イチロー
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守備位置 | 右翼手 |
所属球団 | シアトル・マリナーズ |
背番号 | 51 |
日本でのキャリア | 1992年-2000年 |
アメリカでのキャリア | 2001年- |
誕生日 | 1973年10月22日 |
身長 | 175 cm |
体重 | 77.1 kg |
打席 | 左 |
投球 | 右 |
出身校 | 愛知工業大学名電高校 |
年俸 | $12,530,000 |
出身地 | 愛知県豊山町 |
前所属球団 | オリックス・ブルーウェーブ |
MLBデビュー年 | 2001年4月2日 |
ニックネーム | イチロー |
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イチロー(ラテン文字表記:Ichiro Suzuki、本名:鈴木 一朗(すずき いちろう)、1973年10月22日 - )は、愛知県西春日井郡豊山町生まれのプロ野球選手。右投左打。ポジションは外野手(右翼手、2006年終盤より中堅手にコンバート[1])。
愛工大名電高校 - オリックス・ブルーウェーブ(1992年 - 2000年) - シアトル・マリナーズ(2001年 - )
妻は元TBSアナウンサーの福島弓子。なお、名前は一朗だが長男ではなく次男である。代理人はトニー・アタナシオ。
*: なお、身長、体重については公式HPMLB.comを参考にした場合は(身長:5'9'' 体重:170lb)で175cm、77.1kgである。しかし、それは誤りで180cmだとする意見も根強くあり(ドラマで共演した身長178cmの西村雅彦より明らかに身長が高く、「背が高いですね」と西村が見上げる場面がある)、イチロー本人も180cmだと語っており、佐々木主浩もイチローは180ぐらいあると述べているが(笑っていいとも出演時)、真相は定かではない。なお、日本プロ野球在籍最終年である2000年のプロフィールは180cm、75kgであった。
目次 |
[編集] 獲得タイトルおよび記録
[編集] 日本プロ野球(パシフィック・リーグ)
- MVP 3回(1994-1996 )
- 首位打者 7回(1994-2000 )
- 打点王 1回(1995 )
- 盗塁王 1回(1995 )
- 最多安打 5回(1994-1998 )
- 最高出塁率 5回(1994-1996, 1999, 2000 )
- ベストナイン 7回(1994-2000 )
- ゴールデングラブ賞 7回(1994-2000 )
- 日本シリーズ優秀選手賞 1回(1996 )
- 正力松太郎賞 2回(1994, 1995 )
[編集] メジャーリーグ(アメリカン・リーグ)
- 新人王(2001 )
- MVP 1回(2001 )
- 首位打者 2回(2001, 2004 )
- 盗塁王 1回(2001 )
- シルバースラッガー賞 1回(2001 )
- ゴールドグラブ賞 6回(2001-2006 )
- 2004 シーズン262安打
- 2001, 2004, 2006 シーズン最多安打
成績 | ||||||||||||||||
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年 |
チ | |
試 |
打 |
得 |
安 |
二 塁 |
三 塁 |
本 塁 |
打 |
四 死 |
三 |
盗 |
打 |
出 塁 |
長 打 |
|
1992 | オリックス | 40 | 95 | 9 | 24 | 5 | 0 | 0 | 5 | 3 | 11 | 3 | .253 | .276 | .305 | |
1993 | オリックス | 43 | 64 | 4 | 12 | 2 | 0 | 1 | 3 | 2 | 7 | 0 | .188 | .212 | .266 | |
1994 | オリックス | 130 | 546 | 111 | 210 | 41 | 5 | 13 | 54 | 69 | 53 | 29 | .385 | .445 | .549 | |
1995 | オリックス | 130 | 524 | 104 | 179 | 23 | 4 | 25 | 80 | 103 | 52 | 49 | .342 | .432 | .544 | |
1996 | オリックス | 130 | 542 | 104 | 193 | 24 | 4 | 16 | 84 | 78 | 57 | 35 | .356 | .422 | .504 | |
1997 | オリックス | 135 | 536 | 94 | 185 | 31 | 4 | 17 | 91 | 80 | 36 | 39 | .345 | .414 | .513 | |
1998 | オリックス | 135 | 506 | 79 | 181 | 36 | 3 | 13 | 71 | 65 | 35 | 11 | .358 | .414 | .518 | |
1999 | オリックス | 103 | 411 | 80 | 141 | 27 | 2 | 21 | 68 | 67 | 46 | 12 | .343 | .412 | .572 | |
