二・一ゼネスト
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二・一ゼネスト(に・いち - )、1947年(昭和22年)2月1日の実施を計画されたゼネラル・ストライキ。2.1ストとも言う。決行直前に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となり、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右した。
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[編集] 概要
[編集] 労組の急成長
1936年(昭和11)に42万人いた労働組合員は、戦争の勃発で労働運動が禁止され、解体されていたが、戦後に進駐したGHQ/SCAPは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認していた。第二次世界大戦後の激しいインフレの中で労働運動が高揚し、1946年(昭和21)には国鉄労組が50万名、全逓信労組が40万名、民間の労組は合計70万名に達した。これらの勢力がたびたび賃上げを要求して、新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業で相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。
8月には総同盟と産別会議、9月には全官公労が結成され、11月には260万人に膨れ上がった全官公庁共闘が、待遇改善と越年賃金を政府に要求したが、吉田茂内閣は満足な回答を行わなかったため、「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。ここで挨拶に立った日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言した。ここに、全官公労を率いているのが共産党であることが内外に示され、冷戦の兆しを感じていた米国を刺激した。
連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、12月18日に民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表した。この第3項で、労働運動は「占領の利益を阻害しない」こと、第5項で「ストライキその他の作業停止は、占領軍当局が占領の目的ないし必要に直接不利益をもたらすと考えた場合にのみ禁止される」として、労働運動も連合軍の管理下におかれることが決定された。また、吉田も共産党との対決を意識し、内部分裂した日本社会党右派に連立を持ちかけるなど、革新勢力の切り崩しを図った。
[編集] ゼネスト宣言
1947年(昭和22)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。
「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。」
「不逞の輩」と非難されたと受け取った労組はいっせいに反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日に4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。1月15日には全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、1月18日には、要求受け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田政権はダメージを受けることは確実であった。また、吉田が進めた社会党右派の取り込みは、4名入閣でまとまりかけていたが、スト計画を進める左派の強硬な圧力によって流産した。公然と叫ばれるスト実施と政情不安によって、社会不安が蔓延した。1月21日には天変地異を予言していた神道系の宗教団体璽宇教(横綱双葉山が入信し話題となった)が、GHQの指令によって摘発された。
1月22日、伊井など組合幹部がGHQ経済科学局長のマーカットと労働局長エオドル・コーエンに呼び出され、ゼネストは許されないと忠告されたが、伊井は承諾しなかった。伊井はマッカーサーの命令と言い張る二人に対し、指令書の提示を要求したが、マッカーサーはマーカットに口頭で指令しただけだった。米国大統領選挙へ出馬する予定であったマッカーサーは、本国での労組の目線を考え、まだこのときは、日本の労組を自ら取り締まろうとはしなかった。
1月29日、中央労働委員会の会長代理末広厳太郎が、現行556円から1800円への平均賃金引上げ要求に対し、18歳で最低賃金650円、平均で1000円にするという調停案を出したが、共産党の徳田書記長は1200円を要求し、他の共闘委員も同調した為、末広も1200円で政府に勧告した。政府は調停案を受け入れるとしながらも、当分は平均984円とする条件をつけたため、共闘が受け入れを拒否して決裂した。
1月30日、マーカットは再び伊井を呼び、ゼネスト中止令を出すよう命令したが、伊井は組織の決定として拒否した。伊井はマッカーサーが直接命令するべきと言い返した。共闘もマッカーサーが動かないことに気がついていた。しかし、目論見は外れた。
1月31日午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」として、ゼネストの中止を指令した。伊井委員長はGHQによって強制的に連行された。NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された伊井は、午後9時15分に「一歩後退、二歩前進」と、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表し、「日本の労働者および農民万歳、我々は団結せねばならない」と締めくくった。翌2月1日には全官公庁共闘と全闘が解散した。また、伊井は占領政策に違反したとして逮捕され、懲役2年を宣告された。
[編集] 影響
二・一ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされる。意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示した。なお、中止により完全に労働者側が敗北した訳ではなく、各組合が個別に交渉を行い、賃金アップなどの要求を通したものもあった。翌年3月には全逓信従業者組合がゼネストを計画したが、二・一スト中止を命じたマッカーサーの命令に反するとして中止された。
労働運動はなおも盛んであったため、マッカーサーは吉田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示した。これに基づき、1948年(昭和23)7月31日に公布された政令201号によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。この公務員のスト禁止は、1970年代の国鉄による「遵法闘争」の要因となる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 三好徹 『興亡と夢 - 戦火の昭和史 - 』 5巻 (集英社)ISBN 4-08-772589-8