ペンタゴン・ペーパーズ
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ペンタゴン・ペーパーズ (Pentagon Papers) とは、国際安全保障局ISA担当国防次官補ジョン・マクノートンが命じて、レスリー・ゲルブ(後に国務省軍政局長)が中心になってまとめ、ポール・ウォンキ国防次官補に提出されたベトナム戦争に関する極秘報告書である。
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[編集] 執筆の経緯
正式名称は "History of Decision Making in Vietnam, 1945-1968" 「ベトナムにおける政策決定の歴史1945年-1968年」である。報告書は47巻構成(資料を含め約100万語)で、ルーズベルト大統領時代にはじまるアメリカ合衆国のインドシナへの政策を網羅している。報告の材料の多くは、ウィリアム・バンディ国務次官補(前国防次官補)のファイルから出ていると言われており、ホワイトハウスの動きがあまり盛り込まれていない。
報告書は「アメリカは不十分な手段(インフラ未発達な国への兵力の逐次投入)を用いて過大な目的(共産主義のインドシナ半島全体への拡散の防止)を追求した」と結論づけているが、あくまで目的を追求するべきなのかどうかについては述べられていない。
特に「帝国主義的野心」は少なくとも官僚レベルでは存在せず、純粋に共産主義の恐怖を防ごうとしたように読みとれる。アメリカは終始北ベトナム(ベトナム民主共和国)の共産主義的性格のみに心を奪われ、民族主義的・反植民地主義的性格を無視しているようである。
米国政府は正確な情報(当初20万人規模の軍隊が必要とされた)を知りながら国民に隠し、政府高官はお互いの異なった思惑から、泥沼に引きずり込まれるように介入していった過程が明らかにされている。特に、約50万人を上限とする政治的限界(予備役招集が越えられない壁だった)と勝利への見通しがないことが明らかになった。この文書から米国民の「信頼性のギャップ」が深まり、後の撤退決断の遠因となった。
[編集] ニューヨーク・タイムズのスクープ
1971年、執筆者の1人であるダニエル・エルズバーグ(当時シンクタンクのランド社に勤務していた)がアンソニー・ルッソとともにコピーを作成し、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者などに全文のコピーを手渡した。ニューヨーク・タイムズではシーハン記者を中心に特別チームを作り、1971年6月13日から連載記事として報道された。これを受けてワシントン・ポストなどもペンタゴン・ペーパーズの報道を始めた。マイク・グラベル上院議員も入手した文書を議会で全文朗読し公式記録に記録させている。文書は後に全文が出版された。
ニューヨーク・タイムズが記事を掲載すると、当時のニクソン大統領は事態を重視、司法省に命じて記事差し止め命令を求め連邦地方裁判所に提訴した。政府はペンタゴンペーパーズの新聞への掲載を国家機密文書の漏洩であるとし、国家安全保障に脅威を与えると見なしていた。ワシントン連邦高裁で訴えは認められたが、その後連邦最高裁で「政府は証明責任を果たしていない」という理由で却下された。この裁判は憲法修正第1条(言論の自由)を巡る問題に関する以後の判例・政府活動に大きな影響を与えた。
エルズバーグとルッソは窃盗、情報漏洩などの罪で起訴されたが、後にホワイトハウスの情報工作を担当した「鉛管工」チームが、信用を失墜させる目的でエルズバーグのかかっていたロサンゼルスの精神科医ルイス・フィールディングのオフィスに侵入しカルテを盗もうとしたことがウォーターゲート事件の余波として判明し、「政府の不正」があったとして裁判は却下された。
[編集] 参考文献
- 「The Pentagon Papers」 Bantam Books. As published in The New York Times. 1971 ISBN 0552649171
- 朝日ジャーナル臨時増刊2冊(後にサイマル出版から)として邦訳
- 「ベスト&ブライテスト」 デイヴィッド・ハルバースタム サイマル出版会 1976年
- 「ブレザレン」 ボブ・ウッドワード 、スコット・アームストロング TBSブリタニカ 1981年
- 「メディアの権力」 デイヴィッド・ハルバースタム 朝日新聞社 1999年
- 「輝ける嘘」 ニール・シーハン 集英社 1992年
- 「マクナマラ回顧録」共同通信 1997年
- 「戦略の本質」野中郁次郎他 日本経済新聞 2005年 ISBN 4-532-16529-6
[編集] 外部リンク
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