喜は大政奉還を行い、武家政権は終焉を迎えた。以後の日本は明治政府が統治を行い、大名は華族、他の武士は士族とされ、武家は消滅していった。
[編集] 関連項目
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