クメール・ルージュ
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クメール・ルージュ(Khmer Rouge)は、1975年から1979年までカンボジアを支配した共産主義政党。赤色クメールともいう。政党の公式名はカンボジア共産党、その後民主カンプチア党。
クメール・ルージュ政権(ポル・ポト政権)下では、資本家層・学者・医者・教育関係者は元より、大人は全て粛清の対象となった。20世紀、ナチスやソビエト連邦の大粛清、毛沢東の文化大革命と並んで、大量殺戮で悪名が高い。最終的には、自国民の三分の一から四分の一が死亡したとみられる。
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[編集] 勢力の拡大
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カンボジア共産党は1950年代の初めに設立された。初期の数年はベトナム共産党の指導下にあった。1970年代に党名を「民主カンプチア党」に変更した。しかし一般には、フランス語の名前クメール・ルージュ(赤色クメール)として知られるようになった。
1970年まで、カンボジアは立憲君主制だった。ノロドム・シアヌーク王子は、アメリカに支持されたロン・ノルのクーデターによって1970年3月18日に廃位された。北ベトナムの援助を受けてシアヌークに支持されたクメール・ルージュ軍(民主カンプチア軍)は、ロン・ノル政権に対する軍事行動を始め、国の大部分を速やかに支配した。
クメール・ルージュの増長の背景には、シアヌークやロン・ノルの親米路線に対する大衆の反発が在った。当時、カーチス・ルメイ将軍が率いる米軍は、第二次世界大戦で日本に投下した総量の3倍もの爆弾を、カンボジアに投下した。
クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ撤退後の反植民地主義と毛沢東思想の極端な形式を組み合わせたもの。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中に、そうした思想に親しんだ。あわせて、カンボジアの共産主義者の間には、ベトナム人への長い服従に対する反感があった。彼らは政権を握った時、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。
1975年4月17日、クメール・ルージュ軍はプノンペンを占領、ロン・ノル政権を倒し国名を民主カンプチアと改名した。クメール・ルージュ党中央委員会の常任委員会は、ポル・ポト、ヌオン・チャ、タ・モク、キュー・サムファン、ケ・パク、イエン・サリ、ソン・セン、ユン・ヤトおよびイエン・シリトを含む。クメール・ルージュの首脳部は、1960年代から1990年代半ばまでおおよそ不変だった。
[編集] クメール・ルージュ政権下のカンボジア
クメール・ルージュは、「革命の恩恵は農村の労働者に与えられるべき」という視点から、階級が消滅した完全な共産主義社会の建設を目指すと称して、都市居住者、資本家、技術者、知識人など頭脳階級から一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣も廃止し、宗教も禁止し、一切の私財を没収した。さらに一切の近代科学を否定した。
移住させられた人々は、強制労働収容所より小さい「集団農場」で農業に従事させられる一方、知識人階級は反乱を起こす可能性があるという理由で殺害された。反乱を企てた農民も殺され、反乱の首謀者になる可能性があるリーダー格の人間も殺された。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も、やはり殺された。また、子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。クメール・ルージュは、米軍の爆撃の結果生じた大量飢餓から人々を救って食糧を自給できるように地方への移住を行った、と主張して自らの行為を正当化した。
「カンボジア・ゼロ年」として知られているこの政策は、強制労働および飢餓を通じて、カンボジア人の大量死に至った。クメール・ルージュ政権は、更に前政権関係者、各種専門家および知識人への関係を持った者およびベトナム系の人々も殺戮した。多くの資料は、クメール・ルージュ政権の虐殺が、近代史中のどの政権より、自国の人口の死亡原因の最大要因だったことを示している。最低は死亡者数の10%、確実な数字としては20~25%であると考えられる。この数字は4年間の政権下で達成した。
