稲尾和久
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稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - )は、大分県別府市出身のプロ野球選手(投手)、プロ野球監督、野球解説者、野球評論家である。
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[編集] 来歴・人物
1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団した。入団当初は注目の選手ではなく、三原脩監督も「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言して憚らなかった。実際、島原キャンプでは中西太・豊田泰光・高倉照幸ら主力打者相手のバッティング投手を務めており、口の悪い豊田は「手動式練習機」とも呼んでいたが、キャンプ後半になると逆に打者が打ち取られる場面が増えたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言。そしてオープン戦に登板し、結果を残して開幕を一軍で迎え、開幕戦(対大映)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、河村久文の後を継いで2番手として登板、4回を無失点に抑えた。その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、投手陣の故障などから登板機会が増え、最終的には1年目から21勝6敗、防御率1.06(2005年現在パリーグ記録)の好成績を残し、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した。2年目の1957年からは3年連続30勝を記録し、1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝をマーク。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、『野武士軍団』西鉄の黄金時代を築き上げる原動力となった。
投手としての稲尾を語る上で絶対に外せないエピソードといえば、やはり1958年の日本シリーズであろう。読売ジャイアンツに3連敗した後の第4戦、三原監督は、第1戦、第3戦に先発した稲尾をスタメンでマウンドに上げた。そしてその試合で勝利をもぎ取ると、後の3試合でも稲尾を起用し続けて4連勝し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち4試合に先発)し、第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという、文字通り「獅子奮迅」の活躍を見せ、ファンからは「神様、仏様、稲尾様」と崇められた。以降も日本シリーズには4回出場し、通算11勝をあげている。これは、堀内恒夫と並ぶ日本シリーズ最多勝記録である。
1962年に200勝を達成。デビューから8年連続20勝以上・史上唯一の3年連続30勝以上、同一シーズン内20連勝のプロ野球記録を達成し、『鉄腕』の名をほしいままにした。しかし、1964年にはそれまでの酷使が祟って肩を故障。これを機に1966年リリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。1969年限りで現役を引退。引退翌年の1970年から、ライオンズの監督に就任した。「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から太平洋クラブに売却されるという苦境の中で采配を振るい、1974年限りで退任。1978年から1980年まで中日投手コーチ。1984年よりロッテオリオンズ監督を務める。埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく1986年限りで退任。
現在は日刊スポーツ野球評論家・RKB毎日放送の専属野球解説者である(過去にABC朝日放送の野球解説も務めた)。同局の夕方ワイド番組「今日感テレビ」に出演している他、プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズの監督としても活躍している。1993年、野球殿堂入り。
長らく沢村賞選考委員を務めていたが、2006年に委員長の藤田元司が亡くなったことを受け、同年からは委員長を務める。
[編集] 選手としての成績
年度 | チーム | 試合数 | 完封 | 勝数 | 敗数 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1956年 | 西鉄 | 61 | 3 | 21 | 6 | 262 1/3 | 182 | 1.06 |
1957年 | 68 | 5 | 35 | 6 | 373 2/3 | 288 | 1.37 | |
1958年 | 72 | 6 | 33 | 10 | 373 | 334 | 1.42 | |
1959年 | 75 | 5 | 30 | 15 | 402 1/3 | 321 | 1.65 | |
1960年 | 39 | 3 | 20 | 7 | 243 | 179 | 2.59 | |
1961年 | 78 | 7 | 42 | 14 | 404 | 353 | 1.69 | |
1962年 | 57 | 6 | 25 | 18 | 320 2/3 | 228 | 2.30 | |
1963年 | 74 | 2 | 28 | 16 | 386 1/3 | 226 | 2.54 | |
1964年 | 6 | 0 | 0 | 2 | 11 1/3 | 2 | 10.64 | |
1965年 | 38 | 2 | 13 | 6 | 216 | 101 | 2.38 | |
1966年 | 54 | 2 | 11 | 10 | 185 2/3 | 134 | 1.79 | |
1967年 | 46 | 1 | 8 | 9 | 129 | 87 | 2.65 | |
1968年 | 56 | 1 | 9 | 11 | 195 | 93 | 2.77 | |
1969年 | 32 | 0 | 1 | 7 | 97 | 46 | 2.78 | |
通算 | 756 (通算7位) |
43 | 276 (通算8位) |
137 | 3599 (通算10位) |
2574 (通算8位) |
1.98 (通算3位) |
(表中太字はシーズンのリーグ最高記録)
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝 4回(1957~1958、1961、1963)
- 最高勝率 2回(1957、1961)
- 最優秀防御率 5回(1956~1958、1961、1966)
- 最多奪三振 3回(1958、1961、1963)
- MVP 2回(1957~1958)
- ベストナイン 5回(1957~1958、1961~1963)
- 同一シーズン最多連勝(1957年、20連勝)
- 最多連勝(1957年、20連勝、松田清(元巨人)とタイ記録)
- 月間最多勝(1962年8月、11勝)
- 年間最多勝(1961年、42勝)
- 年間最多奪三振(1961年、353個、パ・リーグ記録)
- 最多試合登板(1961年、78試合、パ・リーグ記録)
