倭寇
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倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。
字句をそのまま解釈すれば、倭寇とは「倭(日本)による侵略」という意味で、中国、朝鮮では日本人海賊を意味する。用事例を辿ると5世紀の高句麗広開土王碑文の条文にも見られるが、後世の意味とは異なる。ここに見られる『倭、○○(地名)を寇す』という表現の漢文表記では『倭寇○○』のように「倭寇」の2字が連結しており、これが後に名詞として独立したと考えられている。ただし、後述のように『世宗実録』によれば、「倭寇」は必ずしも日本人ではなかった。特に、後期倭寇は大半が中国人であったという。
また、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、日中戦争における日本軍も「倭寇」と呼ばれるなど、排日感情の表現として使用された事がある。
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[編集] 倭寇の構成
倭寇とは「日本の海賊」というように呼ばれているが、倭寇の構成は、日本人よりも現地人の方が多かった。朝鮮王朝実録の『世宗実録』二十八(1446年)十月壬戌条によれば、「然其間倭人不過一二而本国民仮著倭服成党作乱」とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の民であるとする記述があり、前期倭寇も後には高麗末期の高麗人による反乱が、多数、倭寇として加わっていたと記されている。同様に『明史』でも、日本人の倭寇は10人の内3人であった(「大抵真倭十之三」)と記されている。
[編集] 前期倭寇と後期倭寇
倭寇の歴史は大きく見たときに前期倭寇と、過渡期を経た後期倭寇のふたつに分けられる。
[編集] 前期倭寇
前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であった。朝鮮半島や中国沿岸に対する、いわゆる海賊行為は元寇に対する、地方の私軍による復讐の意味合いがあったと考えられ、拉致連行された日本人の一部奪還に成功している。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下した為に、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。その証拠として前期倭寇の初期においては、朝鮮半島で唯一稲作が盛んに行われていた南部の沿岸地方を中心に襲撃し、食料や人間を強奪していることが挙げられる。
朝鮮は1419年に倭寇討伐を名目にして、日本の対馬を併合せんと目論んだ上でこれを襲撃した、いわゆる応永の外寇を行ったが敗北している。 応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復である、と冷静な分析で記述されている。
中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」となる。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が南北朝合一を行うと、義満は倭寇討伐を行い、新たに「日本国王」として冊封され、勘合貿易が行われる。前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名の日明貿易の独占(勘合貿易)や対馬と朝鮮の間の交易再開などによって下火になっていく。
[編集] 後期倭寇
日本では1523年に勘合を巡って細川氏と大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が浙江省寧波で争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起った応仁の乱により混乱状態が戻ると、再び倭寇の活動が活発化する。
後期倭寇の大半は私貿易を行う中国人であったともされ、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも記述されている。ただし少ないながらもこれら日本人は、当時日本が戦国時代であったことから戦争慣れしたものが多く、戦争の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していた。この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国や朝鮮の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点とした。
これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、後期にはポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や、日本の博多商人も関わっていた。後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。これが豊臣秀吉による文禄・慶長の役の一つの伏線となる。
[編集] 倭寇以後の東アジア海上世界
豊臣秀吉の海賊停止令により、倭寇の活動は一応は収束をみるが、東アジアの海上世界では林道乾や林鳳(リマホン)、明を奉じて清に抵抗した鄭芝竜、鄭成功の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇では無いが同時代の海上勢力である。
[編集] 倭寇の影響
中国の明や朝鮮の高麗・李氏朝鮮王朝、また日本の室町幕府に対し、倭寇は結果として重要な政治的外交的な影響力を与えた。明は足利幕府に対し倭寇討伐を要請する見返りとして勘合貿易に便宜を与えざるを得ず、また高麗王朝は倭寇が滅亡の原因の一つとなり、李氏朝鮮王朝は文禄の役の頃まで倭寇対策(懐柔と鎮圧)に追われた。李氏朝鮮王朝による対馬侵攻(応永の外寇)も、倭寇根拠地の征伐が大義名分とされていた。
[編集] 活動地域
倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・五島列島をはじめ、朝鮮・中国の沿海諸島部、また台湾島や海南島にも存在していた。 フィリピン童話において、倭寇と思しきものが活躍するものもあり、この周辺までひろがっていたかもしれない。また、倭寇であるかは不明であるが現在のミャンマーにおいてもスペイン軍が「ローニン」の部隊に襲われて全滅したとの本もある。
[編集] 八幡船
日本の室町時代から江戸時代にかけての海賊船は通称して「八幡船」と呼ばれた。倭寇が「八幡大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされるが、「ばはん」には海賊行為一般を指すとも考えられている。
[編集] 資料
- 『老松堂日本行録』 朝鮮王朝の使節、宋希璟の日本見聞録。足利義持時代の倭寇の活動の様子が記されている。
- 『籌海図編』鄭若曾著
[編集] 関連項目
- 苗刀(びょうとう)