後醍醐天皇
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう、正応元年11月2日(1288年11月26日) - 延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)は、第96代天皇。諱は尊治(たかはる)。
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[編集] 系譜
大覚寺統の後宇多天皇の子。母は内大臣花山院師継の養女、談天門院・藤原忠子。(実父は参議五辻忠継)。
[編集] 系図
─(88)後嵯峨天皇┬宗尊親王(鎌倉将軍6)─惟康親王(鎌倉将軍7) │ │ 【持明院統】 ├(89)後深草天皇┬(92)伏見天皇┬(93)後伏見天皇─〔北朝〕┬(北朝1)光厳天皇─→ │ │ ├(95)花園天皇―直仁親王 └(北朝2)光明天皇 │ │ └尊円法親王 │ └久明親王(鎌倉将軍8)─守邦親王(鎌倉将軍9) │【大覚寺統】 └(90)亀山天皇─(91)後宇多天皇┬(94)後二条天皇―邦良親王─(木寺宮)─康仁親王 └〔南朝〕(96)後醍醐天皇─→
〔北朝〕 ┬(北1)光厳天皇┬(北3)崇光天皇─(伏見宮)─栄仁親王─貞成親王(後崇光上皇)─(102)後花園天皇─→ ├(北2)光明天皇└(北4)後光厳天皇─(北5)後円融天皇─(北6)(100)後小松天皇─(101)称光天皇 ├長助法親王 └珣子内親王(後醍醐帝中宮、新室町院) 〔南朝〕 ─(96)後醍醐天皇┬尊良親王 ├恒良親王 ├(97)後村上天皇(義良親王)┬(98)長慶天皇 │ ├(99)後亀山天皇─(小倉宮)─良泰親王─空因┬尊秀王 │ └良成親王(鎮西宮) └忠義王 ├護良親王(尊澄法親王)─興良親王 └懐良親王(征西将軍)
[編集] 略歴
徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の皇太子に立ち、文保2年(1318年)に同天皇からの譲位によって31歳という壮齢にて即位。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。大覚寺統内部では当初より後醍醐天皇は傍流、中継ぎとして認識されており、その即位は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王成人までという条件付のものであった。この中継ぎという立場から後醍醐の子孫への皇位継承、後醍醐自身の治天の君就任は想定されておらず、後醍醐天皇は不満を募らせた。それが、その裁定を下した鎌倉幕府への反感へとつながってゆく。
正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して六波羅探題が後醍醐の側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する。しかし、この頃から大覚寺統を支持する公家の間で天皇派と邦良親王派への分裂が見られ始め、後者を持明院統側や幕府も支持したために天皇側は窮地に立たされる。そして邦良親王が病死した後には退位への圧力が一層強まる事となった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽動座を決断、三種の神器を持って御所を脱出した上で挙兵し笠置山(現・京都府相楽郡笠置町内)に篭城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の変と呼ぶ。
天皇は翌元弘2年/正慶元年(1332年)隠岐島に流罪となり、幕府は邦良親王の次に予定されていた持明院統の光厳天皇を替わりに即位させる。この時期、後醍醐の皇子護良親王、河内国の楠木正成、播磨国の赤松則村(円心)ら反幕勢力が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年/正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。
帰京した後醍醐は光厳天皇の皇位を否定し、建武の新政を開始する。また自分が所属する大覚寺統の嫡流である兄後二条天皇の遺族を皇太子に指名せず本来傍流であったはずの自分の皇子を後継者として指名し、自己の子孫による皇統の独占を企図した。このため対立していた持明院統のみならず味方であるはずの大覚寺統内部からも敵対者を生むこととなった。
建武の新政は表面上は復古的であるが内実は中華皇帝的な天皇独裁を目指し、性急な改革、土地訴訟への対応の不備や恩賞の不公平、武家を排除した政権運営、大内裏建設計画などは各方面の不満を呼び、政権の求心力は失墜した。建武2年(1335年)に中先代の乱の鎮圧のため勅状を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃げ帰る。
足利軍が入京すると後醍醐は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は持明院統の光明天皇を立て、建武式目を制定して正式に幕府を開く。後醍醐は京を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(奈良県吉野郡吉野町)の山中にて南朝を開き、京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年/暦応2年(1339年)8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で崩御する。
摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司の津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また尊氏は後醍醐天皇を弔い京都に天竜寺を造営している。
[編集] 論評
同時代では、早くも天皇側近の北畠親房が『神皇正統記』において保守的公家観から新政策への批判を加えている。近世においては後醍醐天皇を不徳の君であるとする評価が定着し、徳川光圀によって編纂が開始された『大日本史』においては南朝を正統とする立場から後醍醐を不徳とする認識が見られ、江戸時代には新井白石が『読史余論』において、王朝政治における累代の天皇の失徳が武家政権成立の過程であるとする歴史観の中で、後醍醐をその末尾に位置付けている。頼山陽の『日本外史』では後醍醐批判の一方で即位直後の親政に関しては肯定的評価をしている。
[編集] 側近
[編集] 諡号・追号・異名
後醍醐天皇は、延喜の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇の治世を理想としていた。天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
崩御後、北朝では崇徳・安徳・顕徳・順徳などとのように徳の字を入れて院号を奉る案もあったが、生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
北朝を正統とする場合、「後醍醐は光厳天皇の治世期間をはさんで重祚した」とみなし、前半(元弘の変まで)を「元徳天皇(元徳院)」、後半(京都帰還・建武中興から光明天皇即位まで)を「後醍醐天皇(後醍醐院)」とする案もある。
[編集] 后妃
- 中宮:藤原禧子(西園寺実兼女)(1303-1333)
- 中宮:珣子内親王(後伏見天皇女)(1311-1337)
- 宮人:遊義門院の一条局(藤原実俊女)
- 宮人(女院):阿野廉子(阿野公廉女)(1301-1359)
- 宮人:源師親女
- 宮人:藤原為子(二条為世女)
[編集] 皇子女
- 第一皇子:護良親王(1308-1335)
- 第二皇子:尊良親王(1311-1337)
- 第三皇子:宗良親王(1312-1385)
- 第四皇子:世良親王(1312-1330)
- 第五皇子:無文元選(1323-1390)
- 第六皇子:恒良親王(1325-1338)
- 第七皇子:法仁法親王(1325-1352)
- 第八皇子:成良親王(1326-1344)
- 第九皇子:義良親王(後村上天皇)(1328-1368)
- 第十皇子:懐良親王(1329-1383)
- 第十一皇子:満良親王
- 皇子:静尊法親王
- 他多数
[編集] 皇子の読み
後醍醐天皇の皇子の多くは「良」の字を持つ。その読みについては学説上でも対立があり、例えば護良親王は長く「もりなが」と読まれていたが、1980年代頃から「もりよし」の読みが学会では有力説となった(1991年にNHKで放送された大河ドラマ『太平記』ではこの傾向にならった)。また、護良親王を祭神とする鎌倉宮=大塔宮では当初より「もりよし」と読んでいた。歴史教科書などでは振り仮名として両方の読み方が併記されることが多いが、その場合でも「もりよし(もりなが)」といった具合に「もりよし」を主に記される。他の皇子についても同様である。
[編集] 在位中の元号
- 文保 (1318年2月26日) - 1319年4月28日
- 元応 1319年4月28日 - 1321年2月23日
- 元亨 1321年2月23日 - 1324年12月9日
- 正中 1324年12月9日 - 1326年4月26日
- 嘉暦 1326年4月26日 - 1329年8月29日
- 元徳 1329年8月29日 - 1331年8月9日
- 元弘 1331年8月9日 - 1334年1月29日
- 建武 1334年1月29日 - 1336年2月29日
- 延元 1336年2月29日 - (1339年8月26日)
[編集] 陵墓・霊廟
陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山にある如意輪寺内の円墳の塔尾陵(とうのおのみささぎ)である。通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。古典『太平記』によれば、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したと伝えられている。
明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に後醍醐天皇が祀られている。また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
[編集] 参考文献
- 村松 剛『帝王後醍醐 「中世」の光と影』(中公文庫、1981年) ISBN 412200828X
- 網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年) ISBN 4582760104
- 森 茂暁『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年) ISBN 4121015215
- 佐藤和彦・樋口州男 編『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社、2004年) ISBN 4404032129
[編集] 関連事項
歴代天皇一覧 | |||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |