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大日本帝国憲法 - Wikipedia

大日本帝国憲法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大日本帝国憲法
通称・略称 明治憲法、帝国憲法、旧憲法など
法令番号 なし
効力 廃止(第73条に基づく全面改正)
種類 憲法
主な内容 天皇の大権事項、臣民の権利義務
関連法令 日本国憲法旧皇室典範議院法内閣官制、裁判所構成法
条文リンク

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、1889年明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本憲法。「明治憲法」、あるいは単に「帝国憲法」と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で「旧憲法」とも呼ばれる。

東アジア東南アジア南アジア中央アジア地方では最初に、広域の全アジア含めてはヨーロッパに隣接していたトルコオスマン帝国)のオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)制定の14年後に制定された近代成文憲法である。もしトルコをヨーロッパとすればアジアで最初の憲法ということになる。憲法発布勅語に「不磨ノ大典」とあったためか、日本国憲法制定までの半世紀以上、一度も改定・修正されることはなかった。

目次

[編集] 沿革

大日本帝国憲法「上諭」1頁目
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大日本帝国憲法「上諭」1頁目
大日本帝国憲法「上諭」2頁目
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大日本帝国憲法「上諭」2頁目
大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目
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大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目
大日本帝国憲法「本文」4頁目
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大日本帝国憲法「本文」4頁目

[編集] 明治維新による国制の変化

明治維新によりさまざまな改革がなされ、今までの国制は根本的に変更された。

  1. 慶応3年10月14日(西暦1867年11月9日)、徳川慶喜が天皇に統治権の返還を申し出、翌日勅許された(大政奉還)。同年12月9日に幕府は廃止され、天皇の官制大権を前提として、近代的な官僚制が整えられていった。つまり、日本は代表的君主政から近代的な官僚機構を手足とする直接的君主政に移行した。のちに、大日本帝国憲法10条は、官制大権は天皇に属することを確認している。
  2. 明治2年(1869年)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。こうして、国家は、藩という媒介なしに、土地と人民に対して、直接に統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することとなった(明治4年(1871年)には廃藩置県が行われた)。のちに、国家の統治権は天皇が総攬すると、大日本帝国憲法1条および大日本帝国憲法4条は確認している。
  3. 版籍奉還により、藩内の封建制は打破された。人民が土地に縛り付けられることはなくなった。のちに、大日本帝国憲法22条は、臣民の居住移転の自由を確認した。
  4. 明治政府は、公卿・諸侯を華族、武士を士族に改組した。次に、明治4年(1871年)に士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民も均しく公務に就任できることとした。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして階級的な特権はすべて廃止された(のちに、大日本帝国憲法19条は人民の均しい公務就任権を、大日本帝国憲法20条は兵役の義務を規定した)。しかし、帝国議会開設に先立ち、1884年(明治17年)に華族令を定めて、華族に身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は、華族の貴族院列席特権を規定した。

[編集] 明治の変革

明治元年3月14日1868年4月6日)に、天皇は、日本国再建の理念である五箇条を天地神明に誓った。これを五箇条の御誓文という。その第1条には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と謳われていた。明治政府は、当初、議会政を目指していたとされる。

政府は、五箇条の御誓文に示された諸原則を実施するため、同年閏4月21日、政体書を公布した。政体書は、立法・司法・行政の三権を分立させた権力分立の考えを導入し、各藩の代表者(1人から3人)を構成員とする立法議事機関として、議政官下局を設けることが定められた。しかし、戊辰戦争終結の見通しがつくとともに、政府は公議輿論の尊重に対して消極的となり、同年9月には議政官は廃止された。

明治2年(1869年)3月、議事体裁取調所による調査を経て、新たに公議所が設置された。これは、各藩1人の代表者により構成される立法議事機関である。広議所は、同年9月には集議院に改組される。明治4年(1871年)に廃藩置県が実施され、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。

1874年(明治7年)、前年のいわゆる明治六年の政変征韓論の争議)に敗れて下野した副島種臣板垣退助後藤象二郎江藤新平等が連署して、民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書では、官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが、国家の維持と国威発揚に必要であると主張された。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。また、この頃には、各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。

