デタント
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デタント(Détente 緊張緩和)とは、冷戦体制下の1960年代末から1970年代末にいたる期間を指す。主にアメリカ合衆国と旧ソビエト連邦の間の政治対話をさす用語として用いられた。
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[編集] 背景
1940年代後半に顕在化し、地球大に拡大した米ソの対立状況は、1958年のベルリン危機および1962年のキューバ危機で頂点に達し、核戦争寸前にまで至った。その後米ソは核戦争の防止に共通の利害を見出すようになり、ヨーロッパにおける相互の勢力圏を尊重するようになった。それと同時に相互の陣営内部においても、フランスや西ドイツの独自外交、中ソ対立の表面化に象徴されるような多中心化の動きが見られ、冷戦初期の対立とは異なる状況が生まれてきた。また米ソの軍事力がほぼ対等になったこともデタントの到来の一因となった。
[編集] デタントの中身
デタントは、大きく米ソのデタントとヨーロッパのデタントに分けることができる。
[編集] 米ソ・デタント
[編集] ヨーロッパ・デタント
西ドイツの首相ヴィリー・ブラントは東方政策を進めた。また欧州安全保障協力会議(CSCE)がヘルシンキで開催された。
[編集] デタントの崩壊
1970年代後半になると、アメリカ国内でデタント政策に対する批判が高まった。たとえばポルトガルの植民地であったアンゴラやモザンビークにおける民族解放戦争にソ連およびキューバが関与したことは、アメリカ国内の批判派にはデタント政策の失敗と映った。最終的に1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻によって、少なくとも米ソ・デタントは終わった。
[編集] デタントの現実
デタントの期間、東側陣営は後のスカッド・ミサイル等の配備を極秘裏に進めており、一般戦力も拡大の一途であった。市場の安定の為軍拡に一息ついた西側陣営の裏をかいた結果となった。しかし、東ドイツの自動車トラバントに代表されるように、市場原理主義のない共産主義陣営では技術的に停滞し、逆に民生品が軍需品の質を引っ張る資本主義陣営では質的な軍事力が高められていた。1980年代には事実上、軍事の均衡は崩壊していたと見られ、東側陣営が戦力を誇示しても、西側陣営にとってそれはもはや数字の羅列以上の意味を持たなかった。
ただ、最悪の現実だけが残された。すなわち、「全面核戦争か、平和共存か」である。
[編集] デタントと冷戦の終結
ミハイル・ゴルバチョフは閉塞状況に陥ったソビエト連邦の体制再建を図るためには、冷戦状況の抜本的な打開が必要であると認識するようになり、「新思考外交」を掲げて、アメリカに対し対話を呼びかけた。他方、ソ連を「悪の帝国」と呼び、軍拡を進めて対決姿勢を見せていたロナルド・レーガンも、二期目になるとソ連との交渉に関心を示した。そして1986年、ジュネーブおよびアイスランド・レイキャヴィークで、両首脳は会談し、核軍縮などについて率直な意見交換を行った。
[編集] ソ連崩壊後のロシアとアメリカの関係
1991年12月、ソビエト連邦は解体し、ロシアが旧ソビエト連邦の国際的権利を引き継いだものの、その軍事力は低下し、またロシア国内の経済事情の悪化もあり、両国の間にかつてのような緊張関係はなくなった。
[編集] 関連語句
- 第一次戦略兵器制限交渉、第二次戦略兵器制限交渉(SALT I、II)
- 中距離核戦力全廃条約(INF条約)
- 第一次戦略兵器削減条約、第二次戦略兵器削減条約(START I、II、III)
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