明応の政変
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明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の1493年(明応2年)に起こった足利将軍廃立事件である。今日ではこの事件を戦国時代の始期とする説が通説となっている。
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[編集] 概要
足利義材は、足利将軍家の家督争いから起こった応仁の乱では西軍の盟主として擁立された足利義視の子で、乱が西軍劣勢で収束すると父とともに土岐成頼を頼り美濃国(岐阜県)へ逃れていた。9代将軍の足利義尚は将軍直属の軍事力である奉公衆を率いて近江国(滋賀県)の六角氏討伐のための出兵などを行うが、1489年(延徳元年)に出陣中に死去する。すると義材は義視とともに上洛し、10代将軍に推薦される。義尚の父で8代将軍であった足利義政や、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の子である細川政元などは、堀越公方である足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた清晃(足利義澄)を推すが、義政正室・義尚生母として幕政で影響力をもっていた日野富子が実妹の生んだ義材を後援し、翌延徳2年に義政が死去すると、義視の出家などを条件に義材の10代将軍就任が決定する。だが、細川政元や伊勢貞宗・足利政知らは将軍父子と対立した。義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、この頃脅かされていた丹波国、山城国などの畿内における国一揆の脅威などに対応するため、1491年(延徳3年)に奉公衆を掌握して六角氏討伐を継承するなど軍事的強化を図った。
1493年(明応2年)には畠山政長が敵対する畠山義就の子である畠山基家の討伐のため河内国出陣を要請し、細川政元は出兵に反対するが、応仁の乱の一因でもあった畠山氏の家督問題を解決させるために義材が出陣を決定して討伐軍が進発させると、政元は義材に不満を抱き始めた日野富子や赤松政則と結んで義澄を11代将軍として擁立して義材の廃立を宣言するクーデターを決行する。政元はさらに京都を征圧すると、出陣していた義材の軍は分裂し、政元が派遣した討伐軍との衝突で畠山政長が敗死すると義材は投降して京都に幽閉されたが、同年6月畠山政長の重臣である越中国婦負郡・射水郡分郡守護代神保長誠の手引きで越中国射水郡放生津(富山県射水市)に下向し、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら270人余りがこれに従った。
[編集] 影響
明応の政変で細川政元は主導権を掌握し、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊した将軍権力は、幕府公権の二分化により弱体化した。以後、幕政は細川氏の権力により支えられる事となる。また、これに関連して義材派の山城守護・伊勢貞陸が山城国一揆を主導してきた同国内の国人層を懐柔して政元への抵抗を試み、政元も対抗策として同様の措置を採った。このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。
[編集] 史料
- 『大乗院寺社雑事記』:興福寺の尋尊、政覚らの日記。190巻。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 室町時代 | 日本の戦国時代の事件