安土桃山時代
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日本の歴史 |
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安土桃山時代(あづちももやまじだい、1573年頃-1603年)とは、織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を握っていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。
両者の頭文字から織豊時代(しょくほうじだい)や織豊期(しょくほうき)とも、元号から天正時代(てんしょうじだい)ともいう。
織田信長の安土城、豊臣秀吉の伏見城(後世桃山と呼ばれた丘陵地にあった)に因んで、このように呼ばれている。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代という。しかし豊臣政権の中心地は大坂城であったことから、豊臣政権の時代は桃山時代というより「大坂時代」と言う方が正確であるという解釈が主流になりつつある。
又、室町時代末期から安土桃山時代の戦乱の世を、戦国時代ともいう。(実際は室町時代である) 1568年に織田信長が足利義昭を奉じて京都に入ってから、或いは義昭が京都から放追された1573年から、1598年に豊臣秀吉が死去するまで、或いは1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して天下人としての地位を固めるまでの時代のこと。他にも1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命されるまでを指す時代区分もある。また、建築、絵画などの文化史においては、大坂の陣が終わる慶長20年(1615年)まで含める場合がある。
戦国大名の中で織田信長が強大になり、後継者の豊臣秀吉が1590年に日本を統一した。秀吉は、全国で検地と刀狩りを実施させ、全日本規模での課税台帳の整備により国民経済の実態を把握し、農民・商人(一般庶民)の武装を禁じて非合法武装決起を未然に防ぐ治安対策を徹底した。
また、明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こしたが、補給路(兵站)が不十分な上、明・朝鮮連合側の抵抗に遭遇し撤退した。秀吉の死後、権力を巡って有力大名同士の衝突を生じさせる結果となったが、1600年の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が政権を得た。この時代には豪奢絢爛な桃山文化が栄えた。
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[編集] 豊臣政権の組織
中央はとして豊臣秀吉個人による独裁の色が強い。しかし国政の執行官僚としての奉行は当初から存在したらしい。豊臣秀吉が1597年に死去すると、幼君の秀頼補佐のために五大老・三中老が置かれ、行政、司法、財政、土木、宗教の担当官として五奉行を設置した。
地方においては、朱印状を発行して大名の統治権を改めて認めるという大名知行制をしいた。室町時代の守護大名は国ごとあるいは郡ごとの一円支配だったのに対し、秀吉は太閤蔵入地を設定して大名の支配を郷村単位の支配としたことに意義がある。各大名は近くにあった太閤蔵入地の米などの納入の義務があった。また、中央政権は太閤蔵入地を通じてその地の財政・内政に関与することができるなど、豊臣政権は地方に発言力があった。大名配置についても、大坂の周辺に譜代の大名を置き、徳川家康を関東に移すなど外様は辺境に置かれた。そして石田三成など政務を執る奉行衆は20万石前後とし、外様には政権参与を原則的に許してないなど、政務者と軍事力の分離が図られた。
[編集] 年表
- 織田信長、足利義昭を奉じ、上洛(1568)
- 室町幕府滅亡(1573)
- 長篠の戦い
- 織田信長、安土城を築く(1576)
- 本能寺の変(1582)
- 小田原の後北条氏が豊臣秀吉に降伏、天下統一(1590)
- 関ヶ原の戦い(1600)
[編集] 文化
安土桃山時代には、都市部において、豪商と呼ばれる新興商人が成長し、その富を背景に豪華で大掛かりな文化傾向が見られる。また信長の政策により、仏教勢力の力が中央では弱まり、仏教主義的な作品が減り、変わりに人間中心、現世的な作風が見受けられる。 特筆すべき点としては、1549年のザビエル来日以来の南蛮貿易の影響による南蛮文化である。それは、まだ小規模ではあったが、初めて、日本が西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという注目すべき点である。この時代の文化の担い手は、先にも述べたとおり、豪商や新興武将である。
[編集] 絵画
[編集] 障壁画
- 濃絵
- 水墨画
- 風俗画
[編集] 主な絵師と代表作
[編集] 工芸
[編集] 陶器
[編集] 活字印刷
- 慶長勅版
- キリシタン版
[編集] 芸能
[編集] 茶道
- 侘び茶
- 大名茶
[編集] 踊り
- 幸若舞
- 出雲歌舞伎
[編集] 謡
- 人形儒瑠璃
- 隆達節
[編集] 建築
[編集] 城郭
[編集] 茶室
- 妙喜庵松庵
[編集] 南蛮文化
[編集] 関連事項
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