2000 | オリックス | 105 | 395 | 73 | 153 | 22 | 1 | 12 | 73 | 58 | 36 | 21 | .387 | .460 | .539 | |
NPB通算 9年
|
951 | 3619 | 658 | 1278 | 211 | 23 | 118 | 529 | 525 | 333 | 199 | .353 | .421 | .522 | ||
2001 | SEA | 157 | 692 | 127 | 242 | 34 | 8 | 8 | 69 | 38 | 53 | 56 | .350 | .381 | .457 | |
2002 | SEA | 157 | 647 | 111 | 208 | 27 | 8 | 8 | 51 | 73 | 62 | 31 | .321 | .388 | .425 | |
2003 | SEA | 159 | 679 | 111 | 212 | 29 | 8 | 13 | 62 | 42 | 69 | 34 | .312 | .352 | .436 | |
2004 | SEA | 161 | 704 | 101 | 262 | 24 | 5 | 8 | 60 | 53 | 63 | 36 | .372 | .414 | .455 | |
2005 | SEA | 162 | 679 | 111 | 206 | 21 | 12 | 15 | 68 | 52 | 66 | 33 | .303 | .350 | .436 | |
2006 | SEA | 161 | 695 | 110 | 224 | 20 | 9 | 9 | 49 | 49 | 71 | 45 | .322 | .370 | .416 | |
MLB通算 6年
|
957 | 4096 | 671 | 1354 | 155 | 50 | 61 | 359 | 280 | 384 | 235 | .331 | .376 | .438 | ||
- 2006年シーズン終了時 太字はリーグ1位
[編集] 経歴
[編集] 少年時代
父親の鈴木宣之は、少年時代のイチローを厳しく鍛えた。後年、「私たちにとって楽しいことだった」と父親は述べたが、イチロー自身は「父は楽しかったとしても、『巨人の星』みたいなもので、自分にはつらかった」と述べている。
[編集] 高校野球
- 愛工大名電高校時代は、左翼手として夏の甲子園に、また投手として春の甲子園に出場。それぞれ1回戦で相手に投げ負け敗退した。松井秀喜のいた星稜高等学校とも練習試合で対戦がある。高校通算打率は5割5厘、高校通算本塁打は19本である。
- 高校時代、打者として評価されていた中、唯一投手として評価していた地元の中日ドラゴンズのスカウトも視察に訪れたが、投手としての評価が低かったため獲得を見送った。
- 高校当時の野球部中村監督に「言ってくれればいつでもセンター返し出来ます」と答え、監督が「新入生のただのアピ-ルだ」と思って当時の3年生投手相手にバッティングをさせたら約30球のうち7割は確実に芯でとらえ、ライナーでセンターに打ちまくった。中村監督は寮に帰るなり保子夫人に「今度入ってきたもやしみたいな奴は、火星人だった」という感想を漏らしている。そのため、新入生・鈴木一朗の愛称は火星人になった。
[編集] 日本プロ野球
- 1991年、外野手としてオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)にドラフト4位で入団した。
- プロ1年目からイチローは、ウエスタン・リーグで打率.366の高打率を残し、2軍のオールスターに選ばれる。そのオールスターでMVPを獲得し、賞金100万円を手にする。その時イチローは全額を神戸市の養護施設に寄付している。もちろん2軍選手でそのようなことをしたのは日本プロ野球史上初である。
- 入団後は2軍で首位打者を獲得しながらも、土井監督や小川亨コーチから独自性を否定されたことに対し我流を貫き続け、「若いくせに結果ばかり求める」という理由で、当時豪腕の名をほしいままにしていた近鉄の野茂英雄投手(当時)からプロ初本塁打を放ったもののその日に2軍降格を言い渡されるなど、1軍に定着することはなかった。
- 2軍生活を余儀なくされていたイチローは、2年目の秋に当時、土井監督が今季限りという噂があり、従う必要性もなかったので河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で振り子打法を鍛え上げ後日の飛躍にそなえた。後に土井はイチローが日本を代表する打者になると、あたかもイチローを育てたのは自分であるかのように話し、イチローからきっぱり「河村さんにわるい(無礼)です」と言われている。
- 1994年、監督に招聘された仰木彬はイチローの打撃センスを見抜くと、登録名を当初の鈴木から「イチロー」に変更させて1軍の2番打者に抜擢するなどイチローを入念に育てた(その後1番に定着する)。イチローは1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解されレギュラーとして活躍。その年日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成し最終的に210安打(日本記録)まで延ばし首位打者を獲得。またこの年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。
