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日本のダムの歴史 - Wikipedia

日本のダムの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本のダムの歴史では、日本におけるダムの歴史を時代ごとに詳述する(全体を通した年表については日本ダム史年表参照)。

日本におけるダムの歴史は616年に完成した狭山池ダムより始まる。以降時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な事情も変わっていく。

目次

[編集] 古代~近世

年代 出来事
616年 日本最初のダムである狭山池大阪府)が完成する。
664年 中大兄皇子(後の天智天皇)、筑紫野に御笠川を堰き止め水城を建設。軍事目的でのダム建設事例では初。
731年 行基播磨に昆陽池ダムを建設。多目的小堰堤としては日本初。
732年 狭山池、行基の総指揮による大改築が行われる。
821年 満濃池、弘法大師空海の指揮下で再建・改修される。
1582年 羽柴秀吉備中国高松城攻めで足守川を人工的に堰き止める(高松城水攻め)。
1585年 羽柴秀吉、根来・雑賀征伐-太田城攻めで紀の川を人工的に堰き止める(太田城水攻め)。
1590年 石田三成小田原征伐忍城攻めで荒川を人工的に堰き止めるが、大雨でダム決壊し失敗。
1600年代 豊臣秀頼、家老の片桐且元に命じて狭山池ダムを改修する。
1631年 讃岐高松藩主・生駒高俊、外祖父藤堂高虎の援助で満濃池の改修を行う。

[編集] ダム建設の黎明~狭山池・満濃池~

日本のダム事業史を語る上で、冒頭に挙げなければならないダムとして狭山池満濃池がある。

狭山池古事記日本書紀にも記載があるダムで、日本最古のダムと呼ばれているが完成年が判明したのはダムに使用されていた木製の樋管を年輪年代測定法によって調べたことによるもので、飛鳥時代616年完成であった(なお、樋管は大阪府立狭山池博物館に保存されている)。大化の改新で全国の農地が公地公民制で国有化され、狭山池ダムも大和朝廷の直轄施設となった。奈良時代732年、狭山池は大改修が行われるがその総指揮を執ったのは後に聖武天皇に招聘され東大寺大仏建立にも携わり、大僧正の位まで上り詰めた僧行基であった。日本各地を巡り布教した行基は各地で土木事業を行っていたが狭山池ダムの嵩上げ大改築にも携わった。狭山池は慶長年間にも摂津大坂城主・豊臣秀頼の命を受けた家老・片桐且元の手で改修された(慶長の大改修)。関ヶ原の戦いで天下人の後継者から1城主に転落した秀頼の数少ない内政でもあった。現在狭山池ダムは1980年(昭和55年)より21年を費やして従来の灌漑目的に加え洪水調節機能を兼備した補助多目的ダムとして再開発がなされた(平成の大改築)。現在は大阪府土木部ダム砂防課が管理している。

一方満濃池は大宝年間に建設されたという記録が残っているが、まもなく決壊したという。満濃池を語る上で欠かせないのが弘法大師・空海であるが、彼は讃岐国司の要請を受けて821年に大改修を行った。この大改修に従事した人間は推定32万人と記され、当時の讃岐国の人口が推定28万人であることを考えると、いかに多くの人員を動員した大事業であるかということがよくわかる。だがこの大改修で築かれた堰堤もしばらく後に再度決壊、以後再建されず放棄された。満濃池が再建されるのは実に江戸時代のことであり、1631年讃岐高松藩17万石の藩主・生駒高俊の時、高俊の外祖父である藤堂高虎の家臣・西嶋八兵衛が高虎の命で高松に赴き満濃池を再建、新田開発に寄与した。だが高俊は生駒騒動の咎で出羽に左遷、以後満濃池は徳川光圀の実兄・松平頼重に始まる高松松平家の高松藩によって直轄管理された。明治時代以後は満濃池土地改良区の管理に置かれ、数度の改修を経て1961年(昭和36年)の改修で現在の姿(堤高32.0m・アースダム)となった。毎年6月に行われる「ゆる抜き」(放水)は讃岐平野に夏の訪れを告げる一大風物詩でもある。

[編集] 軍事目的のダム建設

この時期のダム建設の特徴として、もう一つは軍事目的でのダム建設といった側面を持つ事象がいくつか挙げられる。古くは664年、朝鮮半島における白村江の戦い新羅連合軍に敗れた大和朝廷は、九州防衛のために春日城・大野城と共に御笠川を堰き止めて水城を現在の福岡県筑紫野市に建設した。連合軍が上陸した際に水城を決壊させ、洪水で打撃を与える作戦であったが貯水しなかったという説もある。

こうした水攻めを最も得意としたのが豊臣秀吉である。知略に優れた秀吉は土木技術にも秀で、備中高松城攻防戦(1582年)では高さ7.0m、下部幅20.0m、堤長2,800mの巨大な堰堤を19日間で建設し足守川を堰き止めた。また、紀伊太田城攻防戦(1585年)では堤高5.0m、堤長6,000mの堰堤を僅か6日間で建設し紀の川を堰き止めている。城攻めは秀吉の得意戦術であったが、大規模な堰堤を建設して城攻めを行ったのは土木に精通する秀吉ならではである。1590年小田原征伐においては石田三成成田氏長夫人ら3,000の兵が篭る武蔵忍城攻防戦において荒川を堰き止めて水攻めを行っている。だがこの水攻めで忍城を水没させることはできず、逆に大雨で堰堤が決壊し豊臣軍に多くの死者を出した。結局忍城は小田原開城(1590年7月6日)の後、城主氏長(小田原に籠城し降伏)の説得によって7月16日開城となる。三成は自らの武名を著しく落とし後の関ヶ原にも暗い影を残した。現在でも遺構の一部が「石田堤」として残っている。

このように古代におけるダム建設は、一部を除けば全てが灌漑を目的としており、技術的に未発達だったこともあり型式も全てアースダムであった。コンクリートダムの登場は明治時代を待たねばならなかった。

[編集] 近代(1868年~1945年)

年代 出来事
1868年 入鹿池愛知県)、豪雨により決壊(入鹿切れ)。日本ダム史上初の決壊事故で937人死亡。
1891年 日本最初の水道専用ダム、本河内高部ダムが長崎市に完成する。
1900年 日本最初の重力式コンクリートダム布引五本松ダム生田川)が神戸市に完成する。
1911年 「電気事業法」施行。これ以降全国の河川で水力発電事業が着手される。
1918年 日本最初の民間企業所有ダム、千歳第三ダム(千歳川)が王子製紙株式会社の手により完成する。
1919年 関東水力電気(東京電力の前身)、尾瀬沼に水力発電用のダムを建設する尾瀬原ダム計画を立案する。
1923年 日本最初のバットレスダム笹流ダム(笹流川)が函館市に完成する。
1924年 大井ダム木曽川)が完成。初めて堤高が50mを超え、大ダム時代の幕開けとなる。
1930年 日本唯一の5連マルチプルアーチダム、豊稔池ダム香川県観音寺市)が完成する。
小牧ダム(庄川)が完成。日本初の大規模機械化施工技術による建設が行われる。
1933年 沖浦ダム(浅瀬石川)、多目的ダムとして日本で初めて施工が開始される。
1935年 内務省、物部長穂の提言を受け全国7河川1湖沼において「河水統制事業」に着手。河川総合開発事業のはしりとなる。
1937年 三滝ダム鳥取県智頭町)が完成。以後、日本においてバットレスダムは建設されなくなる。
1938年 戦前では堤高が日本一の塚原ダム(耳川)が完成する。
国家による電力統制策により日本発送電株式会社が発足。発電用ダムが全て国家管理される。
1940年 向道ダム錦川)、多目的ダムとして日本で初めて完成、供用される。
1941年 田瀬ダム(猿ヶ石川)が内務省により着工。直轄ダム第1号となる。
1943年 雨竜第一ダム(雨竜川)が完成。日本最大の湛水面積を誇る朱鞠内湖が誕生する。
1944年 「決戦非常措置要領」発令により、ほぼ全てのダム事業が強制的に中断される。

