裏日本
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裏日本(うらにほん)とは、日本の国土において、本州の日本海側を指す呼称である。山陰地方、北近畿、北陸地方、旧出羽国(東北地方日本海側)に当たる。尚、北海道及び九州(福岡県、佐賀県)の日本海側は含まれない。
狭義では山陰地方と北陸地方が含まれており、広義では旧出羽国(東北地方日本海側)も含む。県名を挙げると、新潟県、富山県、石川県、福井県、鳥取県、島根県がこれに該当し、場合によって青森県、秋田県、山形県が含まれる。しかし、府県庁所在地や人口の分布が比較的日本海から遠いものの、日本海に面する地域を有する京都府北部と兵庫県北部と山口県北部も、裏日本に含まれることがある。
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[編集] 概要
「裏日本」という地方区分は、地理的、文化的な繋がりの元に形成された概念ではなく、歴史的、経済的な背景が似通った地方を一括してるだけに過ぎず、各地域間での文化的交流は薄いと言える。
日本語で「裏」というのは単に「表」と対比する意味であるものの、歴史的背景が絡みながら今日では侮蔑的な意味合いを少なからず持つ。また裏日本の対義語に表日本という語がある。これは、狭義では九州の旧筑前国と旧豊前国~山陽地方~畿内~中京地方~東海地方~南関東までの一帯に当たる太平洋ベルトを指す事があるが;広義では、これに加えて、関東地方のうち茨城県と栃木県と埼玉県東半分、旧陸奥国(東北地方太平洋側)を含めて指す。
なお、本項ではこれらの地方を、基本的に「裏日本」「表日本」の呼称を用いながら解説を行うが、侮蔑的な意味合いを持って使用しているわけではない。
[編集] 時代背景
この裏日本という語は、地理学者の矢津昌永が1895年に発表した「中学日本地誌」に最初に登場した。それまでこの地域は裏日本と呼ばれず「内日本」と、表日本は「外日本」と呼ばれていた。裏日本という言葉が使われ始めた当初は、首都である東京市を玄関口であるという意味で「表」とした場合、自然と日本海側が「裏」となる事から単に地理用語として用いられ、侮蔑的な意味合いは持っていなかった。
この語が一般に使われ始めた背景には、日本の近代化が挙げられる。明治時代に行われた殖産興業や鉄道・港湾などの投資が太平洋側に集中しており、日本海側にはあまり行われなかった。この背景には、戊辰戦争の影響により、明治政府の要人となった日本海側出身の政治家が少なかった事が関係する。又、江戸時代の開国以降、アメリカを初めとする様々な国との貿易が盛んになり、港の必要性が高まった事で整備の必要性が高まったが、日本海側の港では海底があまり深くないことから大型船が入港できないため、太平洋側に投資されたという側面もある。
20世紀に入ると、裏日本という語は、自然と表日本と対比した際の経済的格差を表す語として使われるようになっていた。そして、更にこの意味に拍車を乗けたのは、第二次世界大戦が終わった直後の戦後復興の過程、特に高度経済成長期に、太平洋ベルトへの重点投資が行なわれた事である。この政策は、人口や産業の重心を太平洋ベルトに持って行く政策であり、これによって太平洋ベルト以外の地方から、太平洋ベルトへの人口や産業の流入が起こり、裏日本と呼ばれる地方は一層衰えた。
1970年代になると、裏日本である新潟県から、田中角栄が有力な政治家として登場し、表日本ばかりを重視した政策を改めようと、「日本列島改造論」を発表した。これは、交通網を日本全国一様に敷設することで地域間格差が解消できるという考えであり、当時の国土開発計画に大きな影響を与えた。
[編集] 過去の裏日本
「裏日本」と呼ばれている地方でも、日本の近代化以前は「表日本」と呼ばれる地方と大して差はなかった。それどころか、むしろ「表日本」と呼ばれる地方以上に栄えていた時代があった。
裏日本の海岸沿いには、港に適した潟が多くあり、裏日本同士の海上交易のほか、日本海を挟んで向かい合わせの位置にある中国や朝鮮半島など、古代の先進文化圏との海上交易が盛んであったため、古代日本では、裏日本はむしろ日本の表玄関であった。
出雲国(島根県東部)は、古くから出雲大社を中心にした神道の拠点であったほか、良港を多く持ち大陸などとも交易し、大和国などに並ぶ古代日本有数の政治勢力でもあった。
丹後国の海岸(京丹後市など)では、日本海沿岸の各地や大陸各地との交易を物語る出土品が多数あるほか、日本でも有数の巨大な前方後円墳が幾つも存在し、畿内と大陸とを結ぶ富裕な政治勢力があったと見られている。
