飛鳥時代
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日本の歴史 |
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飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終期と重なるが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
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[編集] 名称
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代として区別する事がある。
[編集] 概要
[編集] 推古朝
538年(宣化三年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明二年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻元年)には蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。604年(推古十二年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築いた。
607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)をおくる。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努める。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記す。
国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものである。
[編集] 舒明・皇極朝
聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立った。これについては、蘇我氏の他にまともな政権担当能力を持った氏族がいなかったという見方もできよう。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにした。
[編集] 孝徳朝
645年(皇極4年)の乙巳の変(大化の改新)で、中大兄皇子・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
新たに即位した孝徳天皇は次々と政治改革を進めていった。今までは蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じた。
翌年(646年)正月には改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。まず、官僚制の改革からである。東国国司の政治評定をし、官人の田地の奪取をやめさせるなどした。しかし、豪族の既得権は認めざるを得なかった。そのうち、孝徳の性急な改革は不評を買うこととなり、人心は中大兄皇子へと移っていった。孝徳は失意のうちに没した。
[編集] 天智朝
孝徳没後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を即位させ斉明天皇とした。(天皇が再び皇位につくことを重祚と謂う)斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。
663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、急いで防衛施設を造り始めることとなった。664年(天智二年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置いた。666年(天智五年)には、百済人2千余人を東国へ移すなど、戦争準備が進んだ。667年(天智六年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城を築く。
668年(天智7)皇太子中大兄皇子即位して、天智天皇となる。
670年(天智9)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。
[編集] 天武・持統朝
天智天皇が没すると、たちまち皇族間の争いが始まった。672年(弘文元)壬申の乱である。天武が勝利した原因の一つには天智朝で始められていた律令制への移行に反対する地方豪族の支援があったためとみられている。なお、壬申の乱を軍事的観点から、天武の勝利は偶然がもたらしたものであり、気象など幾つかの条件が変わっていれば弘文側が勝利していた可能性も十分あったとする見方もある。天武天皇も国内政策の整備に努めた。
672年の末に都を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したり改革した。
681年(天武十年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に天武没する。8年後の689年(持統三年)に諸氏に令1部22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定される。遣隋使や遣唐使の派遣が大いに役立ったことであろう。しかし、唐の律令がそのまま日本の実情には当てはまらず、削除・修正などを繰り返したと思われる。
人民支配の戸籍づくりを始めた。690年(持統四年)の庚寅年籍を造り、良・賤の身分を区別し、年籍で確定した。692年(持統六年)には、四畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。
694年(持統八年)には藤原京に都を移す。唐の律令制度を基本に律と令にそった政治を実施するために、700年(文武四年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武五年)に大宝律令が制定された。これは二官八省の設置による大蔵省など、今日に至るまでその名称が使用される中央官庁の組織編成など、天皇を中心とした中央集権国家が確立され、今日に通じる日本の政治体制の基礎が築き上げられたと言える。また庚午年籍が703年(大宝三年)に造られ、以後の時代の戸籍の原簿となった。
[編集] 飛鳥・白鳳文化
[編集] 年表
- 531年(継体25年) - 欽明天皇即位する。
- 535年(安閑2年) - 屯倉(みやけ)を多く置く。
- 538年(宣化3年) - 仏教伝来(公式に史書に記載されている時期として)
- 540年(欽明元) - 秦人・漢人の戸籍をつくる。
- 552年(欽明13) - 仏像の礼拝を群臣に問う。
- 571年(欽明32) - 欽明天皇没する。
- 572年(敏達元) - 敏達天皇即位する。
- 587年(用明2) - 仏教に帰依せんことを群臣にはかる。物部氏と蘇我氏対立し、蘇我氏勝つ。用明天皇没する。
- 588年(崇峻元年) - 崇峻天皇即位する。
- 592年(崇峻5) - 崇峻天皇暗殺される。推古天皇即位。
- 593年(推古元年)- 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となる。
- 600年(推古8) - 『隋書』によれば倭国より遣使。
- 604年(推古12) - 十七条憲法・冠位十二階制定。
- 607年(推古15) -『日本書紀』によれば初の遣唐使(遣隋使?)。
- 628年(推古36) - 推古天皇没する。遺詔をめぐって群臣争う。
- 629年(舒明元) - 舒明天皇即位する。
- 645年(皇極4) - 中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。蘇我蝦夷自殺する。(乙巳の変)
- 646年 - 改新の詔を宣する。(大化の改新)
- 663年 - 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で大敗する。
- 670年 - 全国的に戸籍をつくる。(庚午年籍)
- 672年 - 天智天皇没する。壬申の乱。飛鳥浄御原宮(きよみがはらのみや)に遷る。
- 681年 - 飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
- 690年 - 戸令により庚寅年籍をつくる。
- 694年 - 藤原京に都を移す。
- 697年 - 持統天皇譲位し、文武天皇即位する。
- 701年 - 大宝律令の撰定完成する。
- 707年 - 文武天皇(25)没し、元明天皇即位する。
- 708年 - 武蔵国から銅を献上する。改元する。和同開珎を発行する。
- 710年 - 平城京に遷都する。
[編集] 著名な人物
[編集] 遺跡
- 中ツ道
[編集] この時代の遺跡発掘調査
- 2005年11月13日、奈良文化財研究所は、奈良県高市郡明日香村にある甘樫丘の麓に五棟の建物跡が見つかったと発表した。出土した土器から七世紀のものとみられている。『日本書紀』皇極天皇三年(644年)十一月条に蘇我蝦夷・入鹿父子が「家を甘樫の岡に建てた」との史料があることから、蘇我氏の邸宅跡ではないかとの見方が強い。ただし、五棟はいずれも掘立柱建物で、大規模な建物ではない。
[編集] 関連項目
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