[編集] 近代水道整備とダム

近代におけるダム建設の歴史は、1854年日米和親条約締結・1858年日米修好通商条約締結による開国に始まる。日米和親条約により下田・箱館(函館)が、日米修好通商条約により神奈川(横浜)・函館・長崎・新潟・兵庫(神戸)が開港し、以後開港した都市は急速に人口が増加した。このため飲料水の供給は重要な課題となったが、当時は河川から直接取水していたこともありコレラ赤痢等の水系感染症が多発。多くの死者を出した。これを防ぐべく近代上水道事業が横浜市を皮切りに次第に普及していった。この中で全国第3番目の水道事業を開始した長崎市1891年(明治14年)に本河内高部ダムが完成した。それまで灌漑用しか建設されなかったダムであったが、この時日本で初めて上水道専用のダムとして完成したのである。さらに1900年(明治23年)には神戸市生田川に布引五本松ダムを完成させた。同じく水道用であるこのダムは、日本で初めて建設されたコンクリートダムであった。ちなみにこの両ダムは現在でも現役で稼動しているが、本河内高部ダムは1982年(昭和57年)の長崎豪雨、布引五本松ダムは1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災という激甚災害を経験しながらも多少の損傷は受けながらも致命的な損壊を受けなかったという逸話を残している。

[編集] 電力開発とダム技術の発展

大正時代に入ると、本格的なコンクリートダム建設の時代に入る。この頃は殖産興業政策が実を結ぶと同時に日清戦争日露戦争等に伴い重化学工業が発達、それに伴い大量の電力消費が必要となり各河川で水力発電開発が行われた。

嚆矢となったのは王子製紙株式会社が苫小牧の製紙工場に電力を供給するために建設された千歳川の水力発電所群である。1891年の千歳第1ダム(小堰堤)を皮切りに千歳川に4基のダム・小堰堤を建設した。この中で1918年(大正8年)に完成した千歳第3ダムは北海道初のコンクリートダムでもあった。その後電力供給を生業とする企業が続々誕生するが、特に福澤諭吉の養子で大同電力を率い「電力王」と渾名された福澤桃介東邦電力を率い「電力の鬼」と渾名され戦後も電力行政に深く関わった松永安左エ門らは大規模な水力発電開発で名を上げた。彼らを始め全国で勃興した電力会社は、急流かつ水量の豊富な河川に目をつけ電源開発を積極的に実施した。特に開発されたのが木曽川天竜川信濃川であり、1924年(大正13年)に完成した大井ダム(木曽川)は日本初の50m級ダムとして当時は「世界のビッグ・プロジェクト」として広く喧伝された。その後ダム建設はさらに巨大化・高度化し浅野総一郎による庄川電源開発の一環として1930年(昭和5年)に建設された小牧ダムは日本初の大規模な機械化工程で建設され、1938年(昭和13年)には戦前では最も堤高が高い塚原ダム(耳川)が建設されたが、これらはいずれも発電専用のダムであった。この他国鉄は首都圏の鉄道網に電力を供給するべく信濃川に宮中ダムを始め小千谷等に水力発電所を建設、最大出力では屈指の発電量を誇った。

この時代のダム建設の特徴としてバットレスダムが集中的に建設されていることも挙げられる。全国で2番目に水道事業を立ち上げた函館市が、上水道供給のための水源として笹流川に1923年(大正12年)に建設した笹流ダムを嚆矢として、丸沼ダム(片品川)等8ヶ所でバットレスダムが建設された。コンクリートは当時極めて高価であったため、できる限り節約して建設費を抑えたいとするのが事業者の本音であった。このためコンクリート量を節減できるバットレスダムは経済的な工法としてもてはやされたが、間もなくダムを構成する扶壁の型枠を作るための人件費が高騰。さらに地震に弱いという欠点が明らかになり、地震多発国・日本では堤高の高いバットレスダムの建設が困難という現実が判明した。このため大ダム志向となりつつあった事業者から敬遠され。1937年(昭和12年)鳥取県に建設された三滝ダム(北股川)を最後として以後全く建設されなくなった。笹流ダムから僅か14年間しか建設されなかったバットレスダム、6基が現存しており丸沼ダムは国の重要文化財に指定された。ちなみに1916年に建設された千歳第一ダム(小堰堤)は重力式バットレスダムという極めて特異な型式である。

この他香川県に1930年建設された豊稔池ダムは日本唯一の5連続のマルチプルアーチダムである。この時期はバラエティに富んだ型式のダムが建設された時代でもあった。

[編集] 日本発送電と戦時体制

昭和に入ると次第に戦争の影響がダム建設にも及び始めた。特に電力業界にその影響は及び、軍需産業振興のため国家による電力一元管理を目論む政府は1939年(昭和14年)に日本発送電株式会社を発足させた。発電・送電・配電(配電事業は後に「配電統制令」により各配電会社へ分離)を一元化し効率的な電力需給態勢を整えるという名目で全国の電力会社を強制的に解散・統合させ半官半民という形で立ち上げたが、実質的には電力国有化と大差なく各電力会社が保有していた発電用ダムも国家管理となった。戦時中、日本発送電による建設事業が進められた雨竜第一ダム(雨竜川)や平岡ダム(天竜川)等では、捕虜となった連合国軍兵士等を強制労働に従事させるなど、戦時下における負の部分が垣間見られた。

また、河水統制事業も軍部の影響が浸透し、軍需産業発展のために事業を行う色彩が強くなった。特に横須賀海軍工廠への水道・電力供給が期待された相模ダム相模川)では反対する住民に対し陸軍閲兵式を敢行して圧力を掛け、銅山川分水では一旦中止した発電事業を軍需省が強制的に参入。さらに呉海軍工廠への水道・電力供給を目的とした二級ダム(黒瀬川)建設等、本来の目的であった国土開発から脱線した、軍需目的での河水統制事業が進められた。1941年(昭和16年)太平洋戦争が勃発し次第に戦況が悪化するとダム建設も資金難・資材難等から相次いで建設を中断する事業が出始めた。

1944年(昭和19年)8月、敗色が濃厚となった日本は本土決戦に備えて全ての資源・資産を戦争遂行のために消費することを決定。これに伴い「決戦非常措置要領」を発令した。これにより沖浦ダムや三浦ダムを除くほとんど全てのダム事業が、戦時体制維持のために強制的に中止を余儀なくされた。さらに資材拠出のために森林の乱伐が全国で繰り広げられ、これが後の戦後打ち続く大水害の要因となった。このような施策を行うも「要領」発令の1年後である1945年(昭和20年)8月、日本は戦争に敗れ、後に残されたのは戦火と乱伐により荒廃した国土だけとなった。

[編集] 戦後(1945年~1954年)