クメール・ルージュによって殺戮された人々の正確な数が、いろいろな立場で検討されている。後の政権は330万人が死んだと主張している。しかしこの数値は、結果的にポル・ポト支援側になってしまった米国では信憑性を得られていない。CIAは5万から10万人がクメール・ルージュによって殺戮されたと推測したが、それは実際の死者数の一部(それらは大半が飢餓による)だった。アメリカ国務省、アムネスティ・インターナショナル、イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトの3者は、それぞれ120万、140万および170万として死者数の合計を推計している。
言語学者・思想家のノーム・チョムスキーは「300万人と伝えられる数値は、カンボジア側の主張でしかない」と言い、政治学者R・J・ルメルは、200万人と予測した。元クメール・ルージュの党首キュー・サムファンおよびポル・ポト、彼らは過小評価をすると予想できたが、100万人と80万人という数値をそれぞれ主張した。1975年の人口の合計約700万人から、犠牲者数150万人の評価は合理的だと考えられる。
[編集] 没落
数年間の国境紛争およびベトナムへの大量の難民流入後に、1978年12月にベトナム軍はプノンペンに侵入し、1979年1月7日にクメール・ルージュ政権を追放して占領した。カンボジア人の従来のベトナム支配に対する恐れにもかかわらず、ベトナムの侵入者は、広範囲に離脱したクメール・ルージュ党員によって支援された。彼らはクメール・ルージュの後の政府の中心を形成した。クメール・ルージュは西へ退き、タイ軍によって非公式に保護され、ダイヤモンドと材木の密輸による資金で長年タイ国境付近の領域を支配し続けた。1985年にはキュー・サムファンが公式にクメール・ルージュのリーダーとしてポル・ポトを継いだ。
クメール・ルージュは、ベトナムとの冷戦状態に至ると、アメリカ(レーガン政権)やイギリス(サッチャー政権)から資金援助を受けた。カンボジアに多く埋められている地雷は、この期にクメール・ルージュが埋めた物だと言われる。
全てのカンボジアの政治勢力は、1991年に選挙と武装解除を行う条約に調印した。しかし1992年にクメール・ルージュおよびそれらが選挙の結果を拒絶し、翌年に戦闘を再開した。1996年にナンバー2のイエン・サリを含む多量離脱があり、残された兵士は半数の約4000人だった。1997年の党派の争いはクメール・ルージュ自身によるポル・ポトの監禁および裁判に結びついた。ポル・ポトは裁判で終身刑を宣告され、翌1998年4月15日に死去した。又、キュー・サムファンは1998年12月に投降した。クメール・ルージュの残りのリーダーは、1998年12月29日に、1970年代の大量殺戮に対して謝罪した。1999年までに、大半のメンバーは投降あるいは拘束された。
指導者達の裁判(クメール・ルージュ裁判)は、国際連合をはじめとする国際社会の働きかけがある一方で、現在も引き延ばされ続けている。この理由として、現政府の多くの職員が元クメール・ルージュ党員であること、クメールルージュを強力に支援した中国共産党の阻止活動があること、などが挙げられている。若いカンボジア人の多くは、30年近く前に起きた暗黒の歴史には無知のままである。
[編集] 関連書籍
- クメール・ルージュ支配下のカンボジアに残留した日本人女性は7名。そのうち5名は死亡または行方不明。内藤泰子(歌手の内藤やす子とは無関係の別人。夫と2人の子は死亡)さんと細川美智子(夫は死亡。2人の子とともに日本へ)さんの2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国。
- 内藤泰子・著 『カンボジアわが愛 -- 生と死の1500日』 日本放送出版協会 1979年10月
- 近藤紘一・著 『戦火と混迷の日々 -- 悲劇のインドシナ 内藤泰子さんの体験を追いつつ』 サンケイ出版 1979年10月
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- 近藤紘一・著 『戦火と混迷の日々 -- 悲劇のインドシナ』 文春文庫 文芸春秋 1987年2月 ISBN 4-16-726904-X
- 細川美智子、井川一久・著 『カンボジアの戦慄』 朝日新聞社 1980年12月
- 井川一久、武田昭二郎・著 『カンボジア黙示録』 田畑書店 1981年4月 258p ISBN 4-8038-0149-5
- 井川一久・編著 『新版 カンボジア黙示録 -- アンコールの国の夜と霧』(現代アジア叢書 5) 田畑書店 1987年8月 463p ISBN 4-8038-0205-X
[編集] 関連項目
- 一ノ瀬泰造
- カンボジア内戦
- トゥール・スレン収容所
- キリング・フィールド(the Killing Fields)
- ホロコースト
- 独裁政治
- 全体主義
- 中国共産党