1875年(明治8年)4月14日、「立憲政体の詔書」(漸次立憲政体樹立の詔)が出された。

朕、…ここに元老院を設け、もって立法の源を広め、大審院を置き、もって審判の権を鞏(かた)くし、又、地方官を召集し、もって民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ衆庶と倶にその慶に頼らんと欲す

すなわち、元老院大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。これは、大久保利通伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允板垣退助らの民権派の会談である大阪会議の結果である。また、地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して、各府県に民選の府県会(地方議会)を設置した。これが日本で最初の民選議院である。

[編集] 自由民権運動

1874年(明治7年)からの自由民権運動において、様々な憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は、国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律、新聞紙条例、1880年(明治13年)の集会条例など、様々な法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。

私擬憲法の内容については、様々な研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことは、おおむね共通する。天皇の地位に関しては、言われるほど差がある物ではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎ見ていた。」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは、大日本帝国憲法と同様である。戦後に登場する「私擬憲法にみられた人権規程は天皇の大権により悉く抑え込まれた」というような意見(家永三郎ほか)は、この当時には見られなかった。

[編集] 制定への動き

1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は、「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発した。この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法の研究して憲法草案を起草せよと命じている。元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。1880年(明治13年)、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、大蔵卿大隈重信も「憲法意見」を提出した。このうち、日本国国憲按は、皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やプロイセン憲法(1850年)の影響を強く受けていたため、岩倉具視伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見ともども、採択されるに至らなかった。

岩倉具視を中心とする勢力は、明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。その結果、1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。

朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総覧し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんこと期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。
顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。
朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、所するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。
奉勅  太政大臣 三条実美
明治十四年十月十二日

この勅諭では、第一に1890年(明治23年)の国会開設を約束し、第二にその組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三にこれ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。

[編集] 制定までの経緯

1882年(明治15年)3月、「在廷臣僚」として参議伊藤博文らは、政府の命を受けてヨーロッパに渡り、ドイツ立憲主義の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、苟も一国の憲法を制定しようというからには、まずその国の歴史を勉強せよ」というアドバイスを受けた。その結果、ドイツの憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど、憲法制定・国会開設の準備を進めた。

1885年(明治18年)には、太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)やモッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は、天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となって、この憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は、1889年(明治22年)1月に結了した。

1889年(明治22年)2月11日、「大日本帝国憲法」として公布され、国民に公表された。この憲法は、天皇黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアではじめて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は、第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。

国民は、憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も、同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。例えば、自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と評した。また、福沢諭吉は主宰する「時事新報」の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に、不安を抱いている。中江兆民もまた「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。 国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついているが、これは憲法の中身を読んでいないのにもかかわらず、憲法が出来たことをただ喜んでいる人々に対して苦言を述べているわけであって、憲法そのものに対して評価を行っている訳ではない。

[編集] 制定後の出来事

1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、被告人に対する死刑を求め圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、被告人を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。

1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に対し、野党海軍軍令部右翼団体が、政府による統帥権の干犯であると難じ、内閣総理大臣濱口雄幸が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。いわゆる統帥権干犯問題である。これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。

1935年(昭和10年)、貴族院議員で陸軍中将菊池武夫が、当時通説的地位を持っていた統治機構に関する学説である天皇機関説を、国体に反するものと非難。主唱者であり、貴族院議員でもあった美濃部達吉は、反論の演説をするも攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、国体明徴声明を出し、また美濃部の著書を発禁処分とした。いわゆる天皇機関説事件である。ちなみに、昭和天皇はこの時、「機関説で良いではないか」と側近に漏らしていたという。近代立憲国家の一般的な理解でさえも押しつぶされたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治は、その実質を失ったことを示す。

[編集] 日本国憲法への移行

1945年(昭和20年)、ポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。同宣言には「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」等と定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は、内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は、松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、様々な憲法改正案が発表された。

政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付毎日新聞が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部は、その記事に示された「松本委員会試案」は受け入れ難いと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。

2月13日、総司令部は松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたものの容れられず、あらためて「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は、総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として、国民に公表した。

この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は、新憲法より生活の安定にあった。)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案は、再び枢密院に諮られ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法の改正は「日本国憲法」として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

