野茂英雄
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[[Image:||野茂 英雄]] |
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守備位置 | 投手(先発) |
所属球団 | シカゴ・ホワイトソックス |
背番号 | |
日本でのキャリア | 1990年-1994年 |
アメリカでのキャリア | 1995年- |
誕生日 | 1968年8月31日 |
身長 | 188 cm |
体重 | 108 kg |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
出身校 | 成城工業高校 |
年俸 | $ |
出身地 | 大坂府大阪市港区 |
前所属球団 | ニューヨーク・ヤンキース |
MLBデビュー年 | 1995年5月2日 |
ニックネーム | |
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野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は大阪府大阪市港区出身のプロ野球選手。右投右打、投手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
大阪府立成城工業高~新日鉄堺~1989年近鉄バファローズドラフト1位。渡米後-ロサンゼルス・ドジャース~ニューヨーク・メッツ~シカゴ・カブス~ミルウォーキー・ブルワーズ~デトロイト・タイガース~ボストン・レッドソックス~ロサンゼルス・ドジャース~タンパベイ・デビルレイズ~ニューヨーク・ヤンキース(マイナー契約)~シカゴ・ホワイトソックス(マイナー契約)
大きく振りかぶってから背中を打者に向ける「トルネード投法」と呼ばれる独特の投法から繰り出される、キレのあるストレートと2種類のフォークボールが特徴で、どの球もほぼ同じフォームで投げられることも武器である。
[編集] プロ入り以前
小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であり、名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格、甲子園とは縁の無い公立高校に進むことになった。成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)進出等の成績を残す。この時期すでに「トルネード投法」で投げていた。高校卒業時、数球団から指名の打診があったというが、球は速くても独特の投法がためらいのもとになったらしく、結局、どの球団も指名しなかった。(野茂を指名しなかったことを後年激しく後悔したスカウトもいる)
指名されなかった野茂は、ノンプロ・新日鉄堺への入社を選ぶ。新日鉄堺での1年目、野茂は「伝家の宝刀」フォークボールを習得、これがその後の野球人生を切り開いてゆくこととなる。2年目はエースとしてチームを都市対抗に導き、日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックでの銀メダルに貢献する。名実共にアマNo.1投手となった野茂はその進路が注目されたが、1989年のドラフト会議前、野茂はどの球団から指名されても入団することを明言する。
[編集] 日本プロ野球時代
1989年のドラフトで、史上最多の8球団(阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックス、近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。契約金は史上初の1億円台(1億2千万円)、年俸1千万円という破格のルーキーであった。なお野茂を指名した球団のはずれ1位は、阪神は葛西稔、ロッテは小宮山悟、ヤクルトは西村龍次、大洋は佐々木主浩、ダイエーは元木大介、日本ハムは酒井光次郎、オリックスは佐藤和弘である。野茂を指名しなかった4球団は、巨人が大森剛を指名、広島が佐々岡真司を指名、中日が与田剛を指名、西武が潮崎哲也を指名しており、のちのプロ野球界を支える一線級の投手野手が揃った大豊作の年であった。
初勝利はプロ4試合目の登板となる1990年4月29日の対オリックス戦(西宮)。この試合、完投で17奪三振の一試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けを飾るにふさわしい勝利を飾った。
1990年~1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。立花龍司トレーニングコーチとの「太く長く」を目指したトレーニングも功を奏した。翌1994年は右肩痛のため目立った活躍が出来なかったが、西武との開幕戦では8回までノーヒットノーランに抑える素晴らしい投球。味方打線も8回まで無得点だったが、9回表に石井浩郎が3ランホームランを放ち大記録達成を予感させた。しかし9回裏に先頭打者の清原和博にツーベースを打たれ史上初の開幕戦での大記録は途切れたが、後に大リーグでこの夢は現実のものとなる。
