金本知憲
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金本 知憲(かねもと ともあき、1968年4月3日 - )は、日本のプロ野球選手。阪神タイガース所属。外野手。広島県広島市南区青崎出身。ファンやマスコミからはアニキ、平成の鉄人、西の番長などと呼ばれる。友人からの愛称はかねもっちゃん、かなもっちゃん、カネ。
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[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前
広島県広陵高等学校では外野手兼三塁手兼投手として2年からクリーンアップに座り、自身は高校通算20本塁打の活躍をするが、広陵高校の低迷期、特に投手力が弱い時代で甲子園出場は叶わなかった(野球部の厳しい縦関係を嫌い一年次で転校した西村龍次がいたら可能性があったかも知れないが)。金本の1学年上が桑田真澄・清原和博のKKコンビで、PL学園の黄金期の桑田・清原は、当時の高校球児にとっては、まさにリアルヒーローでありアイドルであったが、金本にとっても彼らは憧れの存在であった。広陵入学前の春休みに甲子園に清原を見に行った。現在は親友として知られ、オリックス入りした清原の新生活のサポートをしている。
東京の中央大学の野球部セレクション受験するが不合格(本当は法政大学進学希望していた、法大に進学した場合瀬戸輝信と同期)、浪人時代にヤクルトの入団テストを受けたが、またも不合格。失意の中、知人から当時はまったくの無名だった東北福祉大学を紹介され、野球推薦ではなく一般受験で合格。1年次からレギュラーを獲得し佐々木主浩(後に横浜大洋入団)、大塚光二(後に西武入団)、矢野輝弘(後に中日入団)、斎藤隆(佐々木と同じく後に横浜大洋入団)、浜名千広(後にダイエー入団)らと共に活躍。1988年第37回大学選手権では決勝で近畿大学に惜しくも逆転負けを喫するが、準優勝に貢献した。
以降、主力として4年連続で大学選手権に出場、翌1989年の第38回大会では連続優勝した近畿大学に再び3回戦で敗れ、第39回大会でも決勝戦まで勝ち残ったものの小池秀郎、高津臣吾、川尻哲郎ら好投手を擁する亜細亜大学に敗れてしまう。しかし、4年次の第40回大会(1991年)では3度目の決勝戦進出を果たし、関西大学を相手に延長17回熱戦を繰り広げ、ついに念願の初優勝。左手首のはく離骨折という大怪我を抱えながら勝ち越しの2点タイムリーを放った金本は、東北福祉大初優勝の立役者となった。
同年、第20回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、チームの勝利に貢献。この時、後にチームメイトとなる桧山進次郎と同部屋になり、「人に話せないようなことを色々した」(本人談)らしい。この時の縁がきっかけで、阪神入団後、雑誌で2人の対談が行われた。なお、この部屋で洗濯係をしていたのが後に中日に入団し、その後ソフトバンクに移籍した鳥越裕介であるが、鳥越は「金本さんにめちゃくちゃいじめられた」と後に語っている。
[編集] 広島時代
1991年のドラフトで斉藤肇の外れ4位で地元の広島東洋カープに入団。入団後の2年間は芽が出ず、年下の前田智徳、江藤智らに追い抜かれ当時の打撃コーチからも、ころがして足を活かせと言われる程、非力だった。外野の守備に関しても地面に向かって投げる悪癖があり『モグラ殺し』のあだ名を付けられた。本人曰く「クビを覚悟していた」(桑田のカーブのキレを目の当たりにして自信喪失したと言う)。それらの悔しさから筋トレを本格的に取り入れ、長い年月をかけて肉体改造を行う。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、1995年にベストナインを獲得し、レギュラーとして活躍。以降、1996年に初の3割をマークすると、1997年には2年連続3割、そして初の30本塁打を達成、1998年には不振に陥るが、1999年には初の全試合出場、そして4月24日にはサイクルヒットを達成するなど復活、主に5番打者として活躍していた。