年代 出来事
1945年 農林省が組織改組に伴い、設置される。
1947年 北上川総合開発事業が着手。石淵ダム(胆沢川)を皮切りに北上川五大ダムの建設が始まる。
農林省による国営土地改良事業が九頭竜川加古川大井川野洲川で開始される。
1948年 建設省(発足当時は建設院)が発足する。
1949年 「河川改訂改修計画」発表。主要10水系で多目的ダムによる洪水調節対策を編入。
北海道開発庁と現地執行機関である北海道開発局が発足。石狩川水系の総合開発計画がスタートする。
1950年 「国土総合開発法」施行。全国で河川総合開発事業が計画され、ダム建設・計画が活発化する。
1951年 「特定地域総合開発計画」事業施行。北上地域・只見地域等22地域が指定を受け、重点的な地域総合開発が行われる。
日本発送電株式会社が全国9地域の電力会社に分割・民営化。所有の発電用ダムも各電力会社に分配される。
1952年 日本最初のロックフィルダムである小渕ダム(久々利川)が完成する。
「電源開発促進法」施行。国営企業である電源開発株式会社が発足する。
1953年 日本最初のアーチ式コンクリートダムである三成ダム斐伊川)が完成する。
筑後川大水害が発生し、建設中の夜明ダム(筑後川)が洪水により決壊する。
1954年 日本最初のコンバインダムである石羽根ダム(和賀川)が完成する。

[編集] 多目的ダムの誕生

太平洋戦争で敗れた日本。敗戦の混乱に追い討ちを掛けたのは連年日本列島を襲った台風・水害であった。枕崎台風原爆投下直後の広島に塗炭の苦しみを味わわせた。カスリーン台風利根川を氾濫させて関東平野を湖にし、アイオン台風北上川流域を壊滅に追い込んだ。ジェーン台風は西日本の河川を軒並み氾濫させ、キジア台風は歴史的建造物の錦帯橋を一瞬の内に木屑と化した。1953年(昭和28年)の梅雨前線豪雨は筑後川に過去最悪の洪水を起こさせ、さらに紀州大水害南紀豪雨)は日高川日置川有田川古座川を暴れさせ和歌山県下を阿鼻叫喚(あびきょうかん)の坩堝(るつぼ)に陥れた。こうした水害は戦前・戦中の森林乱伐に加え、河川整備が不十分であった故の必然とも言えた。

これを契機に水害を防ぐための施策として「河川総合開発」という概念が現れた。原点は1935年(昭和10年)に物部長穂が提言した「河水統制事業」案である。一水系を系統的に開発し、治水・利水(上水道・灌漑・発電)を総合的に実施するという案でアメリカのTVAを参考にしたものである。この案は内務省官僚の青山壮によって採用され、国策として推進する事とし全国7河川1湖沼(奥入瀬川・浅瀬石川・玉川鬼怒川江戸川相模川錦川小丸川及び諏訪湖)を対象に総合的な河川開発が計画された。

この中で従来は灌漑、上水道または水力発電単独の目的しか持たなかったダムに複数の機能を持たせ、河川開発の要とする発想が生まれた。これが多目的ダムであり1933年(昭和8年)に沖浦ダム(浅瀬石川)が本邦初の多目的ダムとして施工開始され、1940年(昭和15年)に向道ダム錦川)が多目的ダムとして初めて完成、供用されている。戦後1947年(昭和22年)には相模ダム(相模川)が完成し、一時中止となっていたダム事業が続々と建設を再開していった。

[編集] 国土復興への道程~河川総合開発事業・国営土地改良事業~

1948年(昭和23年)建設省が発足、旧内務省の河川行政を継承した。建設省は河川総合開発を国土復興の要として強力に推進したが、その最初の事業として着手したのが内務省時代から進められていた「北上川上流改修事業」の根幹・「北上川総合開発」(KVA)である。これは北上川水系の主要河川(北上川・雫石川・猿ヶ石川・和賀川・胆沢川)に5箇所の大ダム(石淵ダム田瀬ダム湯田ダム四十四田ダム御所ダム)を建設し治水・利水を図ろうとするもので「北上川5大ダム計画」とも呼ばれた。北上川に続き全国各地の大河川も続々河水統制事業の対象となり、これを発展させるべく1949年(昭和24年)、経済安定本部の意を受けた「治水調査会」は全国主要10水系(北上川水系、江合川・鳴瀬川水系、最上川水系、利根川水系、信濃川水系、常願寺川水系、木曽川水系、淀川水系、吉野川水系、筑後川水系)において従来の河水統制事業をさらに発展させた「河川改訂改修計画」を答申。このうち北上川・江合川、利根川、木曽川、淀川、吉野川、筑後川の6水系において多目的ダムによる洪水調節を主眼に置いた河川改修を提言した。

建設省は治水調査会の答申を受け1952年(昭和27年)、カスリン台風で甚大な被害を受けた利根川の治水を図るべく「利根川改訂改修計画」を発表。利根川とその支流に10か所のダムを建設する計画を立てた。これに伴い計画・建設されたのが矢木沢ダム藤原ダム沼田ダム(利根川)・相俣ダム(赤谷川)・薗原ダム(片品川)・八ッ場ダム吾妻川)・湯殿山ダム(烏川。中止)・下久保ダム神流川。当初は坂原ダム・五十里ダム(男鹿川)・川俣ダム鬼怒川)であり、後の利根川水系8ダムの原点となり更に発展して利根川水系の総合的な水資源開発へと昇華する。この他建設省は「北上川上流改訂改修計画」・「木曽川改訂改修計画」・「淀川水系改修基本計画」・「吉野川総合開発計画」・「筑後川治水基本計画」を計画し、ダムを中心とした治水対策に着手した。

一方北海道においては、遅れていた農地開発と河川整備を充実させ、北海道経済の活性化を早急に図るために新たに省庁を設けて独自の対策を図ろうとした。1949年政府は増田甲子七を初代長官として北海道開発庁を設置。現地執行機関として北海道開発局を発足させた。設置当時は政治的思惑があったがその後は数次に亘る「北海道総合開発計画」に基づき、建設省の地方建設局と農林省の地方農政局と同等の位置づけを与えて河川事業を担当させた。これ以後桂沢ダム(幾春別川)を皮切りに北海道最大の大河・石狩川水系や天塩川水系の総合開発に乗り出している。ただしこれら多目的ダムの管理は北海道開発庁が担当せず、建設省が管掌している。

その農林省であるが、深刻な食糧不足を解消し、さらに安定した水源を確保して「水争い」を撲滅するために1947年より「国営土地改良事業」・「国営農業水利事業」を加古川九頭竜川野洲川大井川で実施した。灌漑用の農林省直轄ダム(現在は農林水産省直轄ダム)を建設し農業用水を安定的に供給、耕地面積を拡大し食糧増産を図ることを最大の目標とした。これに基づき当時建設されたダムとして野洲川ダム(野洲川)・山王海ダム(滝名川)・豊沢ダム(豊沢川)等がある。こうした建設省・農林省の施策により、次第に荒廃していた国土は回復に向かい始める。

1950年(昭和25年)、国土総合開発法の施行に伴い全国の特定された地域に対して治山・治水・利水を包括した「特定地域総合開発計画」が策定されることになった。これは同法第10条に基づくものであり『国土を総合的に利用し、開発し、及び促進し、並びに産業立地の適正化を図る』(第1条)という法の目的を達成するために地域総合開発を発展・高度化させたものである。全国各地から51地域にも及ぶ申請が相次いだが、最終的には19地域が対象となった。指定された地域は北から十和田岩木川、北上、阿仁田沢、最上、只見、利根、能登、木曽、吉野熊野、大山、出雲、錦川、四国西南、北九州、対馬、阿蘇、南九州等があり大都市圏や工業地帯、未開発地域の発展に寄与するための総合開発が立て続けに実施された。この中で河川開発は直轄・補助事業の別なく組み込まれ、系統的な開発が実施されていった。