なお、清原のツーベースの後フォアボールとセカンドゴロエラーで1死満塁としてしまい、ここで鈴木啓示監督はピッチャーを野茂から赤堀元之に交代してしまう(結果、西武の伊東勤が野茂の後を継いだ赤堀から史上初の開幕戦サヨナラ満塁ホームランを放つ)。鈴木監督が開幕前日「エースの野茂と心中する」と言っていたにもかかわらず降板させたことに関して「なぜ降板させたのか」という世間の批判が噴出し、同時に鈴木の監督としての手腕・人間性が疑問視されることとなった。
[編集] メジャーリーグ時代
1994年に複数年契約と代理人制度を希望したが、拒否されたため近鉄を退団してわずか年俸980万円でメジャーリーグに挑戦する。なお、野茂の退団は自由契約ではなく任意引退扱いなので野茂が日本プロ野球界に帰った場合、近鉄は野茂に対して保有権を持つことになった(2005年以降は近鉄と合併したオリックスが保有権を所有しているが、本人はこの過程を嫌っている様子)。1995年にはメジャーリーグ挑戦に成功し、日本人メジャーリーガーの先鞭をつけ、パイオニアとしての功績をたたえられている。
大リーグではノーヒット・ノーランを達成するなど、強い印象を残した。これは日米双方に大きな衝撃となった。米国では「大リーグはダントツの世界一だ」という自惚れが強かったのだが、その鼻がへし折られるという衝撃があった。日本では「とうてい大リーグには敵わない」というコンプレックスがあったのだが、そのコンプレックス(ボブ・ホーナー以来のコンプレックス)がくつがえされるという衝撃があった。
野茂はドジャース入団1年目に大リーグの伝統「新人への洗礼」を受けている。これはチームメイトが新人歓迎の意味でちょっとした悪戯を仕掛けるものだが、野茂も夏場ロッカーにしまったスーツを毛皮の服にすりかえられたり(結局その格好で移動の飛行機に乗った)、シカゴにある南北戦争の英雄リー将軍の銅像の馬の急所に、先輩選手に誘われチームカラーの青のペンキを塗りに行き、後日警察に検挙されそうになったり(実はこれもチームメイトが仕組んだ大芝居なのだが)、少々手荒い、しかし温かい歓迎を受けた。野茂は後に「あれでチームの一員になったと実感した」と語っている。
2003年、日本の社会人野球チームが次々に廃部となっていることに心を痛め、野球を志す若者に対し少しでも受け皿になれればと、野茂の所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市で社会人野球のクラブチーム「NOMO ベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任。2004年に社会人野球の全国統括組織「日本野球連盟」に加盟し社会人日本一を目指す。またアメリカの独立リーグ・ノース・イーストリーグのエルマイラを元近鉄の佐野重樹らと運営している。メジャー生活の大半を過ごしたドジャースから勝ち星を挙げれば、「メジャー全30球団から勝利」の記録を達成することになる(メジャーリーグ史上2人目)。
[編集] 経歴
- 1988年 - ソウルオリンピックの野球日本代表として銀メダル獲得に貢献。
- 1989年 - 8球団競合の末、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。
- 1990年 - 最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率を獲得し、投手四冠となる。また新人王、沢村賞(パリーグの選手としては初)も同時に獲得。
- 1994年 - 鈴木啓示監督との確執からメジャーリーグ移籍を願望。フロントの制止を振り切り海を渡ることを決意。
- 1995年 - ロサンゼルス・ドジャースに入団し、オールスターに日本人として初出場すると同時に、日本人初のオールスター先発投手となった。同年、13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得。なお日米両国で新人王を受賞したのは現在も野茂ただ1人である。(2005年現在メジャーリーグに在籍中の日本人選手の中で、日本で新人王を獲得したのは野茂の他、長谷川滋利(シアトル・マリナーズ)と藪恵壹(オークランド・アスレチックス)の3人。イチロー(シアトル・マリナーズ)は日本で受賞しておらず、松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキース)は日米共に受賞を逃している。)
- 1996年 - 9月17日にコロラド州クアーズ・フィールドで行われた対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。雨、寒さ、優勝争い、高地であることによる打球飛距離2割増し、強力打線相手、開始2時間遅れという六重苦の中での快挙だった。
- 1998年 - 4月28日、日本人メジャー1号本塁打を記録。シーズン途中でニューヨーク・メッツにトレード。
- 1999年 - 開幕直前にメッツから解雇通告を受けて、開幕後にミルウォーキー・ブリュワーズにトレード。
- 2000年 - デトロイト・タイガースにトレード。日本人初の開幕投手になり勝利を収めるが、シーズン途中にアクシデントに見舞われ8勝12敗。
- 2001年 - ボストン・レッドソックスにトレード。4月4日の対オリオールズ戦で96年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。息を吹き返した。
- 2002年 - ロサンゼルス・ドジャースに復帰。
