ドン・ブレイザー
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ドン・ブレイザー(Don Blazer、アメリカでの登録名:ドン・ブラッシンゲーム (Don Blasingame)、本名:ドナルド・リー・ブラッシンゲーム (Donald Lee Blasingame)、1932年3月16日 - 2005年4月13日)はアメリカ合衆国ミシシッピ州出身のプロ野球選手・プロ野球監督。
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[編集] 来歴・人物
アメリカメジャーリーグではセントルイスカージナルスなどで活躍。オールスターゲームやワールドシリーズにも出場したことのある名選手だった。1967年、南海ホークスに入団し内野手(二塁手)として3シーズンプレー。日本へ来た際、本名ではスコアボードに書ききれないため、ニックネームのブレイザーが日本での登録名となった。
その後1970年から野村克也監督のもとでヘッドコーチを務め1973年のパ・リーグ優勝に貢献。1977年オフ、野村監督の解任に伴い南海を退団。1978年、コーチ時代から親交のあった古葉竹識(1970年~73年に選手・コーチとして同僚だった)が監督をしていた広島東洋カープの守備兼ヘッドコーチを経て1979年から1980年途中まで阪神タイガースの監督。アメリカから、野球を頭脳プレーで展開する「考える野球(シンキング・ベースボール)」の仕組を取り入れた名采配が期待された。
1年目は4位だったが、前年である1978年の最下位に比べれば持ち直し、夏のロード明けまで首位争いに加わった。前年オフに行った田淵、古沢と真弓、若菜らを交換する西武との大型トレード、小林繁の獲得などで前年に比べて戦力がアップされたことが大きかった。しかし1980年、新人の岡田彰布の起用法を巡ってフロントとの確執を生み、ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したことから、シーズン途中の5月14日で退任。
ブレイザーは、新人はまず二軍で養成すべしと考えていたので、岡田を起用したがらなかった。無論、岡田本人も自らの力でチャンスをつかみたいとの思いから異存はなかった。だが、大物新人をいち早く一軍で活躍させたい小津球団社長(当時)を中心とするフロント、ファンやマスコミが許さなかったためと言われる。また、ブレイザーがヤクルトスワローズから獲得した外国人デイヴ・ヒルトンを成績・特に打撃が不振にもかかわらず守備面を評価して起用し続けたこともそうした声に拍車をかけることになった。中西太ヘッド兼打撃コーチが後任となった。
地元出身の岡田を愛するが故の非難は辞任後の低迷を生んでしまい(優勝争いに絡んでいたのが辞任後低迷し5位で終了)、結果阪神ファン・在阪マスコミにとってのタブー事項となっている。
また徹底的にケガ人や調子の悪い選手を使わない主義で、当時調子を落としケガをしていた掛布の起用をめぐって「どうして掛布を使わない?」とのマスコミの問いに「今の状態では使えない」と返し、さらにマスコミが「ファンは掛布を観に球場へ足を運んでいる」と切り返すと「いいや違う。ファンは掛布の凡打を観にきているのではない。ファンは掛布の素晴らしいヒットやホームランを観に来ているのだ」と正論を返す。
全力プレーを推奨し、手を抜いた選手には徹底的に英語で批判した。プレーをビデオで録り、それを元に個別で注意されるので、選手はたまったものではなかった。管理野球の元祖である。
来日してかなりの年数を日本で過ごしているので日本語は相当レベル理解していたが、選手や記者会見では必ず通訳を通して意思の疎通を図った。マスコミが「あの場面ではバントが…」と日本語で言ったところ「キミに作戦の指揮を執る権利はない。ボスは私だ!」と英語でまくし立てた。近藤唯之はこの点についてブレイザーを人間音痴であると評している。
また当時ショートの真弓明信に「つま先は常にホーム方向へ」と指示し、ショートの守備位置や動きで投手の球種を悟らせない「考える守備」を提唱した。
その後1981年、1982年に南海の監督を務めた。しかし、それぞれ5位、6位に終わっている。
息子は日本球界の情報に詳しく、しばしば父に情報を伝えていたが、岡田の監督就任については伝えなかったという。(出典:讀賣新聞)
2005年4月13日死去。享年73。
[編集] メジャー通算成績
- 1444試合 21本塁打 308打点 打率.258
[編集] 日本での通算成績
- 366試合 1356打数 371安打 15本塁打 86打点 13盗塁 打率.274
[編集] タイトル・表彰
- オールスター(アメリカ) 出場 (1958年)
- オールスター(日本) 出場3回(1967-1969年)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | ゲーム差 | 勝率 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979年 | 昭和54年 | 4位 | 130 | 61 | 60 | 9 | 8 | .504 | 172 | .268 | 4.15 | 47歳 | 阪神 |
1980年 | 昭和55年 | 3位 | 130 | 54 | 66 | 10 | 20.5 | .450 | 134 | .262 | 3.73 | 48歳 | |
1981年 | 昭和56年 | 5位 | 130 | 53 | 65 | 12 | ?? | .449 | 128 | .273 | 4.37 | 49歳 | 南海 |
1982年 | 昭和57年 | 6位 | 130 | 53 | 71 | 6 | ?? | .427 | 90 | .255 | 4.05 | 50歳 |
- ※1979年から1996年までは130試合制
[編集] 著書
- シンキング・ベースボール/ドン・ブレイザー・藤江清志(通訳)共著 講談社(1971年)
[編集] 外部リンク
- Don Blasingame | BaseballLibrary.com - メジャー時代の成績等。英語。
[編集] 関連項目
- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1980年は5月14日まで指揮。
カテゴリ: アメリカ合衆国の野球選手 | 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 | 野球監督 | 1932年生 | 2005年没