飯田哲也
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飯田 哲也(いいだ てつや、1968年5月18日 - )は、昭和末期から平成期(1980年代後半~2000年代後半)のプロ野球選手。東京都調布市出身。現在は東京ヤクルトスワローズ二軍コーチ。ポジションは捕手~二塁手~外野手。右投げ右打ち。野村克也監督の象徴ともいえる選手でID野球はIIDA野球の略とまで言われた選手。
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[編集] 来歴・人物
拓大紅陵高(千葉県)では3年次に春夏連続して甲子園に出場。春の選抜大会では1試合で3盗塁を刺すなど強肩の捕手として注目された。1986年にドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。3年目に一軍に上がり、捕手として22試合に出場。翌1990年に不動の正捕手となる古田敦也が入団したため二塁手に転向し、前年新人王の笘篠賢治からレギュラーを奪い、22盗塁を記録した。翌1991年には中堅手に転向。俊足強肩の1番打者として、その後の5回のリーグ優勝に大きく貢献した。1992年には33盗塁で盗塁王を獲得、1997年には初の打率3割を記録した。この間、1991年から1997年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。
中堅手としての守備力は正に芸術的で、1993年の日本シリーズ第4戦8回表に見事なバックホームで二塁走者の生還を阻止したプレーは、日本の球史に残る名場面として現在でも語り継がれている。東京ドームで外野フェンスを蹴って(いわゆる三角跳び)ホームランボールを取りかけたこともある。また、ホームラン性の打球を捕球しようと外野フェンスによじ登る姿は、神宮球場の名物であった。
1998年以降は自身の度重なるケガや真中満などの台頭もあって出場機会が減少。2004年にはわずか3試合の出場にとどまり戦力構想から外れたため、指導者への誘いも受けたが、新規参入した楽天に移籍し、現役を続行。2005年シーズン当初は低打率でパッとしなかったが、6月以降急上昇。徹底的に粘るしつこい打撃を見せ、まだまだ衰えていないところを見せ付けた。さすがに守備は往時の動きでなく、再三の故障で離脱も多かったが、打ではしぶとくファウルで逃げて投手を根負けさせる技術、左投手殺しの技術も冴えを見せ、沢村賞投手の杉内俊哉も打率5割超とカモにするなど更に巧味を増した。 2002年には、1994年から神宮球場に自費で少年野球選手を招待する飯田シートを設けた功績により、報知新聞社のゴールデンスピリット賞を受賞した。
私生活ではヤクルト時代に大東めぐみとの交際を憶測されたことがあったが、目立った女性の話はこれ位で、2003年まで独身を通した。2004年正月早々にミス広島選出及びレポーター活動歴があった女性と結婚、挙式の立会い人を同期入団・同い年の内藤尚行が務めたことも話題となった。
2006年9月16日の福岡ソフトバンクホークス戦で和田毅投手から3年ぶりの本塁打を、9月24日のヤクルト時代の宿敵西武ライオンズ戦では2本の適時打を放ち、パリーグのプレーオフ戦線をかき回す活躍で健在をアピールしたが、この活躍を置き土産に9月30日現役引退を発表した。10月1日の最終戦は1番中堅手で先発出場。9回には思わず涙する場面も見られた。裏の攻撃では、直前の打者のリックの、「飯田さん、頑張るから(必ずまわすから)」との言葉に思わず涙が込み上げてきたと会見で語っている。(残念ながらリックが凡退してゲームセットとなり、ネクストバッターサークルの飯田に打席は回ってこなかった) この年の10月19日、2007年からヤクルトの2軍外野守備走塁コーチに就任することが正式に発表された。
[編集] タイトル・表彰
- 盗塁王1回 (1992年)
- ベストナイン(外野手部門)1回(1992年)
- ゴールデングラブ賞(外野手部門)7回 (1991年~1997年)
- 2002年ゴールデンスピリット賞
[編集] 通算成績
- 1505試合 打率.273(4564打数 1248安打)648得点 48本塁打 363打点 234盗塁 700三振 370四死球 106犠打 26犠飛
[編集] 背番号
[編集] スポーツマンNo.1決定戦での活躍
- 1995年1月1日。第1回プロスポーツマン大会の総合No.1。「モンスターボックス」では当時のプロスポーツマン記録である「16段」を記録した(ちなみにトップはタレントの池谷幸雄・記録19段)。スピード種目である「ダッシュ」と「ビーチフラッグス」では自慢の足を活かしNo.1を獲得している。
- 1996年には「ダッシュ」でのみNo.1を獲得している。
- 1997年。当時、まだ無名だった松井稼頭央(当時、西武ライオンズ)に決勝で破れ「ダッシュ」の3連覇を逃した。
- 1999年。最終種目の「ショット・ガン・タッチ」で当時の世界記録「13m20cm」(前年、広島東洋カープの緒方孝市が樹立)を成功させ、アメフトの河口正史を抜いて大逆転の総合No.1に輝いた(返り咲き総合No.1は番組史上、初の出来事である)。その後、「13m30cm」を成功させて当時の世界新記録を樹立した。
- 2000年。アメフトの河口正史を抑えて5年振りに「ビーチフラッグス」でNo.1に輝く。最終種目の「ショット・ガン・タッチ」では「12m90cm」という記録に終わったが、ケイン・コスギ、岩村明憲と並び、2年連続でこの種目のNo.1に輝いた。
- 2006年。選手として出場はしていないがコロッセオに6年ぶりの登場(というより観戦)。東京ヤクルトスワローズの青木宣親にアドバイスを送っていた(その青木は神戸製鋼の大畑大介が2002年に樹立した「13m50cm」の記録を抜き、「13m60cm」の世界記録を樹立した)。