遠山奬志
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遠山 奬志(とおやま しょうじ、1967年7月21日 - )は、昭和末期から平成期(1980年代後半~2000年代前半)の元プロ野球選手。熊本県葦北郡田浦町(現:芦北町)出身。左投げ左打ち。プロ入り初年から1998年までは「遠山 昭治」。愛称は遠山の金さん、遠山桜。
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[編集] 来歴・人物
八代第一高等学校(現・秀岳館高等学校)から1985年ドラフト1位(クジで逃した清原和博の代わり)で阪神タイガースに入団。1年目に先発として8勝をあげるが、広島東洋カープの長冨浩志に及ばず新人王を逃す。翌1987年に故障し以降低迷。1990年シーズンオフ、遊撃手を必要としていた阪神の意向で高橋慶彦とのトレードが成立しロッテオリオンズへ移籍。ロッテでも投手として結果を残せず1995年より打者転向を図り、1996年にイースタン・リーグ最多安打を記録するなど非凡さを見せるが、1997年は一軍出場無くシーズン終了後にロッテを自由契約。
同年シーズンオフに野手として阪神の入団テストを受け、投手として合格。当時の吉田義男監督と古沢憲司コーチから「おまえに1年のあいだ猶予を与えるから投手として2軍で体を作り直してこい」と最後のチャンスをもらい古巣に復帰。投手に再転向するために1998年はシーズンの大半を二軍での練習に費やした。サイドスローに転向し、1999年には「奬志」に登録名を変更。同年より阪神の監督に就任した「野村再生工場」こと野村克也監督のもとでシュートを習得して復活し、野村阪神の左の中継ぎエースとして活躍した。横手投げの変則モーションを生かして主に左打者へのワンポイントとして活躍。
特に1999年には当時の読売ジャイアンツの松井秀喜を13打数無安打に抑え込み、「松井キラー」と呼ばれた。この年、10年のブランクを経て勝利投手となり、史上最長ブランクの勝利記録となった。絶対的な抑えのいないチーム事情と野手経験もある事から、継投の際に一塁を守る事もあった。2000年には右横手投げの中継ぎ投手・葛西稔と、交互に「遠山・葛西・遠山・葛西」と一塁と投手とを交代しあって登板するワンポイント継投がしばしば行われ、野村監督の必殺技とも言われた。星野仙一監督時代の2002年、世代交代を理由に引退した。
引退後は、阪神戦を中心に毎日放送、GAORA、サンケイスポーツ(大阪)で野球解説者を務めた。2005年から2軍投手コーチとして阪神に復帰した。
[編集] 投手成績
- 通算登板 393試合
- 通算完投 3完投
- 通算完封勝 2完封
- 通算無四球試合 0試合
- 通算勝利 16勝
- 通算敗北 22敗
- 通算セーブ 5セーブ
- 通算セーブポイント 9SP
- 通算勝率 .421
- 通算投球回 480回1/3
- 通算被安打 528本
- 通算被本塁打 59本
- 通算与四球 167個
- 通算与死球 15個
- 通算奪三振 283奪三振
- 通算防御率 4.38
[編集] 打撃成績
- 通算試合 408試合
- 通算打率 .156
- 通算安打 14本
- 通算本塁打 0本
- 通算打点 1打点
- 通算盗塁 0盗塁
- 通算犠打 8個
- 通算犠飛 0本
- 通算四球 3個
- 通算死球 0個
- 通算三振 25三振
- 通算併殺打 0個
[編集] タイトル・表彰
[編集] 背番号
- 21(1986年~1990年)
- 16(1991年~1994年)
- 49(1995年~1997年)
- 52(1998年~2002年)
- 75(2005年~ )