なお、この時期は「見返り資金」がGHQによって放出され、河川開発の国庫補助が充実したこともあって各地方自治体は積極的に中小河川を含む河川総合開発を推進するようになり、多目的ダムが全国各地に建設・計画されるようになった。この頃から、国庫補助を受けて建設される多目的ダムを「補助多目的ダム」と呼ぶようになる。ここにおいて「河水統制事業」は「河川総合開発事業」として発展的改組を遂げる。

[編集] 電力再編成と水力発電

一方、日本発送電株式会社に強制的に統合された電力業界であるが、日本発送電がGHQによって過度経済力集中排除法の指定企業とされたことにより再び勃興の兆しを見せ始めた。1950年、日本発送電株式会社が分割・民営化されたことに伴い全国に9つの電力会社(北海道電力東北電力東京電力北陸電力中部電力関西電力中国電力四国電力九州電力)が誕生した。これに伴い日本発送電が保有していた発電用ダムと水力発電所は、それぞれの電力会社に母体となった電力会社が保有していた発電用水利権と共に移譲された。なお、地域によっては配電区域にある電力会社とは異なる電力会社が発電施設を保有している例がある(特に中部地方北陸地方)が、これはその河川を最も早く開発した電力会社を母体に持つ会社に保有が認められたことによる。これは「一河川一社主義」と呼ばれる。

これ以降発電・送電・配電は各電力会社によって一括して運用された。だが、発足直後のため企業基盤が脆弱であったため、これを補完する意味で国営発電事業も継続して実施することとなった。1952年、「電源開発促進法」が施行され国営企業である電源開発株式会社が誕生、只見川天竜川熊野川等で大規模水力発電施設の建設を行い主に京阪神への電力供給を図ろうとした。各電力会社は国家復興の原動力である電源開発を競って行い、これがやがて昭和30年代以降の大ダム時代へと発展していくのである。

なお、この時期は日本初の型式のダムが誕生した時期でもある。1952年に木曽川水系久々利川に日本初のロックフィルダムである小渕ダムが、翌1953年には斐伊川に日本初のアーチ式コンクリートダムである三成ダムが、そして1954年(昭和29年)には北上川水系和賀川に日本初のコンバインダム(複合ダム)である石羽根ダムが完成している。

[編集] 高度経済成長期(1955年~1972年)

年代 出来事
1955年 丸山ダム(木曽川)や上椎葉ダム(耳川)が完成し、堤高100m級のダム建設が本格化する。
1956年 当時世界第10位の堤高を誇る、佐久間ダム天竜川)が完成する。記念切手も発売される。
通産省、第4次発電水力調査を実施。電源開発事業が河川総合開発事業と一体化して行われるようになる。
1957年 特定多目的ダム法」施行。
日本最初の中空重力式コンクリートダムである井川ダム大井川)が完成する。
世界最大の水道用ダムである小河内ダム多摩川)が完成する。記念切手も発売される。
1958年 松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)建設開始に反対する室原知幸氏ら住民、「蜂の巣城紛争」を起こす(~1972年)。
1960年 奥只見ダム只見川)が完成。重力式コンクリートダムとしては日本一の規模を誇る。
1961年 御母衣ダム(庄川)が完成。日本造園史に残る「荘川桜」の移植工事に成功する。
北海道開発局が計画していた「赤岩ダム計画」(鵡川)、占冠村住民の反対により白紙撤回。大規模多目的ダム事業の白紙撤回例としては初。
1962年 「水資源開発促進法」・「水資源開発公団法」施行に伴い水資源開発公団発足。利根川水系・淀川水系が水資源開発水系に指定される。
「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」が閣議決定、用地取得に関する補償制度の整備が始まる。
1963年 日本最高の堤高(186m)を誇る黒部ダム黒部川)が完成する。
1964年 新「河川法」施行。一級水系二級水系の河川管理体系が整備され、ダムの定義も堤高15m以上と定められる。
筑後川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。
東京都大渇水(東京砂漠)で政府、利根川からの緊急取水を行う。これ以後利根川水系8ダムの建設・計画が本格化する。
品木ダム(湯川)を中心とした「吾妻川水質中和事業」が稼動し吾妻川の水質が改善される。
1965年 木曽川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。
1966年 吉野川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。
1967年 八ッ場ダム(吾妻川)・川辺川ダム(川辺川)の実施計画調査が開始される。
「公共用地の取得に伴う公共補償基準要綱」が閣議決定。道路等公共施設に関する補償制度が整備される。
1968年 日本最初のアスファルトフェイシングフィルダムである大津岐ダム(大津岐川)が完成する。
映画「黒部の太陽」が封切られる。出演者の合意事項で公開終了後封印される。
飛騨川バス転落事故。中部電力、救助活動援護のため上麻生ダム飛騨川)の洪水放流を断続的に停止する。
1971年 内の倉ダム(内の倉川)完成。以後、日本においては中空重力式コンクリートダムは造られなくなる。
宮ヶ瀬ダム中津川)・徳山ダム揖斐川)の実施計画調査が開始される。
1972年 「補助治水ダム」事業開始。洪水調節のみを目的とする都道府県営ダム事業に対し国庫補助が受けられるようになる。
田中角栄内閣、利根川に計画されていた日本最大の多目的ダム・「沼田ダム計画」を白紙撤回する。
島地川ダム(島地川)、世界初のRCD工法による建設が開始される(~1981年に完成する)。

1952年(昭和26年)、サンフランシスコ平和条約締結により日本はGHQの占領から解き放たれた。朝鮮戦争による特需景気は日本の奇跡的復興の序曲となり、1956年(昭和31年)の経済白書では「もはや戦後ではない」という言葉が流行になるほど、日本は活気に満ち溢れ始めていた。ダム事業においても、この時期は最も記憶に残るプロジェクトが多く手掛けられた時期でもあった。

[編集] 大ダム時代の幕開け

1955年(昭和30年)、建設省中部地方建設局は木曽川本川中流部に丸山ダムを完成させた。戦前から計画されていたが戦争による中断を挟み完成したダムである。堤高は98.0m。この丸山ダムこそが100m級大ダム建設時代の号砲となった。同年九州電力宮崎県に堤高110mの上椎葉ダム(耳川)を建設し大規模アーチ式コンクリートダム建設の先駆けとなった。翌1956年には「暴れ天竜」と渾名された天竜川を堰き止め佐久間ダム(堤高155.5m・電源開発株式会社)が完成した。このダムは3年という短期間で完成し、日本土木史のエポック・メイキングとなった。1957年(昭和32年)には多摩川に「世界最大の上水道専用ダム」と称される小河内ダム(堤高149.0m・東京都水道局)が戦争による中断を挟みながらも完成、1960年(昭和35年)には重力式コンクリートダムとしては日本最大を誇る奥只見ダム(堤高157.0m・電源開発株式会社)が完成し、コンクリートダムはその技術の粋を極めていった。

