日米関係史
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日米関係史(にちべいかんけいし)では、日本とアメリカ合衆国の二国間関係、歴史が述べられる。時間軸としては19世紀以降となる。両国は、アメリカの領土の拡大とフロンティア消滅以後、時に強圧的に時に協力的に歩んでき現在に至る。
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[編集] 江戸時代後期(幕末)-日米和親条約締結-
日本と米国との関係が生じるのは、1837年に米国船『モリソン号』が、日本の漂流民を届けに来たときからである。このときは異国船打ち払い令によってさっさと追い返されてしまったが、太平洋航路の確立を急ぐ米国は、1846年にも開国を要求するためにビッドルを浦賀に派遣したが、拒否されてしまった。
1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する(黒船来航)。それはアメリカ大統領フィルモアの国書を幕府にもたらすためであった。国書を受け取った幕府は国書の回答を翌年に延期することを要望して認めてもらい、一旦は彼は琉球へ去った。幕府は之を朝廷に伝え、その後諸大名に国書を示し意見を問うた。これは嘗てないことで、当時、外交などの事について幕府に諸大名が口出しをすることは厳禁とされていたからである。よほど幕府は困惑したのであろうが、何も予告無くこのようなことが起きたわけではない。すでに前年の1852年にオランダ商館長クルチウスが東インド総督の来航をつげてきていた。だが幕府はそれを無視したのである。理由としては前回も同じようなことがあったからだと思われる。 このとき「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず 」のような狂歌が流行る。 1854年(嘉吉7年)となり1月16日、ペリーが今度は7隻の軍艦を率い再び神奈川沖に来泊。2月10日には、林煒らと交渉が開始されている。幕府は漂流民保護・薪水食給与などは承認、通商は決し難き旨を回答した。そしてついに3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結される。下田・箱館の二港を開く(1855年下田で条約批准)。
[編集] 江戸時代後期(天保・弘化年間)
上記ではあくまで一般論を述べた。この章では国と国とのつながりはないがアメリカとの関係を年表形式で並べておく。
- 1841年(天保12年)6月 - 中村万次郎、太平洋を漂流しアメリカ船に救われる。
- 1845年(弘化2年)3月 - アメリカ捕鯨船、漂流民を護送し浦賀に来航。
- 1846年(弘化3年)5月 - アメリカ捕鯨船員の7名、択捉島に漂着する。
- 1846年(弘化3年)閏5月 - アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビッドル、浦賀に来航し通商を求める。幕府、拒絶する。
- 1848年(嘉永元年)5月 - アメリカ捕鯨船、西蝦夷地に漂着。幕府、乗員を長崎に護送する。
- 1849年(嘉永2年)3月 - アメリカ軍艦プレブル号長崎に来航し、漂流民を受け取り退去する。
- 1849年(嘉永2年)6月 - アメリカ捕鯨船員の3名、樺太島に上陸する。
- 1851年(嘉永4年)1月 - 土佐漁民中浜万次郎ら、アメリカ船み送られて琉球に上陸する。
[編集] 江戸時代後期(幕末)-日米修好通商条約締結-
1855年(安政2年)、幕府は朝廷に条約締結の事情(英・米・露国、各国との条約締結)を具陳する。先の条約の要綱どおり米国は、1856年(安政3年)十月二十一日に駐日総領事ハリスを下田に来航させる。二十七日にはハリスが下田奉行に対し、通商の自由・通貨交換比率の取り決めを要求する。之に対し翌年下田条約(日米条約)を締結する。その後、十月二十一日にはハリス、江戸城に登城し、将軍に米大統領ピアースの親書を提出することになる。之に対し登城反対の旨が諸大名などから老中に提出されたようだが結局登城となった。十一月一日には、この親書・ハリスの口上書の写しを諸大名に示し、意見を求め、諸大名は意見を上申。十二月二日、老中、ハリスを招き通商貿易と公使の江戸駐在を許可。十一日には幕府全権の井上清直(下田奉行)、岩瀬忠震(目付)とハリスとの間で日米修好通商条約の交渉を開始することとなる。十三日には幕府がこの条約を締結すべき旨を朝廷に伝える。1858年(安政5年)一月五日、幕府は勅許奏請のため、条約調印の60日延期をハリスに伝える。八日、堀田正睦勅許奏請のため京都に赴く(翌日参内)。三月二十日、天皇は条約調印拒否の勅答を正睦に与える。その後、幕府は再び勅書を諸大名に示し、意見を聞く。六月十九日、井上、岩瀬の両名は神奈川沖のポウハタン号でハリスと日米修好通商条約及び貿易章程に調印。これが(安政の五カ国条約)の最初となる。 十二月三十日、老中間部詮勝参内し条約調印了解の勅諚を受ける。 そして1860年(安政7年)には二つの日本人グループがアメリカに上陸する。一月十三日に咸臨丸で軍艦奉行木村喜毅・軍艦操練所教授勝海舟らが米国に向かい二月二十六日にサンフランシスコ港に入港。一月十八日には、遣米特使外国奉行新見正興・村垣範正・目付小栗忠順ら米艦で出航。万延元年(1860年だが閏三月に改元された)閏三月二十八日、米大統領ブカナンと会見。条約批准。
[編集] 明治時代初頭-岩倉使節団-