- 1994年、1軍に定着したイチローは毎試合出塁を重ね、69試合連続出塁という日本新記録を達成する。
- 1995年のシーズンでは、前半戦を三冠王で折り返し、終了時には首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率を獲得し五冠王になって勝負強さやパワーも証明した。また、当時のパシフィック・リーグ新記録となる18死球を記録した。現在のパ・リーグ記録は2004年に城島健司が記録した22死球。
- 以後、7年連続首位打者獲得を達成し、日本のプロ野球選手を代表するスーパースターとなった。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録だが、7年連続首位打者は史上初。また、1996年9月23日の日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。そして、日本シリーズ第1戦では、延長10回に読売ジャイアンツ・河野博文投手からライトスタンドに決勝ホームランを放ち、チームは阪急時代の1977年以来の19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞した。
- 1997年、イチローは、216打席連続無三振の日本記録を樹立。彼の三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずか3つである。
- 2000年、5月13日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)。1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにしてしまったのは有名である。
[編集] メジャーリーグ
- 2001年、イチローはポスティング制度を利用してメジャーリーグ・シアトル・マリナーズに移籍する。メジャーリーグ移籍に関して、本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である仰木彬監督に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずチームに残ったという裏話がある。当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか、また線の細いイメージ(筋肉のつき方が一般的な野球選手と異なるためそう見られる)のイチローに全シーズン出場できるスタミナがあるかなど疑問視する声が日米問わず多かった。しかし開幕戦からマルチヒットを放ち、その後もヒットを積み重ね、MLBオールスターゲームでのファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となるなど、アメリカにおいても評価されるようになる。その年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打を達成しアメリカンリーグの新人王・MVPを獲得する。また守備でも数々のファインプレーを見せるなどチームのプレーオフ進出に貢献、日本の一流打者(野手)がメジャーリーグでも通用することを証明した。
- 2004年には、84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの257安打を5本上回る262安打を記録と同時に打率.372を記録し、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いた。この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、USA TODAY紙にもバリー・ボンズ選手が700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグが祝福の意を表し、アメリカの野球の殿堂では特別ブースが用意された(右の写真参照)。日本では、2度目の国民栄誉賞の授与を打診(2度とも本人が辞退)され、アジアの国々や野球に関心の薄いイギリスでも異例の取り扱いで新聞等のメディアがその記録達成を伝えた。2004年、小学5年生の道徳副読本の題材に登場、連続試合出場の「継続」の大切さを伝えた。
- 2005年には、日本人選手として初めてメジャーリーグ通算1,000安打を達成した。これは出場696試合目での達成であり、1933年のチャック・クライン(683試合)、1932年のロイド・ワーナー(686試合)に次いで史上3番目のスピード記録となった(日本では史上最速の757試合で1,000安打を達成している)。6年連続100得点30盗塁はジョー・モーガンに次いで2人目。また、5年連続200本安打という記録も達成した。デビューからなら史上初だが、「デビューから」という注釈が付かなければ、1900年以降の近代野球では3人目。連続記録では史上初だが、5度の200安打100得点30盗塁は球聖タイ・カッブ以来89年ぶりの快挙を成し遂げた。また、チャック・クラインの連続5シーズン通算1118安打を抜いたが、ジョージ・シスラーの5シーズン通算1137安打はあと一歩のところで抜けなかった(ジョージ・シスラーは目の病気で1シーズン丸々プレーしてないため連続記録ではない)。メジャー通算100敬遠も達成した。