ロックフィルダムでも大規模ダムが建設されるようになり、1961年(昭和36年)には庄川最上流部に御母衣ダム(堤高131.0m・電源開発株式会社)が完成し、完成当時は「東洋一」とまで称された。この御母衣ダムは日本造園史に残る大事業があった。湖底に沈む運命にあった樹齢350年のエドヒガンを湖畔に移植するという作業であった。これは当時の電源開発総裁・高碕達之助の発案によるもので、十中八九成功しないと言われていた無謀な賭けであった。だが、老桜は見事に開花し現在でも例年4月下旬になると満開の桜を咲かせている。この「荘川桜」は今でも湖底に沈んだ故郷を偲ぶ旧住民の思い出の地となっている。

これら大ダム建設時代の真打が、1963年(昭和38年)に完成した黒部ダム黒部川、高さ186.0m)である。大正時代より計画のあった黒部川第4発電所計画は、戦後関西電力によって計画されるが秘境中の秘境・黒部峡谷に建設することには多くの反対意見があった。これに対し当時の関西電力社長・太田垣士郎は社運を賭けた一大プロジェクトとして建設を進めた。工事用道路として長野県大町市より大町トンネル(関電トンネル)を掘削し資材を輸送する工事から始めたが予想以上の出水や高熱岩盤に悩まされ、ダム本体工事でも極寒の気候や険阻な峡谷が度々工事の行く手を阻んだ。

延べ1,000万人の人員投入、関西電力資本金の実に5倍に当たる513億円の建設費を費やし、171人の尊い命を黒部に散らしながら完成した黒部ダムは、京阪神の電力供給の大きな礎となりさらに日本有数の観光地としてその名を今に刻んでいる。なお、この偉業を残すべく石原裕次郎三船敏郎の二大名優は当時の映画業界の慣例を破り、干されながらもその情熱を傾けて一本の映画を撮った。これが日本映画史に残る屈指の名作「黒部の太陽」である。この映画は彼らの意向もあって上映後の再放映は一切行われず、今に至るまで封印されている。

[編集] ダム関連の法整備

こうした電源開発等に支えられ、日本の経済は高度経済成長に向け一路突き進んでいった。さらに人口も増加の一途をたどり、日本は敗戦の痛手からほぼ立ち直っていた。だが、急激な人口増加そして産業構造の変化は各地で深刻な水不足を招いた。これに対応すべく建設省は1957年「特定多目的ダム」を施行、建設省直轄ダム(現在は国土交通省直轄ダム)を建設・管理し治水のみならず利水事業の強化を図った。

さらに1962年(昭和37年)水資源開発を促進し大都市の水需要の安定供給・確保を図るために「水資源開発促進法」を施行。これに伴い水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が発足した。公団は「水資源開発基本計画」に則り系統的な水資源施設を建設し安定した水供給を図ることを目的とした。そして特に人口が集中する首都圏中京圏関西圏を中心に集中的な水供給を行うため、利根川荒川木曽川豊川淀川吉野川筑後川の7水系を「水資源開発水系」に指定。ダム・用水路等による水資源開発を企図した。これによって建設されたのが矢木沢ダム(利根川)・高山ダム名張川)・早明浦ダム(吉野川)・長良川河口堰長良川)等であり、愛知用水香川用水等の水源として地域の水需要になくてはならない存在となっている。

そして河川・ダム関連における法整備の総決算として河川法1964年(昭和39年)に改正された。この新河川法において河川管理体系が大幅に改訂され、原則的に国が管理する109の一級水系と、都道府県が管理する二級水系に大別された。この中でそれまで統一的な基準がなかったダムの定義について第44条1項で定められ、「河水を積極的に貯留し、(中略)堤高15メートル以上のもの」をダムと規定した。これにより堤高15m未満のダムはとして扱われるようになって、日本においてもダムの定義が確立した。また、従来管理区分が不明確であった河川管理者と電気事業者によるダム共同管理の整合性を図るため、第17条において「兼用工作物」規定を定め(詳細は多目的ダムを参照)、管理分担を明確化させた。こうしてダムに関する法整備も一応の完成を見ることとなる。

[編集] ダム行政に立ち向かう住民達~蜂の巣城紛争~

だが、こうした河川総合開発への重視に対し、水没する地域住民から疑問の声が上がるようになり遂に九州・阿蘇の麓で噴火した。1958年(昭和33年)、建設省九州地方建設局が計画する松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)事業に対し、室原知幸氏を中心とする住民が建設省の高圧的な姿勢に反発、下筌ダムサイトに監視用の砦を建設し徹底抗戦の構えを見せた。これが蜂の巣城紛争である。公共事業基本的人権財産権の整合性を問い、法廷闘争にまで縺れ込んだこの反対運動は、これ以後のダム事業に大きな影響を与えることとなる。

この頃大規模多目的ダム事業が相次いで計画されているが、蜂の巣城紛争の影響もあって激しい住民反対運動に遭遇している。特に利根川本流に計画された「沼田ダム計画」は総貯水容量800,000,000tという史上最大の多目的ダム計画であったが、沼田市主要官庁・公共施設を始め2,200世帯が完成後水没することから群馬県・沼田市双方の猛反対に遭い20年に亘り実施計画調査もできなかった。最終的に1972年田中角栄内閣が白紙撤回を表明。また、北海道開発局が鵡川本川に計画していた「赤岩ダム計画」も総貯水容量が350,000,000tと屈指の規模であったが、大半が水没する勇払郡占冠村の官民一体の抵抗により事業は1961年に中止。実施計画調査を実施した大規模多目的ダム事業の中止例としては初となった。この他にも多くのダム事業において猛烈な反対運動が官民一体で繰り広げられた。

1962年の大滝ダム紀の川)、1967年(昭和43年)の八ッ場ダム吾妻川)・川辺川ダム(川辺川)、翌1968年(昭和43年)の長良川河口堰、1971年(昭和46年)の宮ヶ瀬ダム(中津川)・徳山ダム揖斐川)などがこれに当たる。これらのダム事業は住民との長い交渉に多くの時間を費やし、日本の長期化ダム事業の代表格となっている。大滝ダムは40年後の2002年(平成14年)、宮ヶ瀬ダムは29年後の2000年(平成12年)に完成。徳山ダムも36年の長い月日を掛け2007年(平成19年)完成予定であるが、八ッ場ダムは2006年(平成18年)現在本体工事一歩手前、川辺川ダムに至っては今に至るまで反対運動が水没地域以外で繰り広げられており、ダム問題の縮図ともなっている。

[編集] 大ダム時代の黄昏

この時期のダム建設の特徴として、中空重力式コンクリートダムが集中的に建設されたことが挙げられる。重力式コンクリートダムに比べコンクリートの量が少なくて済み、かつ基礎岩盤との接地面が広いことから安定性が高まるという理由で、未だコンクリートが高価な時期に特に電力会社を中心として建設が盛んに行われた。特に中部電力管理のダムに多く、日本初の中空重力式として1957年完成した井川ダム大井川)を始め、畑薙第一ダム畑薙第二ダム(大井川)、高根第二ダム飛騨川)と4基も所有している。だが、地震にこそ強いものの型枠形成の人件費が高騰し、更にコンクリート自体が安価になったこともあり建設のメリットが薄くなったことで、1971年(昭和46年)完成の内の倉ダム(内の倉川・新潟県)を最後に全く建設されなくなった。井川ダムから14年目、バットレスダムと同様の運命をたどった型式でもあった。さらに水力発電用の大ダム建設も、火力発電の隆盛に押され黒部ダム以後建設されるケースが少なくなり、大ダム時代は次第に黄昏を迎える。

