空襲
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空襲(くうしゅう)とは、航空機による対艦・対地攻撃の総称である。原子爆弾などの核兵器を用いた戦略爆撃もこれに当たる。
特に、攻撃される側からの言い方。攻撃する立場からは「空爆」が用いられることが多い。
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[編集] 歴史
飛行機が戦場に現れたのは第一次世界大戦時である。観測などの傍ら、爆弾などを搭載して対地攻撃にも従事した。なお空襲創生期は、航空爆撃に適した爆弾の開発や製造体制が整っていなかったため、釘、石、レンガなどを投下するケースもあったという。また、第一次世界大戦時には飛行船による都市への無差別爆撃も開始されている。さらに英独両国とも、数トンの爆弾搭載量を持つ重爆撃機の開発を進めていたが、実用化前に終戦となった。
その後、有名なナチスによるスペインのゲルニカ空襲を契機として、ロンドン空襲、重慶爆撃など、さまざまな戦場を経て、第二次世界大戦は本格的な航空戦時代となった。制空権(航空優勢)の是非が、戦場を決する鍵となり、また東京大空襲やドレスデン爆撃を例とする戦略爆撃――都市無差別爆撃が日本やドイツの国土を焼き尽くして継戦能力を低下させたと言われる(ドイツや日本の降伏数ヶ月前まで、こうした戦略爆撃は継戦能力に殆ど影響しかったとする説もある)。戦略爆撃では、枢軸側・連合国側ともに、工業地帯の爆撃には破壊弾を主としたが、住宅地域の爆撃では焼夷弾を主として都市火災の発生を狙っており、非戦闘員の殺傷が目的であったことが明らかである。この方針は原子爆弾の投下につながっている。
現代戦に至るまで戦争における航空機の比重は高まる一方である。また低烈度紛争への介入においても、空爆は自軍の犠牲や負担を少なくして相手にダメージを与える方法として、多用される傾向がある。さらに、航空機による都市への空襲は敵国民へ戦況の不利を決定的に示唆することでもあり、プロパガンダとしても非常に重要である。
[編集] 日本が受けた空襲
[編集] 主要大都市
[編集] 東京
東京は下記の大空襲を含む106回の空襲を受けた。
- 1945年3月10日 東京大空襲 死者約8万3千名。負傷4万~11万名。焼失26万8千戸。
- 4月13日 B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
- 4月15日 B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として大森・荏原方面。
- 5月24日 B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
- 5月25日 B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。
[編集] 大阪
大阪は下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。
- 1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。焼失13万2459戸。
- 6月1日 B29・474機。死者3150名。焼失6万戸
- 6月7日 B29・250機。死者1594名。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
- 6月15日 B29・469機。死者418名。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
- 6月26日 B29・約100機。死者592名。負傷者1102名。焼失約9千戸。
- 7月24日 B29・約400機を含む大小二千機。死者187名。負傷317名。焼失554戸。
- 8月14日 B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。
[編集] 名古屋
名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受け、死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。
- 1945年3月12日 名古屋大空襲 B29・288機。死者602名。負傷者1238名。全焼2万9千戸。
- 3月19日 死者1037名。負傷者2813名。焼失3万6千戸。
- 5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
- 6月9日 B29・43機。死者2068名。負傷1944名。
- 6月21日 B29・120機。死者426名。負傷者327名。
[編集] 神戸
神戸は下記の大空襲を含む128回の空襲を受け、死者8841名、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を出した。
- 1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
- 5月11日
- 6月5日 B29・481機。死者3184名。負傷者5824名。全焼5万5千戸。罹災人口21万3千名。
[編集] 京都
京都は合計20回以上の空襲を受け、死者302人、負傷者561人の被害を出した。
- 1945年1月16日 死者41人
- 6月26日 死者43人、負傷者66人、被害家屋292戸(全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸)。被災者850名
[編集] 主要地方都市
- 1944年11月21日 熊本初空襲
- 1945年3月27日 小倉大空襲
- 4月8日 玉野空襲
- 4月15日 川崎空襲 死者約千名、負傷1万5千人。全半壊3万3361戸。同工場287戸。罹災人口10万人。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
- 5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。死者3787名。重傷1554名。軽傷10837名。焼失約3万戸。罹災人口32万3千名。その後の調査で、死者は8千~1万名にのぼることが確実と考えられている。
