古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古墳(こふん)とは、一般には墳丘を持つ古い墓のことである。古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。
日本考古学では、墓のあり方が社会のあり方を表していると考えられている3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼び、それ以外の時代につくられた墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んで区別している。
目次 |
古墳の概要
形・形状
日本の古墳には、基本的な形の円墳・方墳をはじめ、八角墳・長方墳・双方中円墳・双方中方墳など、多くの種類がある。また、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳などの山が二つある古墳もある。主要な古墳は、山が二つあるタイプの古墳であることが多い。死者が葬られる埋葬施設には、様々な形状が見られる。 前方後円墳の代表的な古墳は、大阪府堺市の大山(仙)古墳である。
埋葬施設
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。
竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はない。竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがある。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものである。古墳時代前期から中期に盛行する。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされる。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行した。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので縄文時代以来の埋葬法である。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設をつくらずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法である。
横穴式系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が作られる。横穴式石室、横口式石槨などがある。横穴式石室は、通路である羨道(せんどう)部と埋葬用の空間である玄室(げんしつ)部を持つ。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片袖式と呼ぶ。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々である。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。古墳時代後期以降に盛行する。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られる。
棺
古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬した。棺の材料によって、木棺、石棺、陶棺などがある。
- 木棺のうち刳りぬき式のものは、巨木を縦に二つに割って、それぞれ内部を刳りぬき、蓋と身とが作られたものと考えられ、「割竹式木棺」と呼び習わされている。しかし、巨木を二つに割るというが、竹を二つに割るように簡単にはいかないので用語として適切かどうかを指摘する向きもある。
- つぎに「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、二枚とを組み合わせて作った。
薄葬と厚葬
中国には、埋葬に関して薄葬と厚葬という二つの対立する考え方があった。その考え方の違いの根底には異なった死生観が存在していた。墳丘を造っているかどうかで、薄葬(はくそう)か厚葬(こうそう)かの違いを区別することができる。つまり、死後、墓とした土地を永久に占有できるかどうかで区別する。
薄葬令
646年(大化2年)に出された詔は、長文であり、内容から4部に分けられるが、その第一に述べられているのが、この「薄葬の詔」である。初めの部分は制定の意義を述べている。中国の文献を適当に混ぜ合わせて作文している。後半は、葬制の内容を具体的に記している。従来の墓の規模を遙かに縮小し、簡素化している。そこで一般にこの葬制を「薄葬制」という。この法令が出された背景には、「公地公民制」と関わりがあるのではないかという説がある。
「孝徳天皇大化二年三月癸亥朔
甲申、詔日、朕聞、西土之君、戒其民日、古之葬者、因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而己。故吾營此丘墟、不食之地 欲使屠代之後、不知其所。無藏金銀銅鐵。一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過。飯含無以珠玉。無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。叉日、夫葬者藏也。欲人之不得見也。廼者、我民貧絶、專由營墓。爰陳其制、尊卑使別。 夫王以上之墓者、其内長九尺、濶五尺。其外域、方九尋、高五尋。役一千人、七日使訖。其葬時帷帳等、用白布。有轜車。上臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方七尋、高三尋。役五百人、五日使訖。其葬時帷帳等、用白布。擔而行之。(蓋此以肩擔輿而送之乎)。下臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方五尋、高二尋半。役二百五十人、三日使訖。其葬時帷帳等、用白布、亦准於上。大仁・小仁之墓者、其内長九尺、高濶各四尺。不封使平。役一百人、一日使訖。大禮以下、小智以上之墓者、皆准大仁。役五十人、一日使訖。凡王以下、小智以上之墓者、宜用小石。其帷帳等、宜用白布。庶民亡時、牧埋於地。其帷帳等、可用麁布。一日莫停。凡王以下、及至庶民、不得營殯。凡自畿内、及諸國等、宜定一所、而使収埋、不得汚穢散埋慮々。凡人死亡之時、若經自殉、或絞人殉、及強殉亡人之馬、或爲亡人。藏賓於墓、或爲亡人、断髪刺股而誅。如此奮俗。一皆悉斷。或本云、無藏金銀錦綾五綵。又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀。 縦有違詔、犯所禁者、必罪其族。」(『日本書紀』巻第二十五)
東アジアで
日本列島で大規模な古墳が築造された3世紀中葉過ぎから7世紀後半にかけての時期には、朝鮮半島でも墳丘をもつ古墳が盛んに造営された。
高句麗で最大の古墳は中国集安(しゅうあん)の大王陵である。方形の積石塚で一辺63メートル、周りには一辺320メートルの土塁が巡らされている。また平壌の江西(こうせい)大墓は7世紀の壁画古墳として有名である。一辺60メートルの方墳。