八木沢荘六
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八木沢 荘六(やぎさわ そうろく、 1944年12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球監督。
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[編集] 来歴・人物
作新学院ではエースとして活躍。1962年春の選抜大会では八幡商(滋賀)戦で延長18回を熱投するも0対0で引分再試合、松山商(愛媛)戦でも延長16回を投げるなど球史に残る死闘を制し、優勝をもたらした。チームは同年夏の大会でも史上初の春夏連覇を達成するが、本人は赤痢のため出場できなかった。(本大会では同級生の加藤斌が出場したが、八木沢は栃木県大会には出場している。)中日ドラゴンズ、南海ホークス、阪神タイガースで活躍し、中日・阪神のコーチを歴任した島野育夫は1学年先輩にあたる。
早稲田大学では3度の東京六大学リーグ優勝に貢献、4年時には主将を務めた。1966年の第2次ドラフト1位で東京オリオンズに入団。1973年10月10日には太平洋戦第1試合(宮城球場)で完全試合を達成、同年に7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。1976年には自己最高の15勝を挙げた。1979年には近鉄のチャーリー・マニエルのあごに当てるデッドボールを与えてしまう(マニエル復帰時に特注のフットボール式の顎ガードがあるヘルメットを着用し話題に)。1979年に引退。
引退後はロッテ、西武のコーチを務めた後、1992年から1994年途中までロッテの監督を務めた(ロッテが川崎から千葉へフランチャイズが変更になったときの監督)。その後は横浜のコーチ、フジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、巨人、阪神、オリックスのコーチを務め、2006年から社会人野球の東京ガスのコーチとなる。
[編集] 通算成績
- 394試合 71勝 66敗 8セーブ 1200投球回 防御率3.32
[編集] 略歴
- 作新学院高校―早稲田大学―東京オリオンズ・ロッテオリオンズ(1967年~1980年)―西武ライオンズ(1981年―1991年)―千葉ロッテマリーンズ(1992年~1994年)―横浜ベイスターズ(1995年)―読売ジャイアンツ(1997年~1998年)―阪神タイガース(1999年~2001年)―オリックス・ブルーウェーブ(2004年)
[編集] タイトル・表彰
- 最高勝率1回(1973年)、完全試合1回(1973年10月10日)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | 平成4年 | 6位 | 130 | 54 | 74 | 2 | .422 | 26.5 | 89 | .241 | 3.82 | 47歳 | ロッテ |
1993年 | 平成5年 | 5位 | 130 | 51 | 77 | 2 | .398 | 23.5 | 95 | .251 | 4.08 | 48歳 | |
1994年 | 平成6年 | 5位 | 130 | 55 | 73 | 2 | .430 | 21 | 104 | .261 | 4.50 | 49歳 |
- ※1992年から1996年までは130試合制
- 監督通算成績 345試合 139勝202敗4分 勝率.408
[編集] 関連項目
- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1994年は7月31日まで指揮。
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