他にも北陸一帯には、越(こし)など無視できない大勢力が存在した。継体天皇は越前国で成長して壮年期まで在住した後、畿内に進出して即位しているが、これをそれまでの大王とは血縁関係のない、北陸を背景にした勢力による新王朝と見る説もある。
人口や経済力の面でも、裏日本は主要な地であった。江戸時代、北前船は蝦夷地から日本海側各地と瀬戸内海を経由して大坂や全国へとつながる物流の幹線であり、米や紅花、木材、織物などの各地の産品が北前船によって大量輸送され、全国に流通した。この時期、太平洋側は、海の荒さなどから日本海ほど物流路は大きくなっていない。
裏日本には、能代、秋田、酒田、富山、松江など、新田開発や豊富な水量による豊かな米作や、北前船による交易を背景に、文化や工芸が発達した都市が多く現れた。特に金沢は、江戸時代には江戸・大坂・京都の三都や、名古屋に次ぐ人口を誇る大都市であった。また、新潟県は明治21年の総務庁統計局の統計で日本一の人口を有する県であった[1][2]
1900年に初版が出版された鉄道唱歌北陸編で、新潟は「戸数万余の大都会」と歌われ、金沢も「さすが賑わう町のさま」と歌われている。その他の北陸の都市でも、長岡は「町は名だたる繁華の地」、富山は「越中繁華の地」、高岡は「商業繁華の高岡」と歌われた。
[編集] 近代以降の裏日本
[編集] 裏日本の交通
[編集] 鉄道
日本の近代化と工業化の動きにより鉄道が日本全国に敷設されたが、裏日本は表日本に比べて大きく遅れた。例えば、山陽本線と山陰本線を例にとって説明すると、表日本である山陽本線は1888年に最初の区間が開通し、下関までの全区間が1901年に開通した。一方裏日本の山陰本線は京都鉄道が1895年に免許を取得。これにより最初の区間が1897年に開通したものの、最終的に全線が開通したのは1933年であった。
このように、鉄道の敷設に大きく遅れをとっただけでなく、山陽本線は1942年に世界初の海底トンネルを開通させ、1944年までには全線の複線化が完了、1964年には全線の電化が完了した。一方で山陰本線は2006年現在も非電化単線区間が多く存在するといったように、その格差は依然変わることはない。又、島根県では、1913年に最初の区間が開通したものの、その時点で鉄道が存在しなかったのは、島根県のほかに高知県、熊本県の2県だけであった。
同様に東北本線と羽越本線を比較した場合、表日本の東北本線は、1891年に全線が開通した後、1968年に全線の複線化及び電化が完了している。一方、裏日本の羽越本線は、1924年に各県境区間が接続して全通し、1972年にようやく全線の電化が完了しているものの、2006年現在も多くに単線区間が残る。
鉄道に乗って、例えば大阪から青森に行くとした場合、表日本を回れば1891年には行けた一方、裏日本を回ると1924年にならないと行けなかった。
大阪から下関へ行くのは更に酷い状況で、表日本を通ると1901年には行けた一方、裏日本だと1933年まで行くことはできなかった。又、新幹線の敷設も表日本を中心に運行しており、現在建設中の北陸新幹線が北陸地方を貫く形となるほかは、上越新幹線の一部区間が裏日本に該当するのみで、旧出羽国には山形新幹線・秋田新幹線が運行されているがこれらはいわゆるミニ新幹線で在来線であるし最高時速は関西圏の新快速電車と同じ130km/hと遅い、山陰地方には全く運行していない。また、フル規格で建設中の北陸新幹線も区間によっては当初、ミニ新幹線やスーパー特急方式での建設計画となっていた。このミニ新幹線はイメージアップにつながりある程度の高速化は成し得るものの限界があり、たとえば表日本を経由して北海道新幹線で東京から新函館まで行くよりも東京から秋田まで行く方が時間が掛かってしまう。裏日本では、旧式の在来線電車や気動車が今でも運行している。
[編集] 海上交通
近代化以前の裏日本、とりわけ北陸地方や北近畿では、長い間海上交通が盛んであり、首都たる京都に近い北近畿の敦賀、小浜、舞鶴などは特に栄えた。又、水上交通は、太平洋側よりも日本海側の方が主流であった。特に北前船と呼ばれる船を利用して、貿易品の地域間での価格差によって利潤を獲得していた北前船貿易が、北陸地方や北近畿の商人たちによって盛んに行われていた。