- 2004年 - 11月はじめ、フリーエージェントを申請。
- 2005年 - 1月、タンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日のブリュワーズ戦で7回2失点と好投し、日米通算200勝を達成するも7月16日に戦力外通告を受け、10日後に解雇。7月27日、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。3Aコロンバス・クリッパーズでメジャー昇格を目指し先発登板を重ねたが、このシーズン中の昇格はなかった。
- 2006年 - 3月3日、シカゴ・ホワイトソックスとのマイナー契約を結んだ。ヤンキース退団後は、日本での保有権を継承しているオリックスへの入団交渉も行われていたと報道された。3Aシャーロット・ナイツの開幕戦およびその後の数試合での先発予定をひじ痛を原因として回避し、4月17日に先発として初登板したが、右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録されている。6月8日、契約を解除される。
- 2006年 - ドミニカ共和国でのウインターリーグ参加を検討している。
[編集] 年度別成績
年度 | 所属 | 背番号 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | 近 鉄 | 11 | 29 | 18 | 8 | 0 | 235.0 | 113 | 287 | 87 | 76 | 2.91 | ||||
1991 | 近 鉄 | 11 | 31 | 17 | 11 | 1 | 242.1 | 133 | 287 | 92 | 82 | 3.05 | ||||
1992 | 近 鉄 | 11 | 30 | 18 | 8 | 0 | 216.2 | 118 | 228 | 73 | 64 | 2.66 | ||||
1993 | 近 鉄 | 11 | 32 | 17 | 12 | 0 | 243.1 | 155 | 276 | 106 | 100 | 3.70 | ||||
1994 | 近 鉄 | 11 | 17 | 8 | 7 | 0 | 114.0 | 88 | 126 | 55 | 46 | 3.63 | ||||
NPB通算 5年 | 139 | 78 | 46 | 1 | 1051.1 | 607 | 1204 | 413 | 368 | 3.15 | ||||||
1995 | LA | 16 | 28 | 13 | 6 | 0 | 191.1 | 83 | 236 | 63 | 54 | 2.54 | ||||
1996 | LA | 16 | 33 | 16 | 11 | 0 | 228.1 | 87 | 234 | 93 | 81 | 3.19 | ||||
1997 | LA | 16 | 33 | 14 | 12 | 0 | 207.1 | 101 | 233 | 104 | 98 | 4.25 | ||||
1998 | LA | 16 | 12 | 2 | 7 | 0 | 67.2 | 41 | 73 | 39 | 38 | 5.05 | ||||
NYM | 16 | 17 | 4 | 5 | 0 | 89.2 | 57 | 94 | 49 | 48 | 4.82 | |||||
1999 | MIL | 11 | 28 | 12 | 8 | 0 | 176.1 | 81 | 161 | 96 | 89 | 4.54 | ||||
2000 | DET | 23 | 32 | 8 | 12 | 0 | 190.0 | 92 | 181 | 102 | 100 | 4.74 | ||||
2001 | BOS | 11 | 33 | 13 | 10 | 0 | 198.0 | 99 | 220 | 105 | 99 | 4.50 | ||||
2002 | LA | 10 | 34 | 16 | 6 | 0 | 220.1 | 103 | 193 | 92 | 83 | 3.39 | ||||
2003 | LA | 10 | 33 | 16 | 13 | 0 | 218.1 | 99 | 177 | 82 | 75 | 3.09 | ||||
2004 | LA | 10 | 18 | 4 | 11 | 0 | 84.0 | 46 | 54 | 77 | 77 | 8.25 | ||||
2005 | TB | 11 | 19 | 5 | 8 | 0 | 100.2 | 53 | 59 | 82 | 81 | 7.24 | ||||
MLB通算 11年 | 320 | 123 | 109 | 0 | 1972.0 | 942 | 1915 | 984 | 923 | 4.21 | ||||||
日米通算 16年 | 459 | 201 | 155 | 1 | 3023.1 | 1549 | 3119 | 1397 | 1291 | 3.84 |
※ 2005年7月16日現在 太字はリーグ1位
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝利 (1990年~1993年)
- 最高勝率 (1990年)
- 最優秀防御率 (1990年)
- 最多奪三振 (1990年~1993年)
- 新人王 (1990年)
