永淵洋三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永淵洋三(ながぶちようぞう、1942年5月4日-)は元プロ野球選手。近鉄バファローズ、日本ハムファイターズで活躍した外野手、投手である。
目次 |
[編集] 来歴・人物
佐賀県に生れ、佐賀市立城南中学校から、県内随一の進学校、佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)でエースとして活躍する。甲子園出場はならなかったが、3年生の春の九州大会で優勝する。その後、東芝に入社し、小柄ながら実戦的な投手兼外野手として活躍する。1965年、西鉄ライオンズの入団テストを受けるが落ちる。2年後の1967年、ドラフト2位で近鉄バファローズに入団する。入団時の契約金で、酒の飲みすぎで作った借金を返済したエピソードは有名で、この話を知った漫画家の水島新司が、ヒントを得て『あぶさん』を作った。
入団時は、投手であったが、先発投手としては使い物にならず、優れた打撃センスを持っていたので、三原脩監督は投手、外野手、代打の3役を与えた。試合途中で代打に出て、次の回にマウンドに登り、何人か投げて、外野の守備に回ったり、外野からワンポイントリリーフでマウンドに行き、終わると又外野に戻るというような使われ方をした。数多い三原マジックの中でも、特異な起用法として話題をさらった。
後半からは、外野手専門となり、2年目には、3番ライトに定着し、打率.333で首位打者を張本勲と分け合った。その後も主軸打者として活躍するが、佐々木恭介など若手外野手の台頭で、徐々に出番が減り、1976年、西本幸雄監督の若返り策もあり、永淵、服部敏和対阪本敏三、八重沢憲一のトレードで、三原が球団社長を勤めていた日本ハムに移る。日本ハムでも、外野手、指名打者として活躍したが、年齢から来る体力の衰えには勝てず、1979年のシーズンを最後に現役を引退した。
その後日本ハムのスカウトを経て、故郷の佐賀で「あぶさん」という焼鳥店を経営している。酒の強さは並外れており、毎日試合後に飲みに出かけては、二日酔いで試合に出場することも多かった。試合中にグラウンドに吐きながら守っていて線審の田川豊に注意されたという信じられないエピソードもある。この話には続きがあり、その晩も永淵は飲みに行ってしまうのだが、トイレで吐いていた中年男を介抱してあげたところその男は田川だったという、さらに信じられないようなオチがつく(田川も酒豪で有名だった)。そのバッティングは、俊足巧打であり、内野安打が多かったことから、イチローに似ていると言われることがあるが、永淵の特長はヘッドスピードの速さにあり、引っ張る事が多く長打力も兼ね備えていた。
[編集] 通算成績
- 打者 1150試合 3461打数 962安打 109本塁打 134盗塁 打率.278
- 投手 12試合 19回1/3 0勝 1敗 奪三振9 防御率2.84