佐々淳行
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佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年(昭和5年)12月11日 - )は、日本の警察官僚、初代内閣安全保障室長で元防衛施設庁長官。退職後は評論家として活動している。佐々弘雄の次男で、佐々友房の孫。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1930年(昭和5年)12月11日に熊本県出身の学者・佐々弘雄の次男として東京府に生まれ、1954年(昭和29年)3月に東京大学法学部政治学科を苦学の末、卒業。翌4月、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した。
[編集] 警察官僚として
入庁後は、いわゆるキャリア組の警察官として目黒警察署勤務の警部補を皮切りに、主に警備警察・公安警察(外事)の分野で活動。ソビエト連邦や北朝鮮、中華人民共和国などのいわゆる共産圏スパイの取り締まりを主に担当した。因みにフレデリック・フォーサイスの小説「第四の核」には「スパイ・キャッチャー」として実名で登場している。1964年には警察庁警備局付になり、ケネディ大統領暗殺事件の調査のためにアメリカに派遣され、帰国後は東京オリンピックの際の警備や亡命者の処遇、法整備などを担当した。
1965年からの外務省への出向(在香港日本総領事館領事)を経て、1968年6月29日に帰国。その直後に警察庁に復帰し、異例の人事により同年7月1日付で警視庁公安部外事第一課長、同年11月には警備部警備第一課長に任命される。佐々自身の著作によると、当時の慣例的な人事では、出向者は帰国後半年ほど閑職に就かせ、海外勤務から国内勤務へのリハビリを行い再び通常の職務に復帰させるのが普通だった。しかし佐々は秦野章警視総監(当時)の強い意向により、外務省出向期間を半年以上残したままの強引な復帰人事だったという。当時は国内情勢が悪化しており、全共闘などの騒乱が続く中で、第二次反安保闘争の吹き荒れる「警察戦国時代」において、機動隊による実兵指揮を行う警察幹部達を実力主義による人員配置を行って組織強化を図ることが背景にあった。なお、他省庁への出向期間は通常3年間(1965年~1967年)であったが、この時点で佐々は香港総領事から特に実力を買われ、更に出向期間を1年間延長されており4年目(1968年)に入っていた。
警備第一課長としては、機動隊の抜本的改革*を断行したという。この後、警視庁人事第一課長を経て、警察庁警備局付警務局監察官に任命。直後に連合赤軍あさま山荘事件が発生した。
※戦術的後退や挟撃作戦などの発案、隊員の受傷防止の為の個人防御装備の開発、警備車両の充実化など、後の機動隊の基礎を固め、また、連合赤軍あさま山荘事件で有名になった特型警備車「防弾装甲放水車」の配備に尽力したと著書に記している。
当時の警察庁次長・警察庁長官で、その後衆議院議員・副総理となった後藤田正晴の部下として、東大安田講堂事件やあさま山荘事件、三菱重工ビル爆破事件、金大中事件などの当時の日本を揺るがせた数々の大事件の捜査を指揮している他、一連の日本航空ハイジャック事件の解決にも関与している。
しかし、1975年に行われた沖縄国際海洋博覧会の警備責任者として皇太子夫妻(現・天皇(明仁)・皇后(美智子))の警護に当たるが、沖縄解放同盟などの左翼過激派の活動家による皇太子夫妻に対する火炎瓶の投擲を許し(ひめゆりの塔事件)、警備幕僚長を解任され、三重県警察本部長へ左遷された。その後、警察庁刑事局参事官を歴任し、防衛庁に出向し歴職を経て防衛施設庁長官に就任した。
[編集] 初代内閣安全保障室長
そして1986年7月1日に、第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任。中曽根康弘内閣の官房長官になっていた後藤田の部下として、大島三原山噴火やなだしお事件、昭和天皇の大喪の礼、防衛予算のGNP1%枠撤廃閣議決定など、再び国家の危機管理に尽力し、1989年の昭和天皇大喪の礼を最後に同年6月に退官した。
[編集] 現在
退官後はこれまでのキャリアを生かし、危機管理の専門家として各種講演活動や企業・団体へのアドバイスの他、「ビートたけしのTVタックル」などのテレビ番組への出演、著作活動を行い、「危機管理のノウハウ」、「連合赤軍『あさま山荘』事件」などのベストセラーも多数ある。
[編集] 著書
(一部)
- 「危機管理のノウハウ」
- 「連合赤軍『あさま山荘』事件」
- 「わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト」
- 「東大落城 安田講堂攻防七十二時間」
- 「香港領事佐々淳行 香港マカオ暴動、サイゴン・テト攻勢」
- 「平時の指揮官有事の指揮官」
- 「謎の独裁者・金正日」
- 「目黒警察署物語」(自ら描いた挿絵はプロのイラストレーター並の実力である。)
- 「危機の政治学―ハンガリー事件から、湾岸戦争、ソ連邦崩壊まで」
- 「美人女優と前科七犯―佐々警部補パトロール日記」
- 「戦時少年佐々淳行―父と母と伊藤先生」
- 「インテリジェンス・アイ-危機管理最前線」
[編集] 「突入せよ! あさま山荘事件」
[編集] 映画化
2002年5月には、著書「連合赤軍『あさま山荘』事件」が東映より映画化され全国で公開された。出演者は役所広司、伊武雅刀、天海祐希、藤田まことなど。同書の内容に関しては、事件解決に当たり警察庁との間で確執があった長野県警関係者から「記述が不正確で当時の関係者の名誉を傷つけるものだ」との抗議が寄せられた。後藤田正晴も同書に関しては「佐々君は何か記憶違いをしているのかも知れない」とたしなめる主旨の発言をしている。これらのことが影響してか、映画化に際して長野県警の協力を得ることができず現地撮影をあきらめ、新潟県上越市を撮影地にしている。
[編集] 訴訟
「連合赤軍『あさま山荘』事件」の内容に関し、当事者である坂口弘から、彼の短歌を改変(読点を追加)して引用した点と坂口の名誉を毀損する表現があった点につき、版元の文芸春秋社とともに訴えられた。裁判所は短歌の改編が著作権の侵害に当たり、また描写の中に坂口の名誉を毀損する表現があった(同時代の爆弾闘争に関与したかに読める)と認定し、損害賠償を命じる判決を下した。
[編集] 受賞・受章歴
- 1975年 イギリスCBE勲章受章
- 1986年 アメリカ軍民間人功労章受章
- 1990年 ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章受章
- 1993年 第54回文芸春秋読者賞受賞
- 2000年 第48回菊池寛賞受賞
- 2001年 勲二等旭日重光章受章
[編集] 家族・親戚
戦国武将、佐々成政や、水戸黄門でおなじみの助さんこと佐々宗淳(但し、ドラマ上では『佐々木助三郎』とクレジットされる)を祖先に持つ。また日本婦人有権者同盟代表で元参議院議員の紀平悌子は実姉。母方の祖先は和田義盛で、母は和田万吉の娘。
[編集] 演じた俳優
- 役所広司 - 映画「突入せよ!あさま山荘事件」を参照
[編集] 関連事項
[編集] 外部リンク
- 佐々淳行 Website(公式)