- 2006年9月16日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦において200安打を達成し、5年連続を6年連続に伸ばした。メジャーリーグ史上3人目となる。なおイチローはこの試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、ア・リーグ新記録も達成した。また満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を記録。
[編集] 世界大会
- オリンピックなどへの参加を断り続けていて世界大会に興味がないようなイメージをもたれていたため、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)への参加に驚いたファンも多い。これは「オリンピックはあくまでもアマチュアの大会で自分はプロ」という考えによる。また常々チームプレーよりも個人プレーの向上が最終的な結果に結びつくと発言していたが、WBC日本代表ではチームプレーを優先するとも語り、チームリーダーとして率先して行動、その明るく気さくな姿は従来の堅いイメージを覆し話題になった。
- WBCへの抱負が特定の国を指して発言したわけではないが、韓国を対象とした発言としてとりあげられ[2]、イチローの発言に過敏に反応した韓国メディアの中にはイチローを日本猿とイチローのデットボール姿が韓国メディアに使われ、揶揄されるなどの形容するものまであった。また日本人からの批判も少数ながら見られた(小説家の星野智幸による批判など)。もっとも本人は「ブーイングの声は大きいほうが燃える」と気にする風でもなかった。WBCでは韓国チームに2連敗するも、3度目の正直となる準決勝で日本は韓国を下した。イチロー自身もダメ押しのタイムリーを放ち、試合後には「今日負けると日本のプロ野球史に汚点を残すところだった」「勝つべきチームが勝ててよかった」と発言した。
[編集] 特筆
- 普段はメディアの取材に積極的に応えることはないが、それはファンを軽視してのことではない。糸井重里との対談では「僕はゲームの後にその日の試合のことについて語ることを、あまりしていません。それは真剣に見てくれている人々の事を考えると、いい加減なことを言えないからです。適当にあしらうことはできないんです」と語っている。また「オフになってからはイチローは何を考えているのだろう?という質問に答えることにしています」との言葉通り、オフの特別番組やロングインタビュー等には積極的に応えている。
- また同対談で「一時的な注目ではなく、何年も僕に興味を持ってくれる人達とは、もう一生の付き合いだと思っているんです」とも語っている。
- 前述の7年連続首位打者から分かるように、オリックス在籍時を含めて打率3割を切ったのは登録名を「イチロー」に変更する前、つまり無名であった1992年と1993年の2年だけである。
- 日本での登録名はデビュー3年目から"イチロー"であったが、メジャーでの登録名はフルネームで"Ichiro Suzuki"となっている。ただし、ユニフォームに記載されているのは通常の姓ではなく、名前(ファーストネーム)での記載となっている(右の写真を参照)。
- 「バットを振らずに打席が終わる。そんなにつまらない事はない」と語るなど独自の美学を持ち、四球を選ぶより強引にでも安打を打とうとするために四球が少ないが、同時に三振は極めて少ない。このため2005年は年間最多安打記録を更新した翌年だけに、打率4割を期待する声が強かったが、New York Times紙ではこのイチローの姿勢から4割の大台達成は無理で、むしろジョー・ディマジオの持つ56試合連続安打記録を塗り替える方が現実的との見解を示した。また、四球が少ない分出塁率が1番打者としては低いのではと指摘されることもある。
- 2001年は得点圏打率もアメリカンリーグトップ。2002年は敬遠四球が激増し、打率を3分近く下げながらも出塁率を上昇させている。
- 左打者で、スイングから走り出すまでが非常に早く、さらに俊足でもあるため、他の選手ならば安打にできないような打球でも安打になることが多い。2004年の内野安打数は59本。メジャー両リーグで1位である。
- 広角に打ち分けるバッティングを得意とする。また、内野安打になりやすい叩きつけるバッティングも特徴的である。
- 長打率が低く、本塁打が少ないために打者としては非力とされ、本塁打数は歴代シルバースラッガー賞受賞者の中でも最も少ない部類に入る。しかしマリナーズの前監督(ボブ・メルビン)が『毎回イチローの(試合前の)打撃練習を見てみろよ。山ほど(ホームランを)打ってるよ[3]』と証言しているなど長打力がないわけではなく、試合で長打を狙わずにヒットを打つことに専念している結果と言われている。本塁打に関しては日本時代に年間25本を打った実績があり、日本球界では長打の数は多い。