[編集] 概要

大日本帝国憲法下の統治機構図。カッコで括った機関は、憲法に規定がない。
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大日本帝国憲法下の統治機構図。カッコで括った機関は、憲法に規定がない。

この憲法は、立憲主義の要素と国体の要素を併せ持つ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。憲法改正後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。

[編集] 立憲主義の要素

立憲主義の要素としては、次の諸点がある。

これらの権利は、天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」とされた。日本国憲法では、これらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と構成する。また、権利制限の根拠は「法律ニ定メタル場合」「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。但し、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在教育の現場で解説されるように「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(但し、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。
  • 立法権は帝国議会に、行政権は国務大臣に、司法は裁判所に配され、三権分立の体制を整えたこと。
  • 帝国議会を開設し、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。
帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。
  • 天皇の行為に国務大臣輔弼を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。
内閣内閣総理大臣に関する規定は、憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は、国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされ、国務大臣(各省大臣)に対する指揮監督権や任免権もないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。
  • 司法権の独立を確立したこと。
司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は、司法裁判所にはなく、行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については、伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。

[編集] 国体の要素

国体の要素としては、次の諸点が挙げられる。

  • 「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首、統治権の総攬者としての地位に置いた。この、天皇が日本を統治する体制を国体という。
天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは後に高山樗牛井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上毅らの国体論は古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して高山らの国体論は、当時広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上毅らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。
参照 - 「皇室典範に関する有識者会議」第7回の鈴木正幸・神戸大学副学長による説明
  • 天皇が、天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。
特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使する事はなく、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て権限を行使する状態が常であった。
  • 帝国議会が立法機関ではなく、天皇の立法協賛機関とされたこと。
議会は立法協賛組織であり、法律制定には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であった。天皇には、緊急勅令や独立命令を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された。また、帝国議会に憲法改正の発案権がなかった。
  • 帝国議会の一院に、公選されない貴族院を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせたこと。
  • 枢密院など、内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。
このほか、元老重臣会議御前会議など、法令に規定されない機関が多数置かれた。
  • 統帥権を独立させ、陸海軍は議会に対し一切責任を負わないこと。
統帥権は、慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部海軍軍令部)の専権とされ、シビリアンコントロールの概念に欠けていた。統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、軍部大臣現役武官制とともに、軍部の政治力の源泉となった。後に昭和に入ってから軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。
  • 皇室自律主義を採り、皇室典範などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。
宮中(皇室、宮内省内大臣府)と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる内大臣が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。

[編集] 構成

7章76条からなる。

構成は以下の通り。なお既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文はウィキソースを参照のこと。

[編集] 起草前後の政情

『憲法草創之處』碑(神奈川県横浜市金沢区)
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『憲法草創之處』碑(神奈川県横浜市金沢区

明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていた。しかし、当時欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文に言わせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」だった。伊藤の懸念には根拠がなかったわけではなく、1876年オスマン帝国トルコ)が立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。また日本国内でも一部の保守派に絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤は日本の現状に適合した憲法を目指した。それまで日本は幕藩体制の中でバラバラの状況であり、一つの国家と国民という結びつきが出来ていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。

憲法の起草は、夏島(現在の神奈川県横須賀市夏島町)の伊藤博文別荘を本拠に、1887年(明治20年)6月4日頃から行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の神奈川県横浜市金沢区)を当初は用いていた。しかし8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難に遭ったことから、その後は伊藤別荘で作業は進められた。鞄は後に近くの畑で見つかり、草案は無事だったという。

東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった金子堅太郎書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後東屋は廃業し、一時的に野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。

なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に小田原に移築され、関東大震災で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には、明治憲法起草地記念碑が建てられてる。また、のちに伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。

[編集] 現行法制度との関係

大日本帝国憲法は、日本国憲法として全面改正され、日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)5月3日に失効した。

大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により「その条規に反する」ものについて、同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは政令として扱われた。物価統制令などのいわゆるポツダム勅令(ポツダム命令)は、法律または政令として扱われる。

しかし、日本国憲法は無効であり、大日本帝国憲法が今なお有効であるとする意見もある。→詳しくは押し付け憲法論の項目を参照のこと。

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

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ウィキソース大日本帝国憲法の原文があります。
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