積極的に関係を結ぼうと、使者を送ってきたり軍艦を引き連れてきたりしていたアメリカであったが、日米修好通商条約の締 結・批准後、長州藩と四国艦隊(アメリカを含む)との攻防などはあったが、積極的な関係は一時途絶える。理由としては下記 の二つが挙げられる。
しかし、この時期が過ぎ明治政府が成立すると、先の不平等条約を撤廃しようと日本側は動き始める。その第一陣的なもの となるのが、岩倉使節団だ。1872年(明治4年)岩倉具視は米大統領グラントに謁見する。
[編集] 明治時代-条約改正問題-
使節団の後一旦、1878年には日米条約・協定を修正し日本の関税自主権を認める約書に調印、批准されるが、施行されず。1886年、外相の井上馨が各国公使と第一回条約改正会議を開く。が、不調に終わる。1911年、ついに日米通商航海条約改正というかたちで関税自主権を回復し、不平等条約の撤廃に成功した。(ちなみにすでに治外法権は1899年、日米通商航海条約締結により回復済み。)
[編集] 明治時代-日露戦争講和-
上記と時期は前後するが、1904年日露戦争が勃発する。これは、朝鮮・満州などに関しお互いの利益が絡んだためである。日本は前段階として1902年には日英同盟を結び、三国干渉後臥薪嘗胆し、このときを待っていた。勝敗は日本優勢であった。奉天会戦・療陽会戦で勝利し、日本海海戦でも勝利した。ここで、日本は米大統領に日露講和の友誼的斡旋を希望する。そこで米大統領ルーズベルト、日露両国に講和を勧告し両国は受諾する。そしてその会議をポーツマスで開きポーツマス条約を締結する。だが、日本国内ではこの条約締結に対し非難が相次いだ(日比谷焼き討ち事件など)。主な理由としては日本側(と言うより日本国民)が、この戦争には勝ったと考えていたからである(実際に勝利と定義できるかはここでは触れないで置く)。 もう少し言うと、条約には賠償金の規定がないのだ。そのことに対し怒った民衆が騒擾化した。
[編集] 明治時代(末期)-排日移民問題-
1906年(明治39年)、サンフランシスコ市の学務局が、日本人学童の隔離を命令した。これは排日移民行動なるものの皮切りと言われる。アメリカ合衆国の移民全面停止措置を唯一免れていた日本(当時アジアで唯一の先進国であったため?)が、州レベルでついに実行されることとなった。(これは当時のルーズベルト大統領の異例の介入で翌年撤回となる。)この後、翌年には、アメリカ駐日大使が日本人労働者移民の渡航制限を要請してくる。(これは日米紳士協約第一号と呼ばれる。)
[編集] 明治時代(末期)
- 1908年(明治41年)11月 - 高平・ルート協定締結。(太平洋方面に関する交換公文)
- 1909年(明治42年)12月 - 米国、満州における鉄道中立化案を提案。
- 1910年(明治43年)1月 - 日・露両国、米国の満州鉄道中立化案に不同意と回答。
[編集] 大正時代-第一次世界大戦・ベルサイユ体制・ワシントン体制-
1914年(大正3年)、日本はイギリスの要請により(日英同盟による。)、参戦を表明しドイツに宣戦布告する。翌年には中国に対し対華21ヶ条要求を提出する。これに対し、米国務長官ブライアン、一部に不同意の覚書を日本側に手渡す。終戦間際の1918年(大正7年)にはアメリカがチェコ軍救済のためウラジオストクへの日米共同出兵を提議し日本は了承する。(シベリア出兵開始。)また、同年11月にはアメリカより日本のシベリアへの出兵数・シベリア鉄道占領の件で抗議を受ける。戦後1919年(大正8年)、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した理念に基づいてパリ講和会議が開催される(日本全権は、西園寺公望・牧野信顕ら)。同年二月には国際連盟規約委員会で日本代表、人種的差別待遇撤廃案を提案する。五月には講和会議、山東省のドイツ利権に関する日本の承認を了承し、また赤道以北旧ドイツ領諸島の委任統治国を日本に決定。翌年、中国借款を日英米仏で成功させる。1921年にはワシントン会議が開かれ、日本・アメリカを含む九ヶ国が出席した。その中で、四カ国条約、九カ国条約などをそれぞれ締結。
[編集] 昭和時代-世界恐慌・第二次世界大戦-
1929年10月、アメリカで世界恐慌が起こる。翌年には日本にも影響は波及し多大な影響を受け生糸などの価格が崩落した。この不況状態は1932年ごろまで続く。1937年(開始の説は多々あるが、それは置いておく。)、第二次大戦が勃発。日本とアメリカは当初は直接的には敵対はしていなかった(開戦当初はアメリカは中立の姿勢であったため)。しかし日本は1941年アメリカ等による石油の禁輸政策の後、かの有名な真珠湾攻撃にでる。その結果アメリカは即座に参戦表明し枢軸国側に対し宣戦布告した。これは奇襲作戦であり、本来宣戦布告後攻撃となれねばならないところ、そうしなかったので後に非難を受けることとなる。(現在は、外務省は公的にミスということでその事実を認めている。)翌年のミッドウェー海戦・ガダルカナル島の陥落と続き日本は圧倒的に不利な状態に陥っていく。そして1945年8月6日、アメリカ軍による広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下を経て、ついに日本は8月15日無条件降伏をする。
[編集] 参考文献
- 『日本史年表』岩波書店 歴史学研究会(編)ISBN 4000242075
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