[編集] 安定成長期(1973年~1988年)

年代 出来事
1973年 水源地域対策特別措置法」(水特法)施行。水没地域補償対策等に関する法整備が整う。
1974年 荒川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。
日本ダム協会財団法人化される。
関西電力、当時日本最大級の揚水発電所、奥多々良木発電所(多々良木ダム黒川ダム)を完成させる。
1975年 早明浦ダム(吉野川)が完成。四国四県の水がめが誕生、池田ダム香川用水も完成する。
1976年 船明ダム(天竜川)が完成、天竜川電源開発事業が完了する。
1978年 福岡市大渇水(福岡砂漠)。江川ダム・南畑ダム・脊振ダム枯渇により287日間の給水制限実施。
農林省、農林水産省に改組される。
1979年 東京電力、新高瀬川発電所を完成させる。上池の高瀬ダム(高瀬川)はロックフィルダムとして日本一の規模を誇る。
1981年 御所ダム(雫石川)が完成、北上川総合開発事業が完了する。
1982年 都道府県出資でダム事業の技術支援や技術者育成を目的とし、財団法人ダム技術センターが設立される。
1985年 犀川笹平ダム湖スキーバス転落事故。25人死亡の大惨事。
1988年 「小規模生活貯水池」事業開始。地域密着型小規模利水・治水ダム建設に対する国庫補助が行われる。
ダム管理、環境調査、水源地域振興などを目的とし、財団法人ダム水源地環境整備センターが設立される。
浅瀬石川ダム(浅瀬石川)完成に伴い、日本初の多目的ダム・沖浦ダムが水没する。

「モーレツからビューティフルへ」とは、この当時流行したCMのフレーズであるが、この一文程1970年代後半の日本の状況を指し示した言葉はないかもしれない。高度経済成長は日本各地に公害を始めとした歪みを生み出し、さらにはオイルショックにより経済は高度経済成長から安定成長へ転換されて行った。ダム事業に関しても、大きな曲がり角に差し掛かった時期でもあった。

[編集] ダム事業の転換点~開発優先から住民・地域優先へ~

1958年(昭和33年)から足掛け13年に亘り続いた蜂の巣城紛争は、ダム建設を始めとした公共事業最優先の流れに大きな楔を打ち込んだ。運動を率いた室原知幸の「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」という言葉にもある通り、ダム建設を行う前には、犠牲を蒙る住民・地域の基本的人権財産権生存権を尊重し、合意の下で事業を進めなければならないという重い課題を残した。

室原は1972年(昭和47年)の松原ダム下筌ダム完成前の1970年(昭和45年)に死去したが、建設省は室原家と和解。さらに彼の遺志を汲んだかのように1973年(昭和48年)、水源地域対策特別措置法(略称・水特法)を制定した。水没地域の住民に対して国庫補助による経済援助・代替地造成・移転先の住宅金利補充といった補償制度の充実と、水没地域全体の産業育成・地域振興充実を柱に、川治ダム鬼怒川)・呑吐ダム(山田川)等を皮切りに特定多目的ダム補助多目的ダム等95施設を指定し援助対象とした。特に水没戸数150戸以上・水没農地面積150ha以上のダムに対しては国庫補助率を引き上げ厚く補償を行う「法第9条指定」を行い、川辺川ダム(川辺川)・手取川ダム手取川)等が指定された。法を活用した地域振興施策は事業者と地元の協力によって次第に実を結ぶようになり、御所ダム(雫石川)を始め日吉ダム桂川)・宮ヶ瀬ダム中津川)のように多くの観光客を集める一大観光地に成長したダムも続々現れ始めた。

さらにはこの施策を推進する機関として財団法人ダム水源地環境整備センターが1988年(昭和63年)に設立。水源地域振興の為の諸事業を推進し2005年(平成17年)には全国の地方自治体より推薦のあった65ダムを「ダム湖百選」に認定した。建設省も特定多目的ダムを観光資源として活用すべく、1994年(平成6年)には「地域に開かれたダム」施策を実施した。ダムを活用して地域振興を図り、住民の生活水準を向上させる水特法の理念こそ室原氏が生前訴え続けた理念でもあり、それはかつて敵対していた建設省の手によって開花するに至った。

[編集] 大規模河川総合開発事業の完成

また、この時期は長年に亘って展開されてきた「河川総合開発事業」が完成を見る時期でもあった。1975年(昭和50年)「吉野川総合開発事業」の心臓に当たる早明浦ダムが完成し吉野川の総合開発は大きな山を越えた。1976年(昭和51年)には船明ダムが完成し佐久間ダム等日本の代表的水力発電事業であった「天竜川電源開発事業」が完了、さらに1981年(昭和56年)には御所ダムが竣工し「河川総合開発」の象徴でもあった「北上川総合開発事業」は1947年(昭和22年)の石淵ダム(胆沢川)着工以来34年の歳月を経て完了するに至った。

また大規模な「河川総合開発事業」とは対極にある河川開発事業として、地域密着型のダム事業でもある「小規模生活貯水池事業」が1988年より開始された。小河川の洪水調節と河川流水量維持・簡易水道の供給・小規模な農地灌漑等が主目的で、多目的ダムではあるものの限定した小地域に対して治水・利水を行う。概して堤高30m規模の小ダムが多く建設されたが、ダム自体の規模や湛水面積が小さいため流域住民・環境への影響を最小限に抑える効果も持っている。

さらに、新規ダム建設地点が減少するに伴い既存のダムを嵩上げし能力を増強する「ダム再開発事業」が多く始まったのもこの時期の特徴であり、丸山ダム新丸山ダム木曽川)・大夕張ダム夕張シューパロダム夕張川)・沖浦ダム浅瀬石川ダム・浅瀬石川)等が再開発事業対象として着手された。再開発されることにより既存のダムは水没する運命にあることが多く、既に日本初の多目的ダムであった沖浦ダムは1988年に水没。この他石淵ダム・大夕張ダム・丸山ダム・目屋ダム(岩木川)等大規模ダムも再開発完了後は水没してしまう。

[編集] 水力発電の再評価~揚水発電~

一方、火力発電に電力供給の主役を明け渡し大規模ダム建設が少なくなった水力発電であるが、オイルショックの影響により「火主水従」の風潮から水力発電が再評価されるようになった。そして、従来のダム式発電所からより認可出力(最大出力)が大きく、安定した電力生産が図れる揚水発電の建設が各電力会社で積極的に推進されるようになった。1972年新豊根発電所(新豊根ダム・佐久間ダム、1,125,000kW)を電源開発が、1974年(昭和49年)に奥多々良木発電所(多々良木ダム黒川ダム、1,200,000kW。後増設され現在は1,930,000kW)を関西電力が、さらに1979年(昭和54年)には新高瀬川発電所(高瀬ダム七倉ダム、1,280,000kW)を東京電力が完成し、以後出力100万kWを超える大規模揚水発電所が各地に建設されるようになった。一時下火となった水力発電はクリーンかつ再生可能なエネルギーとして再び脚光を浴びた。現在でも揚水発電所が建設されており、1号機の運転が開始された神流川発電所南相木ダム・上野ダム)は、6号機まで全て完成すれば揚水発電所としては世界最大の設計最大出力・2,820,000kWを誇る水力発電所となる。