- 2000年後半からそれまでのいわゆる振り子打法とは違う足をあげないフォームへ変えている。イチローのバッティングフォームはデビュー以来シーズン中であっても常に変化し続けており、2005年からは足の上げ方は異なるが、再びハイキックを用いた打法へ変化している(右の写真を参照)。
- 俊足で守備範囲が広く、2006年に選手が選ぶ強肩な外野選手で48%を占めるほどの強肩とその正確なスローイングのため、本塁への送球は"レーザービーム"と称されるなど映像(マリナーズ専属アナウンサー、リック・リズ氏の実況より:この表現は日本でも有名になり、スポーツニュースでは定着しつつある)、他球団からは最もタッチアップで進塁しにくい外野手に挙げられている。また、これに併せて高い運動能力を活かしたファインプレーもあり、本来なら安打性の打球もアウトになったり犠牲フライが外野フライになったりするため、ファンの間ではイチローの守る右翼はその背番号と超自然現象がよく観られるというネバダ州の米軍秘密地区にかけあわせエリア51と呼ばれている。この守備はメジャーでも高い評価を受け、ゴールドグラブ賞を2001-2006年の6年連続で受賞している。
- オリックス時代の1996年のオールスター戦の9回に、イチローは高校時代投手ということから仰木監督が松井秀喜(当時読売ジャイアンツ)のところでピッチャーとして起用した。しかしセ・リーグ監督の野村克也監督は松井に代打高津臣吾(当時ヤクルトスワローズ)を送り、結果は高津に簡単にボールをバットに当てられショートゴロだった。野村はイチローをピッチャーとして送り込むのは、対戦する打者にとって最大の侮辱ととらえていた。後日これに関して野村はイチローの投手起用について「ふざけている」というコメントをしている(その野村はのちに新庄剛志をオープン戦で投手起用している)。
- 実は、前年の1995年のパ・リーグ東西対抗戦でイチローがマウンドに上がったことがある。この時、当時日本ハムファイターズの広瀬哲朗をピッチャーゴロに打ち取った。広瀬によれば、本来は当時西武ライオンズの清原和博が打席に入るところだったが、清原が広瀬に「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言ったそうである。
- テレビ局の番組で、マウンドで投げるイチローの球速を計測したところ時速146kmであった。
- 打席に入るとバットを縦に構える独特のポーズを必ず行う(左の写真参照)。これは幼い頃から熱烈なファンだった中日ドラゴンズの田尾安志選手(元東北楽天監督、現解説者)の影響ともいわれる。また、そのポーズで眼の焦点をスコアボードに合わせた後、バットへ焦点を変えることによって、ボールに対する動体視力を一時的に上げる効果があるとも言われている(NANDA!?より)。
- 偏食家として有名である。独身時代は全く野菜を口にせず、毎日馴染みの焼肉屋で肉ばかり食べていたと言われる。結婚後は弓子夫人が調理方法を工夫したため、野菜を食べることができるようになった(近年では本人の健康管理への意識の高まりもあると思われる)。
- 若手時代は今と違い、むしろマスコミに対して好意的でバラエティ番組にもよく出演し、明るく喋っていたが、永谷脩がきちんとした取材によらない、いい加減な文章を書いて発表したことによって急変し、以降信頼できる記者やきちんと勉強している記者以外には冷たく当たるようになったと言われている。イチローのその記者泣かせな態度には少なからず批判があるものの、際立つ実績のために表立った批判はない。
- 目を非常に大切にしているため、インターネットはおろかパソコンの画面自体を見ない。メールも弓子夫人任せである[4]。
- メジャーリーグへ移籍するまで住民票を移さず、生まれ育った豊山町に納税していた。
- また広島東洋カープの前田智徳に憧れていたため、前田選手の入団時の背番号「51」から変更せず、着続けていると言われる。また、ヤンキースの強打者・バーニーウィリアムズの影響とも言われている。
- 親族が日産自動車の関連会社に勤務している関係で、1995年に「イチロ・ニッサン」キャンペーンのコマーシャルに出演した。プライベートでもマーチ、シーマなどの日産車を愛用していることでも有名。2006年には久々に日産のCMに出演した(スカイライン)。また日産のワークスドライバーとして有名な星野一義との交流もあり、前記のマーチも彼が社長を務めるホシノインパルで作られたものである。
[編集] 略歴
- 1990年 全国高等学校野球選手権大会に左翼手として出場。一回戦敗退。(対天理戦)
- 1991年 選抜高等学校野球大会に投手として出場。一回戦敗退。(対松商学園戦)
- 1992年 愛知工業大学名電高等学校(愛工大名電)からドラフト4位でオリックスブルーウェーブに入団。
- 1992年 ジュニアオールスターゲームで最優秀選手賞(100万円)を獲得。
- 1994年 登録名を「イチロー」に変更。日本プロ野球史上初のシーズン200本安打を達成。最終的に210安打を記録。
- 1994年-2000年 パ・リーグの首位打者を獲得。7年連続は日本記録。
- 2000年 ポスティングシステムを利用しメジャーリーグのシアトル・マリナーズへ移籍。
- 2001年 ア・リーグ首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞・新人王、MVP獲得(新人王以外全て日本人初)。シアトル・マリナーズのシーズン116勝の新記録での地区優勝に貢献する。
