田中俊幸
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田中 俊幸(たなか としゆき、 1940年9月6日 - )は、山口県出身のプロ野球選手・プロ野球審判員。
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[編集] 来歴・人物
下関市立下関商業高等学校卒業後、1959年南海ホークスに投手として入団。一軍での出場がないまま、1965年にセントラル・リーグの審判となる。1997年に審判部長に就任、2000年に通算3000試合出場を目前にして引退。その後審判部総務に勤務し後進の指導に当たっていたが、2003年に退職した。現在は少年野球教室の指導などで活躍中。
通算2935試合に出場し、オールスター4回、日本シリーズ5回出場。
セ・リーグ審判袖番号は18(1988年初採用から1999年引退まで、現在は空番)。
[編集] 不運だった晩年
田中は、歴代のセ・リーグ審判部長の中で唯一不祥事の責任を取らされて辞任した(そのほかは禅譲して引退)ことでわかるように晩年は不運だったが、その原因に丁度星野仙一が中日の監督として活躍し始めた事が関係している。
田中は星野が乱闘を指揮するというとんでもない事件を起こし退場したゲームの球審をつとめているが自著「プロ野球審判だからわかること」によると「乱闘にかかわったものは中日だけでわかっているだけで10人いる。これでは試合続行不能になる。だから連座責任でお前を退場とする。」と通告して星野だけ退場にしているが星野はこれを逆恨み(?)したらしく以降田中に喧嘩を吹っ掛ける様になった。
判定トラブルになると「お前巨人から金もらってるのか!?(=判定トラブルは巨人戦がらみがほとんど)」。ひどい場合になると、逆に田中自身が「この野郎!!」と詰め寄ったりするケースも出たほどで、審判部長として開幕前のルール説明をしても「何の無駄話をしているのか…」と虫けら扱い。そしてミスジャッジをすると「そろそろ詰め腹切ったほうがいいじゃないのか?!」と食いつかれる…という有様だった。ここまでなら普通なら「ばかじゃねぇのか?」で済む話。しかし星野はファンをひきつけるのがうまい監督の一人。ここに不運が生じた。
実際田中は星野にひきつけられたファンから度重なる嫌がらせを受け、1999年にミスジャッジをしたのをきっかけにやめろと半ば脅迫され、結果、不祥事の責任を取って辞任、審判引退という憂き目を見たのである。
田中は星野によって審判部長はおろか審判という職まで失ったわけだが、自著によると星野監督が自軍にいいような判定をしろといってるのではなく、球界全体のために物申していたということが総務に転じてからわかり、和睦したのだそうだ。しかし星野の田中に対するやり方は、他の審判に大きなしこりを作ってしまった事は事実で、辞任の翌年橘高淳を殴った事件で審判の労働組合から辞任要求を突きつけられるなど総スカンを食らいかけていたほどだ。
また1990年には、短期間に誤審を立て続けにしてしまい、また試合後にそれを認める発言をしてしまったため、50歳にして二軍降格の憂き目に逢っている。
1996年には、場内放送でヤクルトスワローズをヤクルトアトムズと間違えてしまい、罰金を言い渡されている。
[編集] 歴代セントラル・リーグ審判部長
- 初代:島秀之助(1949年発足~1980年キャンプイン直前)
- 2代:富澤宏哉(1980年キャンプイン~1990年キャンプイン直前)
- 3代:山本文男(1990年キャンプイン~1997年キャンプイン直前)
- 4代:田中俊幸(1997年キャンプイン~1999年シーズン終了)
- 5代:小林毅二(1999年シーズン終了~2003年シーズン終了)
- 6代:井野修(2003年シーズン終了~)※
(※2006年キャンプイン以降谷博が部長待遇となり2人体制となっている。)