この様に、この時期は"大規模ダム建設による河川開発の積極的推進“という「モーレツ」から、"地域住民との共生・地域振興の促進材料としてのダム周辺整備の積極的推進”という「ビューティフル」に、ダム事業は変貌を遂げて行ったのである。だが、1978年(昭和53年)の福岡市大渇水に見られるように、既存のダムでカバーできない自然災害・異常気象が起こり始め、新たなる治水・利水のあり方が問われ始めた時期でもあった。

[編集] ダム事業激動期(1989年~2006年)

年代 出来事
1989年 中部電力塩郷ダム大井川)の水利権静岡県に一部返還。28年ぶりに大井川の流水が復活する。
1990年 豊川水系、「水資源開発促進法」に基づく水資源開発水系に指定される。最後の水資源開発水系指定。
1991年 出し平ダム(黒部川)、貯水池からの排砂実験を日本で初めて実施。
1993年 玉川ダム(玉川)を中心とした「玉川水質中和事業」が稼動。
1994年 長良川河口堰長良川)が完成する。
建設省、「地域に開かれたダム」の方針を発表。国・公団直轄ダム施設の一般への積極開放促進を図る。
茨城県営の竜神ダム(竜神川)湖上に「竜神大吊橋」が完成。歩道専用吊橋としては日本一。
1995年 八汐ダム(鍋有沢川)が完成する。アスファルトフェイシングフィルダムとしては世界一の堤高を誇る。
1996年 細川内ダム建設事業(那賀川)、木頭村の反対で計画が事実上中止となる。以後、大規模ダム事業の中止が急増する。
東京電力尾瀬沼の水利権延長申請を断念。尾瀬原ダム計画を中心とする「尾瀬分水案」、76年目にして消滅する。
1997年 「公共工事コスト縮減対策に関する行動指針」策定。ダム等公共事業全体にコスト削減が要求される。
1999年 吉野川可動堰の可否を巡る住民投票が徳島市で実施。反対得票率90%以上となり徳島市、可動堰建設反対に転じる。
呉市水道局管理の本庄ダム(二河川)、現役で稼動する水道施設としては初となる国の重要文化財に指定される。
2000年 関東最大の多目的ダム、宮ヶ瀬ダム(中津川)が完成する。
富郷ダム(銅山川)が完成、吉野川総合開発事業が完了する。
2001年 中央省庁再編により建設省、運輸省・北海道開発庁・国土庁と合併し国土交通省が発足。
長野県田中康夫知事、県議会で「脱ダム宣言」を発表。信濃川・天竜川水系の県営ダム事業計画を一斉に中止する。
2002年 小泉純一郎内閣、「骨太の方針」に従い公共事業総点検を開始。10年以上事業が進捗していないダム事業の多くが計画中止・休止となる。
熊本県潮谷義子知事、県営荒瀬ダム球磨川)を水利権失効後に解体・撤去する方針を表明。
小牧ダム(庄川)、発電用ダムとしては初めて国の登録有形文化財に登録される。
2003年 水資源開発公団、独立行政法人水資源機構に改組・発足。
東京電力管理の丸沼ダム(片品川)、現役で稼動する発電用ダムとしては初となる国の重要文化財に指定される。
電源開発株式会社、民営化が決定(翌年民営化、東証一部に株式公開)。
2004年 平成16年7月福井豪雨。建設凍結中の足羽川ダム足羽川)建設再開要望が高まる(2006年建設再開)。
新潟県中越地震により妙見堰(信濃川)が損壊。
2005年 億首ダム(億首川)、世界初の台形CSGダムとして建設が開始される。
全国的大渇水で各地のダムが枯渇。早明浦ダムの貯水率が0%となり連日報道される。
大阪高裁、永源寺第二ダム愛知川)訴訟控訴審で「ダム建設違法」の判決を下す。
(財)ダム水源地環境整備センター、全国の各地方自治体より推薦のあったダム湖の内65湖沼をダム湖百選に認定する。
2006年 東京電力、日本最大の揚水発電所・神流川発電所(南相木ダム上野ダム)の本格的営業運転を開始させる。
日本最初の重力式コンクリートダムである布引五本松ダムが国の重要文化財に指定される。
滋賀県嘉田由紀子知事、知事就任時の所信表明で新幹線新駅・産廃処理場建設と並びダム事業の凍結を表明する。
長野県知事選挙で田中康夫を破り当選した村井仁知事、「脱ダム宣言」の見直しを表明する。
日本唯一の五連式マルチプルアーチダムである豊稔池ダムが国の重要文化財に答申される。

[編集] 環境の激変(1)~省庁再編と特殊法人改革~

1990年以降、ダムを巡る環境は大きく激変した。一つは事業主体の形態が大きく変わったことである。2001年(平成13年)、実に占領下以来となる中央省庁再編が行われ、建設省運輸省北海道開発庁国土庁と合併し国土交通省として改組・発足した。ダム事業については建設省のみならず、国土庁や北海道開発庁も関与するケースがある事から一本化された形となった。これに伴い、従来農林水産省との共同機関として位置づけられていた北海道開発局は国土交通省の管轄となった(ただし、農業水産部が管轄する灌漑用ダムの管理に関しては、従来どおり農林水産省直轄ダムとなっている)。

また、特殊法人の在り方に対する国民の批判が高まり、これを受けた小泉純一郎内閣は特殊法人を独立行政法人として改組させ、予算確保を自律的に行わせ補助金を削減することで支出抑制を図る特殊法人改革を行った。この対象となったのが水資源開発公団であり、2003年(平成15年)に独立行政法人水資源機構として発足することとなった。さらに、「電源開発促進法」により電力再編成以後の電力事業を補助する目的で発足した電源開発株式会社もその使命を果たしたとして国営企業からの脱却を図った。2003年政府は電発の民営化を発表し翌2004年(平成16年)には保有株式を売却。民営化後東京証券取引所第一部に上場し民間企業となった。

[編集] 環境の激変(2)~ダム事業への厳しい世論~

もう一つの環境激変とは、公共事業見直しの機運が高まったことである。ゼネコン汚職等公共事業絡みの汚職事件頻発・必要性の有無が問われぬまま推進される公共事業・環境破壊等、公共事業に対して国民は次第に厳しい目を向け始めるようになって行った。納税者としての目も、不要な公共事業に対する批判を集中させる基となった。さらに地方自治体は税収の伸び悩みにより深刻な財政難に陥ることが多くなり、費用が嵩む公共事業に対して予算配分を再検討するようになった。こうしたことが、1990年代より始まる公共事業見直し論の原動力となって行ったのである。建設省は亀井静香建設大臣の時、大規模な直轄公共事業に対して再評価を行い、リスク&ベネフィット・コストパフォーマンスに欠ける事業に関しては事業を中止するという決断を下した。こうして宍道湖中海干拓事業や千歳川放水路事業等大規模プロジェクトが中止となった。

ダムに関しても例外ではなかった。徳島県木頭村で計画されていた「細川内ダム建設事業」(那賀川)は木頭村全村が反対していたが1996年(平成8年)に事業が凍結、2000年(平成12年)に事業中止となった。この時期より多目的ダム事業の建設中止が相次ぐ様になり、「猪牟田ダム」(玖珠川・122.0m)・「紀伊丹生川ダム」(紀伊丹生川・145.0m)・「清津川ダム」(清津川・150.0m)・「戸倉ダム」(片品川・158.0m)・「川古ダム」(赤谷川・133.0m)といった大規模多目的ダムも地元の理解が得られなかったり、下流受益自治体の事業撤退等によって中止に追い込まれた。これは小泉内閣の基本方針「骨太の方針」で高速道路を始めとした公共事業総点検で更に加速。10年以上予備調査・実施計画調査を続け本体工事に着手していないダム事業の大半が事業中止・休止となった。