- 日本シリーズ最多勝(11勝)
- 入団1年目選手としての最高防御率1.06(1956年)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970年 | 6位 | 130 | 43 | 78 | 9 | .355 | 34 | 137 | .225 | 4.12 | 33歳 | 西鉄 |
1971年 | 6位 | 130 | 38 | 84 | 8 | .311 | 43.5 | 114 | .231 | 4.31 | 34歳 | |
1972年 | 6位 | 130 | 47 | 80 | 3 | .370 | 32.5 | 110 | .242 | 4.12 | 35歳 | |
1973年 | 4位 | 130 | 59 | 64 | 7 | .480 | 3位・4位 | 116 | .239 | 3.58 | 36歳 | 太平洋 |
1974年 | 4位 | 130 | 59 | 64 | 7 | .480 | 3位・4位 | 90 | .235 | 3.46 | 37歳 | |
1984年 | 2位 | 130 | 64 | 51 | 15 | .557 | 8.5 | 149 | .275 | 4.22 | 47歳 | ロッテ |
1985年 | 2位 | 130 | 64 | 60 | 6 | .516 | 15 | 168 | .287 | 4.80 | 48歳 | |
1986年 | 4位 | 130 | 57 | 64 | 9 | .471 | 13 | 171 | .281 | 4.34 | 49歳 |
- 監督通算成績 1040試合 431勝545敗64分 勝率.442
[編集] エピソード
- 来歴の項に記したように、高校時代は全く無名の選手で、南海ホークスが獲得に動いていると知って初めて西鉄も獲得に乗り出していた。このとき南海とは契約寸前まで行ったが、父・久作の「大阪に行くよりも、何かあればすぐに戻ってこれる九州の方がいい」という言葉もあって、西鉄入団を決意した。
- 当時の「エース」と呼ばれる投手は、先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前だった。それに加え、三原脩監督の投手起用法が良くも悪くも実力者偏重であったため、頭角を現した後の稲尾は、登板数が急激に増加した。米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても登板試合数が極端に多いが、逆にこれが稲尾の記録の密度を高め、記憶に残る投手となったという一面もある。
- 1958年の日本シリーズにおいて、稲尾は第4戦以降の全試合に登板している。三原監督の稲尾に対する信頼の厚さを示すエピソードだが、三原は後に「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白していた。後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳なかった」と詫びているが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。
- 足の裏を全て地面につけず、爪先で立つように投げるフォームは、父の仕事の手伝いで小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。
- 同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることができ、パ・リーグの強打者を大いに苦しめた。得意の球種はシュート、スライダー。当初稲尾はマスコミに「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で本当の決め球はシュートであり、これを見抜いていたのは野村克也(南海)だけだったという。また、投げる直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。
- この他に、フォークボールもマスターしていた。これは榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では一球も投げなかった。なお稲尾は榎本について「今まで自分が対戦してきた中で最強の打者」と評している。
- 現在では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。ボール半個分を自由自在に出し入れすると言われた正確なコントロールに裏打ちさたこの投球術こそが、投手としての稲尾を支えていたものであろう。
- 杉浦忠とのエース対決となった、平和台球場での南海戦。8回裏に先制の2ラン本塁打を放った稲尾は、ベンチに帰るなり「『鉄腕稲尾のひとり舞台、投げて完封・打って2ラン』。明日の新聞の見出しはこれで決まり!」と口走る。これに中西太が「野球は1人じゃ出来ない」と反発すると、豊田泰光もこれに同調。直後の9回表、先頭打者がサードに転がすと中西が取り損ね、続く打者をショート併殺に打ち取ったと思ったら、今度は豊田がトンネル。稲尾は「わざとエラーをしたんじゃないか」と、中西と豊田に疑いの目を向けるが、2人とも「わざとじゃない」と言うばかり。その後は送りバントを自ら取って2塁ランナーを3塁で封殺、続けて仰木彬へのセカンドゴロでダブルプレーに打ち取って試合を決め、完封勝利を収めた。後年稲尾はこれについて「『野球は一人でやるものじゃない』の意味が分かった。これが西鉄の愛の鞭だと思った」と話していたが、この時は中西と豊田のエラーについて疑いが消えなかったため、三原脩監督に事の経緯を報告。中西と豊田は試合後に「誰かからわざとエラーするように指示されたのか?」と三原に怒られたという。
- 1959年には西鉄の全面協力により、稲尾の半生を描いた映画『鉄腕投手 稲尾物語』(東宝、本多猪四郎監督)が制作・公開され、本人役で主演した。三原監督以下、中西、豊田、関口清治、大下弘ら当時の西鉄ライオンズ選手が全員出演し、大毎オリオンズの荒巻淳、NHKアナウンサーの志村正順、野球解説者の小西得郎らがゲスト出演した大作野球映画であった。共演は志村喬、浪花千栄子、白川由美ら。
- 現役晩年、広島東洋カープへの移籍が実現寸前の所までこぎつけていたが、一部ファンから「稲尾は西鉄の宝です、それだけは思いとどまってください」と反対され、結局は実現しなかった。
- 稲尾が現役時代に着けていた背番号24は、1972年に西鉄の永久欠番となった。そのため監督時もそのまま背番号24を着用していたが、1973年、親会社の身売りにより失効。稲尾もこの年から背番号を81に変更している。
- ロッテ監督時代の教え子だった落合博満から、良き理解者として慕われている。(詳しくは落合の項参照)
- 1980年代前半(1982~83年頃)、評論家時代に「稲尾Q談」というトーク番組を持っていた。日曜日8:30~9:00で、テレビ朝日系列にて放送された。
- 「新しい歴史教科書をつくる会」賛同者。
- 仰木彬が亡くなり、プロ生活の大半を過した関西でお別れ会の話が出た時に「福岡は仰木さんの故郷で親類や知人も多い。神戸まで足を運べない人の為にも」と福岡・神戸でのお別れ会同時開催を提案。この心遣いに遺族や親類、知人からは惜しみない賛辞が贈られた。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
- ※カッコ内は監督在任期間。