さらに、それまで不動の4番打者だった江藤が巨人へ移籍した事により、4番に抜擢された2000年には、史上7人目のトリプルスリーを達成、2001年には39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立、同年の128四球は個人年間四球の歴代5位(これ以前は個人年間四球記録は王貞治が10位までを独占していた)と、主砲として大活躍、広島にとってなくてはならない存在となる。
[編集] FA権行使を巡る苦悩と決断
しかし2002年オフ、FA権の行使に最後まで悩んだ金本は、球団幹部に「今季は成績が悪かったので年俸は1000万円減で構いませんが、FAの再契約金を100万円でいいですから出して下さい。広島の後輩のために、FA残留という形を作っていきたい」と相談した。しかし広島球団の財政事情が厳しい事もあって、FA権行使による再契約金高騰の前例が作られる事を懸念し、FA権を行使した選手との再契約を認めない広島球団側の方針は最後まで変わらなかった(後に広島球団が初めてFA残留を認めたのは2006年オフの黒田博樹に対してである)。
当時の山本浩二監督らの強い慰留もあったが、広島球団側の相変わらずの受身な経営姿勢と改革意識の欠如、そして何より自身が球団一の高年俸選手ということで冷たくあしらわれたことに憤慨した事が、思い悩んでいた金本のFA権行使を大きく後押しし、最終的にその行使を決意したと言われる。
そして阪神の星野仙一監督(2002年当時)に「半ば脅されて」(本人談)阪神へ移籍する。なお、星野は後に「非公式に阪神よりも高い年俸でオファーをしていた球団は他にもあったのに、金本はよくウチに来てくれた」と語り、金本本人も「オレは大阪から東への球団には行かない」と中日、巨人等のオファーを断っていたと語る。金本が阪神を選択した大きな理由としては
- 本人がセ・リーグでのプレーを熱望していたこと。
- 1999年7月からずっとフルイニング出場を続けており、人工芝の球場では体にかかる負担が今まで以上に大きくなってしまうため、この記録を長く続けるためにできるだけ多くの試合で天然芝の上でプレーすることを希望していた。セ・リーグ球団の本拠地で天然芝を使用しているのは広島市民球場以外では阪神甲子園球場のみである。
- 星野監督や野崎球団社長のチーム改革に対する熱意に押され、チームが大きく変わろうとする気配を感じたこと。
- チームの一戦力ということだけで獲得するのではなく、心技体の面で他の選手に多大な影響を与えられる選手という点で高い評価をしてくれたこと。
以上のことが挙げられる。目先の金銭にとらわれず、長くこの世界で活躍することを優先した結果であるといえる。これは大局観に優れた金本らしい賢い選択であるといえる。
[編集] 阪神移籍後
阪神の球団改革の一端として移籍した金本は、同時に移籍した下柳剛と共に長年チーム内に蔓延していたぬるま湯体質の是正の旗振り手となった。2003年には開幕から3番打者として定着。2番打者・赤星憲広との絶妙のバランスを作り出し、赤星の盗塁王獲得に貢献すると共に、自身も頼れる主軸として活躍した。前年度より1番に定着していた今岡誠と並んで、彼らが打てば負けないという流れが出来上がり、そのまま一気に優勝へなだれ込んだ。つなぎの打撃に徹していたため、成績的にはそれほど良くはなかったものの、間違いなく優勝の立役者の1人として、ファンからも絶大なる信頼を得る。2003年の日本シリーズでは4本塁打(史上9人目、10度目)、3試合連続本塁打(史上4人目)、1試合2本塁打(史上21人目、26度目)と3つのシリーズタイ記録を達成したが、日本一にはあと一歩及ばなかった。
