藩
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藩(はん)は、歴史学において江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語である。江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来する。
藩と云う呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度で、明治時代に公称となり、一般に広く使用されるようになった。
[編集] 概要
藩の内側は将軍と江戸幕府の権威・権力の枠の内側で一定の自立した政治・経済・社会のまとまりを持ち、小さな国家のように機能した。今日の歴史用語では藩の領主である大名のことを「藩主」、大名の家臣のことを「藩士」と言う。やはり現代歴史用語ではあるが、藩に対して幕府の直轄領のことを「天領」と呼び、代官や郡代が年貢の徴収を行った。
しかし、江戸時代には、例えば仙台藩士と云う用語はほとんど使用されず、公的には伊達陸奥守家来と称された。また漢語的呼称でも、藩士より惣士という用語を好んで使用した大名家も多くあった。
また藩主と云う用語より、封地に侯をつけて呼び現されることが多かった。例えば仙台侯、尾張侯、姫路侯といった具合である。
藩は、守護大名が荘園を解体し、各農村に所領を持つ国人級の武士や、武士化した名主層(地侍)を被官化し、一円的領域支配を築いていったことに始まる。室町時代以前の武士の所領支配とは異なった新しい支配の形態である。戦国大名は領域の一円支配をさらに推し進める一方、家臣である配下の武士を城下町に集めて強い統制下に置く傾向が始まる。織田信長は取り立てた武士の所領を勢力・進展とともに次々に動かし、豊臣秀吉は徳川家康ら服属した戦国大名を彼らの地盤である領国から鉢植え式に新領土に移封させたので、安土桃山時代に武士と百姓間の職業的・身分的な分離が進み、関ヶ原の戦いと江戸時代初期の大大名の盛んな加増・移封によって完成された。
藩士である武士を城下町に集めて軍人・官吏とし、彼らの支配のもとで城下町周辺の一円支配領域にある村に石高を登録された百姓から年貢を現物徴収して、藩と藩主の財源や藩士の給与として分配する形態が藩の典型であるが、徳川氏によって新規に取り立てられた小藩の中には支配する領地が飛び地状に拡散していて一円的な支配が難しいものもあった。
「藩」の語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無く、「何某家中」のような呼称が行われていた。
1868年に明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領(天領)として府・県に編成した際に、大名領は天子たる天皇の「藩」であると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名をもって「何某藩」という名前が正式の行政区分名となった(府藩県三治制)。翌1869年までに版籍奉還が行われて藩主は知藩事に改められ、1871年の廃藩置県によりさらに藩が県に置き換えらた。これによって江戸時代以来の藩制は廃止され、藩領は整理された。
なお琉球は、その実質的な支配者である薩摩藩が廃藩置県によって県となったことを受け、翌1872年、独立王国から日本国に帰属する琉球藩へと改められた。以後1879年の琉球処分まで、琉球は廃藩置県後の日本国内において唯一藩制が行われていた地域である。
現在の県は廃藩置県時の諸県を統廃合して生まれたものだが、国主の格式を持っていた大藩の場合はかつての藩の領域と現在の県の領域がほぼ一致する場合がごく稀にある。