日本の近代化が行われている最中である1880年には、日本全体で汽船製造が盛んになっていたが、裏日本では汽船の製造は殆ど行われておらず、伝統的な和船の製造が続いた。中でも、北前船の伝統を持つ石川県やその周辺で、日本全体の2割以上の和船を製造していた。しかし、1884年に大阪で大阪商船が設立され、翌1885年には東京で郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して日本郵船が設立された。これらの商船会社は、近代的な西洋汽船の運行が主であったため、和船から汽船への入れ替わりは益々顕著になって来た。その流れの中、1888年には500石以上の和船の製造が禁止される事となったが、裏日本では西洋船の製造が進まなかったため、多くが旧式の和船を使い続ける事となった。和船から汽船へと変遷するに伴い、造船業が石川県(日本海側)から大阪府(瀬戸内海側)に完全に変遷し、かつて日本海が中心だった船の航路も、次第に太平洋側が主流になって行った。
日本海側の航路の整備はなかなか進まず、政府の援助を得て、ようやく1892年に新潟と佐渡島とを結ぶ佐渡汽船が整備された。その後、日本郵船の汽船が小樽~神戸間を週1便のペースで定期運航を始めると、地域間価格を利用して個人で商売を行っていた北前船は衰えた。
時代が完全に汽船に変遷し、和船が終わりを迎えていた頃、親不知以西の北陸地方では、日本全体の和船の半分近い47隻がいまだに現役であった。汽船の本格的な造船所は、裏日本には親不知以東の北陸地方に1工場が作られたのみで、大部分が太平洋側と瀬戸内海側と東シナ海側、それに北海道に集中していた。
[編集] 高速道路
高速道路の整備も、表日本に対して遅れている。裏日本の高速道路は、既に全線が開通し全線4車線化が行われた北陸自動車道を除けば、日本海東北自動車道や山陰自動車道や舞鶴若狭自動車道には、未開通区間があるだけでなく、大半の区間が暫定2車線である。
一方、表日本の東北自動車道、東名高速道路、名神高速道路(厳密には内陸側)、山陽自動車道は、既に全線開通済みで4車線となっているだけでなく、東名高速道路と名神高速道路ではそれぞれ平行する2本目の高速道路、第二東名高速道路と第二名神高速道路の建設が行われている段階である。
しかし、自動車の歴史は新しく、高速道路が広く建設される頃には、表日本の大部分の土地では住宅開発がされており、用地の買収に費用が懸かったり、買収が難航する事が多々あった。山間部(やや裏日本寄り)の中国自動車道と山陽自動車道では、中国自動車道の方が全線の開通が早かったのが、この例である。
[編集] 空港
空港の整備も表日本と比較して、裏日本は遅れた。それだけでなく、絶対的な人口の差から、表日本の空港と比較して利用者数が少ないため、設備にあまり投資が行われていない。そのため、滑走路の長さがあまり長くなく、日本国内の便の他に中国や韓国、ロシアなどの比較的短距離の航空航路が中心で、機体も小型・中型機が中心である。
[編集] 裏日本の産業
- 1886年に都道府県別で行われた綿作の生産量調査では、富山県が10位、新潟県が14位、島根県が17位、鳥取県が18位であった。それから山陰地方ではますます綿作が発達し、1912年の農商務省による調査では島根県、鳥取県、茨城県の3県が最も盛んであったとされている。
- 山陰ではたたら製鉄も発達した。1884年では島根県のたたら製鉄工場の数が218工場であり、日本全体の10.3%を占めていた。
- 裏日本全域で米の生産が盛んであり、名産物ともなっている。品種としては特に、福井県で品種改良によって生まれたコシヒカリが有名。
[編集] 裏日本の教育
日本が国策として教育に力を入れ始めた明治時代に、旧制高等学校(ナンバースクール)という制度が始まった。設立順に番号が付けられた高等学校を指し、裏日本には金沢に旧制第四高等学校が設置された。新潟も旧制高等学校の誘致を積極的に行ったもの、1900年の旧制第六高等学校の誘致で岡山に敗れ、それ以後の旧制第七高等学校と旧制第八高等学校の誘致も失敗に終わった。結果、新潟にはナンバースクールは設置されず、都市名が校名となる旧制新潟高等学校が設置された。裏日本に設置された旧制高等学校としては、他に旧制山形高等学校、旧制松江高等学校、旧制富山高等学校(当初県立、後に官立に移管)がある。又、新潟において北陸帝国大学設置運動が起こったが、帝国大学の設置は裏日本には行われなかった。なお、大学令に基づく旧制大学として、金沢医科大学や新潟医科大学が設置され、戦後の学制改革の際に、各々金沢大学医学部や新潟大学医学部に改組されている。
1899年の北陸東半分(新潟県)の就学率は、日本全体で下から数えて沖縄、北海道に次ぎ3番目であった。
[編集] 裏日本の軍事・治安維持
- 最初に近代的な軍が置かれたのは仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本と、いずれも太平洋側と瀬戸内海側(九州は東シナ海側)であった。裏日本に最初に置かれたのは日清戦争後の1898年に第9師団が金沢に、またそれに続いて1908年に高田(現在の上越市南部)に第13師団置かれた。とはいえ、軍事工場も含めた軍事施設の大部分が表日本にあり、日本軍の中心は表日本であった。