- 2004年5月21日(現地時間)日米通算2000本安打達成。
- 2004年8月26日(現地時間)メジャー史上初の入団初年度からの4年連続200本安打達成。
- 2004年9月2日(現地時間)日本人野手史上初となるア・リーグ月間MVP野手部門に選出。
- 2004年10月1日(現地時間)ジョージ・シスラーのメジャーリーグ年間最多安打記録(257安打)を84年ぶりに更新する258安打を達成。国内だけでなくCNN・Yahoo!・USAtodayなど多数のニュースのトップスポーツ記事に。
- 2004年10月3日(現地時間)メジャー史上最高記録の年間262安打で2004年のシーズン終了。
- 2004年 打率.372で3年ぶり2度目のア・リーグ首位打者を獲得。他には2度目のリーグ最多敬遠、Commissioner's Historic Achievement Award(コミッショナー特別表彰)など多数の高い評価を得る。しかし、まだ現役であるという理由で国民栄誉賞は辞退した。
- 2005年6月14日(現地時間)メジャー史上3番目の速さで1000本安打達成。
- 2005年11月 5年連続ゴールドグラブ賞獲得。
- 2006年9月17日 史上3人目になる6年連続200本安打達成。
- 2006年3度目の最多安打を記録した。
- 2006年11月3日 6年連続ゴールドグラブ賞獲得。
[編集] CM
[編集] ドラマ出演
2006年の正月番組のミステリードラマ古畑任三郎(3日間連続放送のシリーズ完結編第2話)に主人公・古畑と対決する犯人役「シアトル・マリナーズのイチロー」として出演した(ギャラは古畑任三郎DVD-BOX)。これまでの古畑作品で、犯人役が本人の役を演じたのはSMAP以外には例が無い。本人も、古畑任三郎シリーズの大ファンであると公言しており、プロデューサーと思惑が一致したため、出演に至ったとされている。実は本来は、脚本家三谷幸喜の脚本では、イチローの演じる役は、『ハチロー』だったが、イチロー本人が「自分を演じたい」と熱望したため、急遽『イチロー』となった。その演技に関しても撮影をするに当たり、台詞を完璧に覚え、NGはほとんど無かったと言われている。視聴率は27%で12年続いたシリーズの中では7番目に高いものとなった。
イチローがチームのオフィシャル雑誌Marinersに語ったところによると、2004年に最多安打の記録を達成したオフシーズンに初めて野球以外で何かしてもいい気になったという。2005年の春季キャンプを迎える直前の2月に神戸ホテルで初めて脚本に目を通し、本人の話では冗談まじりにみすぼらしい演技で関係者に引き取ってもらい、面白い話が来た程度で終わらせようと考えたそうであるが、いざゴーサインが出た時は番組のレベルを考えてかなり緊張したと語っている。シーズン終了後の10月に東京ドームの駐車場で撮影が開始。今までやったことのない世界で、その世界の一流の出演者と共演し、本当に自分が番組のレベルにあった演技ができるのかどうか考えてとにかく怖かったと語っている。また、後日インタビューで、守備に就いている時に台詞の練習をしていたことや、2005年シーズンの成績が他の年に比べて下がったことを引き合いに出して、「台詞の練習をしていたせい」だと冗談交じりに語っている。
イチローは以前にも「走れ!イチロー」(2001年・監督大森一樹)で本人役として映画出演を果たしているが台詞は無かったため、台詞をしゃべるのは本作が初めてだった。
[編集] 書籍
- イチロー・オン・イチロー―Interview Special Edition
- イチロー、聖地へ
- キャッチボール ICHIRO meets you
- イチロー思考―孤高を貫き、成功をつかむ77の工夫
- イチローイズム―僕が考えたこと、感じたこと、信じること
- イチロー262のメッセージ
- イチロー 勝利の方程式~常に進化し続ける男の考え方~
[編集] 外部リンク
2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 |
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1 岩村明憲 | 2 小笠原道大 | 3 松中信彦 | 5 和田一浩 | 6 多村仁 | 7 西岡剛 | 8 今江敏晃 | 9 金城龍彦 | 10 宮本慎也 | 11 清水直行 | 12 藤田宗一 | 15 久保田智之 | 17 福留孝介 | 18 松坂大輔 | 19 上原浩治 | 20 薮田安彦 | 21 和田毅 | 22 里崎智也 | 23 青木宣親 | 24 藤川球児 | 25 新井貴浩 | 27 谷繁元信 | 31 渡辺俊介 | 40 大塚晶則 | 41 小林宏之 | 47 杉内俊哉 | 51 イチロー | 52 川﨑宗則 | 59 相川亮二 | 61 石井弘寿/馬原孝浩 |
89 監督 王貞治 | 84 武田一浩 | 85 辻発彦 | 86 鹿取義隆 | 87 大島康徳 | 88 弘田澄男 | 項 | |
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