2004年岡田新監督の意向で開幕から4番として起用されると、とにかく球際に強く、球界一と言われるほどのスイングスピードという本来の特徴をフルに発揮、長打を量産するようになる。8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立すると、36歳にして打率、本塁打、打点の3部門で自己新記録(本塁打は1999年と同数)を達成、そして初タイトルとなる打点王を獲得する。
2005年は6月10日甲子園球場での北海道日本ハムファイターズ戦の1回裏に入来祐作から本塁打を放ち、「セ・パ全12球団から本塁打」という記録を達成した。これは史上4人目の記録だが、過去の3人はいずれもセ・パ各2球団以上を渡り歩いて記録している。
金本はこの年から導入された交流戦のおかげで、広島と阪神の2球団しか所属していないにもかかわらずこの記録を達成することができた。
そして、6月28日には米子市民球場で後輩の黒田博樹投手から本塁打を放ち、現役選手では最多の32球場でアーチをかけたこととなった(日本記録は山内一弘の39球場)。
さらに8月11日の中日ドラゴンズ戦では1000試合連続出場、8月25日(対広島戦)では1000得点、9月9日(対広島戦)では1000打点を達成すると、10月4日には40本塁打を達成。1986年のバース以来、日本人選手では1985年の掛布雅之以来の大台で、甲子園のラッキーゾーン撤廃後は初めての快挙であった。チームも優勝し、打率、本塁打、打点の3部門で前年をさらに上回る自己新記録を達成、MVPにも選ばれた。
また、2006年4月9日には大阪ドームでの対横浜ベイスターズ戦で、広島時代から続けてきた連続フルイニング出場において、カル・リプケンの記録を抜いて、"904試合連続フルイニング出場"の世界新記録を達成した。この記録は現在も継続中である(ちなみに連続イニング出場数では3月31日にリプケンの8243イニング連続出場を更新)。更に、同じカード・会場の同年8月15日の試合で1000試合に伸ばした。
年齢を重ねるごとに成長を続ける大選手だが、何より特筆すべきはその人間性、「ケガと言わなければケガじゃない」、「プロは立ち止まったら終わりだ、現状に満足するな」という名言からも読み取れる程のプロ意識の高さである。金本や下柳の影響で同期の矢野、年下の今岡、赤星らが多少の怪我では欠場しなくなったほどに全試合出場への意欲を燃やすようになり、その後入団した鳥谷敬も全試合出場を目標に掲げるなど、星野の球団改革を成功させる一端を担う存在になったと言っても過言ではない。
[編集] その他
- 所属していたリトルリーグのチーム、広島中央リトルに野村弘樹(元横浜ベイスターズ)と元お笑いタレントの山本圭壱がいた。山本の実家には当時の写真が保管されている。
- 「振り遅れているのに引っ張りの打球が打てる」というタイプの選手であり、フルスイングに至っては「命を切り売りしている」様なとまで言われる程のスイングスピードを誇る。肉体年齢は何と25歳前後(実際は38歳)。年中筋肉トレーニングに励み、体脂肪率は8~9%を維持している。鉄人と言われている彼だが、実際はシーズン中に骨折をしていることもあり、実際は満身創痍のまま試合に出ていることが多い。しかしプロ意識の高さからか、体調管理を怠らない。
- 他方で自らを「ストイックなタイプではない」と評し、好物の芋焼酎「森伊蔵」の酒量もさほど減らず、禁煙もすっかり諦めたという。しかしサプリメントや鍼灸、上記の猛トレーニングなどによる体調管理が肉体を支えている。
- 阪神を変えたと言われるプロ意識の高さ、ここぞと言う場面での一打の多さなどで「アニキ」の愛称で親しまれるが、実生活では4人兄弟の末っ子である。
- 公私を混同することを非常に嫌がるタイプであり、2001年の結婚時も夫人を写さないことなどを条件に取材制限をしたほどである(但し1度週刊誌に撮られて同誌に公開されたことがある)。
- 非常に明るく、茶目っ気のある性格で、多くのチームメイトにいたずらをすることでも有名。和田豊コーチによると、「調子の良さに比例していたずらも増える」とのこと。そのいたずらの矛先は、2006年までヘッドコーチであった平田勝男にまで向けられた事があったらしい。またインタビューでのジョークも度々行う。連続試合フルイニング出場の世界新記録の時でも「セレモニーを見て、『オレ引退するのか?』と思った」と発言している。