- ベストナイン (1990年)
- 沢村賞 (1990年)
- 最優秀選手 (1990年)
- 1試合17奪三振 (1990年4月29日)
[編集] エピソード
[編集] 野球に関して
- 脅威の奪三振率から「ドクターK」の異名を持つ。高校野球などで高い奪三振率を記録するピッチャーは「○○(地方名)のドクターK」と呼ばれる事もある。
- 高校2年生で達成した完全試合の投球内容は内野ゴロ13、内野フライ2、外野フライ2、三振10、104球。意外にも「打たせてとる」投球だった。
- 名門野球部に進んでいたら、今の野茂はなかったと言われる。(トルネード投法を止めさせられた可能性があるため)
- 「トルネード投法」は近鉄入団後にファンからの公募によりついたネーミングである。(詳しくはトルネード投法の項参照)
- プロ初奪三振は初登板・初先発の1990年4月10日対西武戦(藤井寺)。1回表、4番・清原から。この打席、1番・辻が四球、2番・平野のバント処理を誤り1・2塁、3番・秋山も四球で無死満塁の大ピンチだった。
- 1991年のオールスターゲームで、全パの秋山幸二が自打球により負傷退場し、他に野手が残っていなかったため、代打で出場したことがある。結果は見逃し三振だった。
- 1994年の西武戦で個人1試合16与四死球の日本新記録を樹立するも3失点完投勝利を挙げている。なおこの試合の投球数は189球で野茂のスタミナとエースとしての信頼を物語っている(普通なら途中で降板している)。しかし、開幕戦に降板させて批判を浴びた鈴木監督が代えるに代えられなかっただけという意見もある。
- 古巣近鉄がヤクルトと対戦した2001年の日本シリーズ第5戦の中継でゲストとして出演したが、たびたび配球を読み当てるなど的確な発言で「さすが野茂」と見る者をうならせた。また、実況に「野茂さんから見てローズ選手や中村紀洋選手の2001年版いてまえ打線の印象はどうですか?」と聞かれ、「僕がいたときはブライアントや石井さん、鈴木さん、金村さんがいましたけど、あの時と、まぁメンバーはもう全然変わってますけど、構成も似てますし、近鉄は変わってないですね」と笑ってコメントした。なお近鉄は前日までに1勝3敗でヤクルトに王手をかけられており、この試合も敗れて悲願の日本一はならなかった。
- 日米通算200勝を達成して名球会入りの権利を得たが、「今は返事をする必要がないと思う」として意思表明を保留した。
[編集] プライベート
- マスコミに対する態度やインタビュー、鈴木監督との確執、大リーグ移籍騒動というイメージから無口で無愛想に見られがちだが、実は明るくよく喋る性格である。その性格は、友人である木田優夫を通じて出演する明石家さんまの番組でも知ることができる。また、「さんまのまんま」出演時、野球教室にさんまがノーギャラで駆けつけることを約束したが、未だに果たせていないことを木田を通じて何度もさんまにアプローチしている。佐野重樹、吉井理人、赤堀元之、金村義明等近鉄時代のチームメイトとは今も交流が続いており、チャリティなど野茂が主催する会合には電話1本、ノーギャラで駆けつける間柄である。
- アマチュア時代には潮崎哲也とかなり仲がよかった。ソウル五輪に出場した際には、選手村でどこで何をするのも2人一緒だったので、チームメイトだった古田敦也などから「怪しい関係?」と噂されたこともあった。(無論冗談半分である)
- 石橋貴明との友情も有名で、野茂が作詞した「nothing around」はとんねるずのアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』に収録されている。またとんねるずがメインを務めた人気テレビ番組とんねるずのみなさんのおかげです内の人気コーナー「モジモジ君」にもゲストとして出演したことがある。(コーナー内の役名は「モジ茂」。コーナーの主旨どおり全身タイツ姿で登場している)
- 大食いでも有名。好物は寿司。新人時代、当時解説者だった佐々木恭介(佐々木氏は近鉄のOBで野茂の大先輩にあたる)に連れられて高級すし屋に行き、一人で寿司100カンを食べて佐々木氏を仰天させたことがある。また新人王を獲得した1990年、当時の仰木彬監督とすし屋に行った際には、トロとウニを際限なく注文したという話も残っている。
- 近鉄時代の同僚・金村義明が「野茂の趣味はファミコン」と言っていた。また競馬も趣味の一つであるため、ダービースタリオンが大好きで、徹夜で馬を育てて妻に怒られたこともある。なお彼に競馬を教えたのは吉井理人で、野茂はその見返りにフォークを教えたという。
- セガサターンのゲームソフト『プロ野球チームもつくろう!』の監修も手がけている。
- 日本野球時代に選手たちとハワイへ旅行に行くたび、体格が大きいので警備に止められる。「僕は投手です」と答えると、「では投げる真似をしてみろ」と言われ、トルネード投法を披露すると、「お前、嘘だろ!」と言われたことが何度かあるそうだ。
[編集] 社会現象
- 1995年にディアマンテスが野茂の応援歌『野茂英雄のテーマ HIDE~O』(『バナナ・ボート』の替え歌)をシングルCDで発売。当時、「野茂が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。2005年にマキシシングルで再発売された。
- 1998年、3社の高校英語教科書に登場。うち1社はトルネード投法を分解写真付きで紹介した。