- 5月31日 台北大空襲 日本統治時期の台北市、死者約3000名
- 6月18日 浜松空襲 死者1720名。焼失家屋15400戸。
- 6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152名。
- 6月19日 福岡大空襲 B29・221機。午後11時11分から約2時間の焼夷弾投下。死者744名(ただし1000名以上ともいわれる)。当時の「第一五銀行」の地下室(防空壕)に避難した人々(約63名)が同地下室で閉じ込められて蒸し焼かれて熱死した。この「第一五銀行の悲劇」での遺体搬出作業に故村田英雄も携わっていた話は有名。
- 6月22日 水島空襲(現・倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人
- 6月28日 呉大空襲
- 6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300名、罹災市民約6万5千人。 当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突く深夜の空襲
- 6月29日 岡山空襲 B29・約70機。死者1737名。罹災家屋25000戸。罹災市民12万名(『岡山市史』)。
- 7月4日 高松空襲 B29・90機。死者1359名。罹災家屋18913戸。罹災市民86400名。
- 7月1日 熊本大空襲
- 7月6日 千葉空襲 B29・124機。死傷者1679名。
- 7月6日 甲府空襲 B29・131機。死者1027名。全焼17920戸。
- 7月9日 和歌山大空襲 B29・約100機。死者約1200名。
- 7月9日 堺空襲 B29・約100機。死者1860名。焼失18000戸。
- 7月10日 仙台空襲 B29・124機。死者828名。負傷者385名。焼失家屋23956戸。
- 仙台は3月10日、7月13日、8月15日にも空襲された。
- 7月12日 宇都宮空襲 B29・120機。死傷者1679名。
- 7月12日 敦賀空襲 死者109名。負傷者201名。
- 桑名は7月30日、8月8日にも空襲を受けた。
- 7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2千機による空襲。
- 7月17日 平塚・沼津空襲 B29・130機。死者544名。9077発・1039トンの焼夷弾により18954戸が消失。
- 7月19日 福井空襲 B29・128機。死者1576名。
- 7月19日 日立空襲 B29・127機、艦砲射撃。死傷者2199名。
- 7月19日 銚子空襲 B29・91機。死傷者1181名。
- 7月24日、28日 津市空襲 死者1239名。
- 7月26日 平空襲
- 7月28日 青森大空襲 B29・61機。死傷者1767名。焼失家屋18045戸。(市街地の88%)東北地方では最大の被害。
- 8月1日 水戸空襲 B29・99機。死傷者1535名。
- 8月1日 八王子空襲 B29・169機。死傷者2900名。
- 8月1日 長岡空襲 B29・125機。死者1470名余。焼失11986戸。
- 8月2日 富山大空襲 B29・70機。死者2737人。負傷者7900人。焼失家屋24914戸(市街地の99.5%)。罹災人口10万9592名(2002年富山市の調査)地方都市としては最大の被害(広島、長崎においての原爆を除けば)。
- 8月5日 前橋・高崎空襲 B29・92機。死傷者1323名。
- 8月6日 広島原爆
- 8月7日 豊川海軍工廠空襲 死者2477名。
- 8月8日 福山大空襲 B-29・91機 死者354人 負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月には グラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
- 8月9日 長崎原爆
- 8月10日 花巻空襲、熊本空襲
- 8月11日 久留米空襲 死者212名。焼失家屋4506戸。
- 8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687名。
- 8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738名。
- 8月14-15日 小田原空襲 死者30~50名。
- 8月14-15日 秋田・土崎空襲 B29・132機。死傷者300~400名(最後の空襲)。
上記のように日本のほとんどの主要な都市が空襲に遭い、特に主要な都市は大規模空襲に遭ったが、その中も京都は大規模空襲に遭わなかった。これは「さすがにアメリカ軍も京都を大規模空襲するのは日本の歴史文化を破壊する行為に当たるのではと思い避けた」といわれているが、これは有名な俗説(噂)であり、実際には原爆投下目標の最有力候補一つであった(投下目標都市・広島、京都、小倉、新潟は空襲が禁止されていた)。最終的に広島・京都が原爆投下目標に決定されたが、陸軍長官スティムソンの反対により京都が除外され、代わりに小倉が入れられた。(終戦が遅れていれば例外なくすべての都市を破壊する計画があったとする説がある)。イタリアのモンテ・カッシーノ寺院の空爆、ドイツの古都ドレスデン空襲の例もあるように、アメリカ軍は歴史文化財への考慮を一切払っていない。京都は結果的に殆ど無傷で済んだが、京都が原爆投下目標になっていなければ他都市のように焼夷弾攻撃は免れなかったであろうし、スティムソンの反対がなければ京都に原爆が投下されていたことは確実で、薄氷の上の非常に危うい幸運であったとする意見もある。
[編集] 参考文献
「図説アメリカ軍の日本焦土作戦」太平洋戦争研究会 ISBN4-309-76028-7
「日本大空襲」上下 原田良次(1973年) 中公新書 326 & 331
「戦災等による焼失文化財 建造物篇・美術工芸篇」(1983年)文化庁
他
[編集] 関連
[編集] 外部リンク
- 全国主要都市戦災概況図(1945年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために第一復員省資料課が作成)
- 日本空襲と原爆
カテゴリ: 太平洋戦争の戦略爆撃 | 軍事史 | 歴史関連のスタブ項目