- 阪神移籍時に過去の阪神の背番号6番を付けていた藤田平、和田豊の背番号を引き継げてうれしいと話し、阪神ファンの心をつかんだ。また2003年の日本シリーズでのサヨナラホームランで一躍阪神ファンの人気が上昇した。成績が素晴らしいだけでなく、「阪神らしさ」を持った選手として、移籍選手でありながらオールドファンからの人気もある。
- 広島時代は新井貴浩、阪神移籍後は藤本敦士、中村豊、秀太などを子分にして、よくいたずらの標的にしている。彼らとのやり取りはファンの間でも名物化している。
- また、足が速く盗塁アシストもうまいため、ランナーがいる場面ではよく敬遠の対象となる。その後敬遠した投手が2003年は桧山進次郎、2005年は今岡誠などに手痛い一打を浴びることも多かった。これは次打者に対して全幅の信頼を示しているためで、シーズン決起集会で濱中、今岡に「今年はお前が打点王を取れ」「俺は四球や繋ぐバッティングしかしない」「打てなかった時だけ俺が決める」などと声を掛けたことにも表れている。
- 1999年オフより、鹿児島市の最福寺で護摩行をするのが恒例。火柱のすぐそばで不動真言を唱える。ちなみに同寺には新井貴浩も行っている。
- 守備に関しては大きな特徴はなくスローイング、守備率、守備範囲も左翼手としては悪くはないが、グラブ捌きが粗末なシーンが見られることもある。
- インターネットで一時「金本は後輩とご飯を食べに行く時は割り勘にするほどケチである」という噂が流れた。しかし金本は毎年、打ったホームランの本数に応じて自費で熱海の温泉旅館への家族旅行招待などのプレゼント企画を行っており、決してケチではない。ちなみにこの噂は普段金本に「かわいがられている」藤本敦士がいたずらのつもりで広めたものなので、信憑性はない。
- 以前の応援歌の替え歌として「食事は割り勘金本リボ払い それ行け偽善者金本ケチだ金本」とう歌詞がある(赤星憲広がテレビで披露したこともある)。
- 2006年11月15日に兵庫県から兵庫県スポーツ優秀選手特別賞を受賞している。
- ファイテンとアドバイザリー契約を結んでいる。
- これほどまでに出場に拘る姿勢は、カープ時代に試合前の練習中、当時ドラゴンズの監督であった星野とカープの監督であった達川の世間話をたまたま耳にしたことがきっかけになっている。と星野SDが著作で明らかにした。
[編集] 通算成績
(2006年シーズン終了時)
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最優秀選手(MVP) 1回2005年
- 打点王 1回2004年
- ベストナイン 6回1995年、2000年、2001年、2004年、2005年、2006年
- オールスター出場8回 1995年~1997年、2000年、2001年、2003年~2006年
- サイクルヒット達成 1回1999年4月24日
- トリプルスリー達成 1回2000年
- 日本シリーズ敢闘賞 1回2003年
- セパ交流戦優秀選手賞(日本生命賞) 1回2005年
- 連続フルイニング出場世界新記録(904試合)(2006年4月9日、対横浜戦)
- 連続試合フルイニング出場 1024試合 (1999年7月21日~継続中)(12月現在)
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 虎のリーサルウエポン 金本知憲公式サイト(ファイテンのイメージキャラクターの一人としても有名)
- トレーニングクラブ アスリート(金本がプロ入り以降、師事している平岡洋二が経営するジム)
- 広島時代の金本知憲の唄
- 阪神タイガース4番打者
- 第86代
-
- 先代:
- 片岡篤史
- 次代:
- -
阪神タイガース - 2007 |
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