- 1997年のナホトカ号重油流出事故の際、日本全体で11隻あった重油配属船のうち、裏日本には一隻も配属されていなかった。
[編集] 裏日本と外地の関わり
裏日本では、太平洋ベルトなどの表日本との繋がりだけでなく、北海道や朝鮮といった当時日本が領土として獲得したばかりの「外地」との関わりを抜きには語れない。
北陸地方からは主に北海道へ、山陰地方からは主に朝鮮へ、近代化や開拓に向けて移住した者が多かった。特に「新天地」と呼ばれた北海道へ移住した者は、農地の開拓や商業の設立で成功を収めた例が数多く、現在も札幌を拠点に営業を行っている今井百貨店を創設した新潟県出身の今井藤七はなどが、成功した例であるといえる。
[編集] 地域的特徴
関口武による日本の気候区分では、裏日本は日本の6種類の気候区のうち、日本海型に分類される。新潟県以北はそのうち1b型(東北・北海道型)、新潟県を含むそれ以外の地域は1c型(北陸・山陰型)に分類される。
日本海側気候は、冬の気候が特徴的である。暖流である対馬海流の影響を受けるため、気温は表日本と変わらず、北に移動するに従って表日本よりも暖かくなる。北西から吹き込む冬期モンスーンが対馬海流に由来する熱と水蒸気の供給を受け、恒常的な雲を発生させる。このため、裏日本全域に渡り、1月の降水量は100mmを超える。秋田県から鳥取県にかけては200mm以上となり、新潟県から福井県までは300mmよりも多い。同時期の太平洋ベルト地帯では50mm以下であり、乾燥した天候が続くこととは対照的である。雪の影響から、鉄道や自動車にとって不利であり、これが裏日本の発展を遅らせた原因の一つでもある。
又、近代的な工業が表日本に集中した事から、裏日本は表日本に対して農作物や人材、更には電力の供給をしている側面がある。電力は効率的な大量生産が可能であるが、放射性物質を用いる原子力発電は人口が密集していて地震の危険性が高いと言われる表日本では事故時の被害が大きくなるため、表日本向けに裏日本にいくつか設置されている。若狭湾沿岸の敦賀原子力発電所や美浜原子力発電所、中越地方の柏崎刈羽原子力発電所がこの例であり、長大な送電線を通じて表日本へ電力を供給している。これら原子力発電所が建設される事により、雇用を確保できる点や、大量の原発交付金を受けられる点などから、自治体によって積極的に誘致される例がある。
表日本と裏日本を繋ぐパイプの役割をしている物として、上越線や上越新幹線が挙げられる。高度経済成長期には、「金の卵」と呼ばれた団塊の世代が労働力として、上越線を通じて太平洋側へと大量に移動した。
更に今日では、表日本は、過密都市が存在する一方で、山間の村落や小都市との格差が大きくなっている。これに対して、裏日本は全体的に過疎地域が多く、村落部では後継者問題が深刻となっている。
[編集] 「裏日本」という語
「裏日本」という語は、使われ始めた頃から時間が経つに連れ、侮蔑的意味合いが次第に強くなって行った。これは、日本の近代化の傍ら、近代化政策から完全に取り残されただけではなく、太平洋ベルトへの傾斜政策、高度経済成長などの過程を経て、見る見るうちに表日本と裏日本とで経済的格差が広がって行った。そのため、裏日本に住む住民にとって、「裏日本」「表日本」という名称の分け方に不満を持つ者も少なくなかった。
日常的にテレビや新聞と言ったメディアでも使用されていた「裏日本」「表日本」という語であるが、経済格差がピークに達したと言われる1970年代初頭に、住民の苦情によって日本放送協会(NHK)が真先に使用を自粛し、「日本海側」「太平洋側」という呼称に改められた。又、新潟県選出の田中角栄が政権を握ると、民間放送局や新聞社なども使用を自粛するようになり、社会的に差別用語であるとの認識が次第にされて行った。
又、本州日本海側を通る山陰本線(綾部駅以西)、舞鶴線・小浜線、北陸本線、信越本線(直江津駅~新潟駅)、羽越本線、奥羽本線(秋田駅~青森駅)などは、一本の路線とみなす事もできる。これらの路線を、かつては「裏(日本)縦貫線」と呼んでいた時期があったが、現在は「日本海縦貫線」と名称が改められている。
他にも、「環日本海」といった呼称も使用されるようになった。
[編集] 参考文献
- 阿部恒久著『「裏日本」はいかにつくられたか』日本経済評論社 ISBN 4818809497
- 古厩忠夫著『裏日本 -近代日本を問いなおす-』岩波新書、1997年 ISBN 4004305225
- 内藤正中『島根県の百年』山川出版社、1982年
- 日本国有鉄道『日本国有鉄道史 通史』、1974年