揚水発電建設においても、90年代以降当初予想していた電力需要よりも低い需要となり新規電源開発のメリットが薄くなったという理由から建設を中断する発電計画が相次ぎ、世界最大級の揚水発電計画であった「金居原水力発電所」(関西電力)や「川浦水力発電所」(中部電力)が中止となっている。

こうしたダム事業に対する問題で、全国的な話題になったものとして長良川河口堰徳山ダム川辺川ダムがある。特に長良川河口堰は1968年(昭和43年)に建設計画が発表されたが、その後の水需要の低下で果たして必要なのかという指摘が多く、不要な公共事業ではないのかという疑問が呈されるようになった。また、ダムがない自然豊かな河川であった長良川に河口堰を建設することで漁業を始めとした自然環境を壊すとして環境問題の立場から反対する意見が多くなり、両者が合体して大きな反対運動となった。この反対運動を喧伝したのが朝日新聞で、建設反対の立場から建設省と公開討論を行う等積極的な関与を行った。朝日新聞の行動は公共事業に対する国民の関心を高めたと評価される一方、不偏不党の中立性が最も重要視される報道機関として、一方のみの意見を積極的に喧伝することが報道機関としての中立性を捨てたという非難も多かった。

地方自治体の動きも、深刻な財政難で計画を中止するダム事業が相次いだが、2001年に田中康夫長野県知事が発表した「脱ダム宣言」は大きな影響を各方面にもたらした。治水・利水において新規ダム建設は不要であるとし、信濃川水系・天竜川水系の県営ダム事業を全て強制的に中止し、さらに中部電力が進めていた「木曽中央揚水発電所計画」も却下して事業中止に追い込んだ。ダムの代わりとして高さ30mの「河道内遊水地」を建設する他堤防整備・河底掘削で対処するという治水案を発表した。

琵琶湖を抱える滋賀県でも2006年(平成18年)の知事選で現職知事を破り当選した嘉田由紀子知事がダム建設凍結を発表したが、滋賀県の場合は県営のみならず国土交通省・水資源機構が計画するダム事業の凍結を表明した。この他高知県では橋本大二郎知事が四万十川の河川環境を回復させることを目的に四万十川本流にある家地川ダム(小堰堤)を、熊本県では潮谷義子知事が球磨川にある荒瀬ダムを水利権失効後2010年に撤去するという方針を打ち出し、ダム建設中止のみならず日本では初となるダム撤去という選択を行おうとしている。徳島県では吉野川第十堰可動堰化に対する住民反対運動が高まり、1999年(平成11年)徳島市による住民投票にまで発展。結果反対票が圧倒的多数を占めたことにより徳島県・徳島市が可動堰建設反対に転じ、事業は事実上中止に近い状況となっている。

[編集] 環境の激変(3)~ダム事業と自然保護~

環境問題の点からは1997年(平成9年)環境影響評価法(環境アセスメント法)が施行され大規模公共事業では環境への影響を十分に調査・対策することが義務付けられた。これは大規模な公共事業や土木事業によって自然破壊が進んだことへの反省と、近年の環境保護思想の高まりが合わさった結果であり、ダム事業の様な公共性の高い事業といえども、環境への負荷次第では事業の延期や中止となる例も出てきた。

これに先んじて、尾瀬ヶ原を堰き止めてダムを建設し、利根川へ分水して発電を行う「尾瀬分水案」の中心事業・尾瀬原ダムが中止されている。事業者の東京電力が1996年に水利権更新を断念したことが経緯であるが、1919年(大正8年)の計画発表から76年目にして中止となった。この尾瀬原ダムでは、福島県新潟県の水利権問題とともに尾瀬の自然保護が争点となった。既に1919年の計画発表直後、尾瀬の自然破壊を憂慮した平野長蔵が事業計画に反対して「長蔵小屋」を建てたが、後に林道建設問題などど結合し大規模な自然保護運動へと発展した。この尾瀬保護運動は日本における自然保護運動の端緒であるといわれる。

河川環境の面では水力発電の取水に伴う河川流量の枯渇という深刻な問題が全国各地で発生していた。代表的な事例として大井川の問題がある。1961年(昭和36年)に中部電力が大井川中流部に建設した塩郷ダムにより、大井川がダムより20km下流まで完全に枯渇した。河川管理者の静岡県水利権の一部返還交渉を行ったが不調に終わり、川根町を始めとする流域の住民は「大井川水返せ運動」を繰り広げ、電力会社へ強烈な圧力を掛けた。住民の意思を無視する事が出来なくなった中部電力は1989年(平成元年)より水利権を一部返還。その後放流量を増大させる事により大井川の流水が復活した。こうした発電用ダムの河川維持放流1997年(平成9年)の河川法改正により「河川環境の保護」が法目的に加わった事で、義務化された。これにより、信濃川を始め全国の河川において、途絶された水流が復活されている。

[編集] 環境の激変(4)~地球温暖化と異常気象~

このように平成に入り、ダム事業は様々な方面から既存の事業方針に対する異論や指摘が行われた。河川管理者もこうした声に押され、あるいは自発的に事業の精査を行い多くのダム事業を中止、凍結、または事業縮小を行った。しかし、こうした拙速なダム不要論に対して警鐘を鳴らす意見も多い。

田中知事らが進めている脱ダム事業は地元との意見調整を無視して突発的に行った傾向が強く、長野では「浅川ダム」中止に対し長野市や浅川流域住民が反発。治水対策が停滞した中起きた平成18年7月豪雨によって田中知事の治水対策を含む独善的政策が問われ、同年の知事選で落選。後任の村井仁知事は「脱ダム宣言」の見直しを検討している。家地川ダムでは上水道をダムに依存している幡多郡佐賀町(現・幡多郡黒潮町)及び中村市(現・四万十市)がダム撤去に反発、ダム撤去を支持する幡多郡四万十町と対立している。荒瀬ダムではダム撤去の目的が根拠薄弱とする意見もあり今後混乱が予想される。吉野川可動堰では徳島市の動きに対し、水害に古くから悩まされた地元の板野郡板野町上板町藍住町住民が反発している。

また、ダム建設中止に対し、建設を切望していた流域住民や移転住民が反発。淀川水系や川辺川ダム、城原川ダム(城原川)では賛成派住民と反対派住民が鋭く対立し国土交通省や地方自治体を巻き込む事態となり、さらには市長選挙での争点にまでなっている。マスコミのダムに対する報道の問題点も指摘され、あらかじめ不要論に立った形での報道が正確な情報伝達を阻害し、ダム事業に対する国民の偏見を助長したという面もある。

さらに、地球温暖化の影響により例年未曾有の災害・旱魃(かんばつ)が日本を襲来している事実がダム問題をさらに複雑化している。2000年に東海地方を襲った東海豪雨、2003年に北海道・日高地方を襲った豪雨、2004年に北陸を襲った福井豪雨平成16年7月新潟・福島豪雨2005年(平成17年)と2006年に九州南部を襲った豪雨等例年のように複数地域で大水害が発生しており、2004年度の水害による被害総額は史上最悪の約2兆850億円に上り爪痕は未だ癒えていない。特に洪水調節ダムが建設されていない河川(長良川・足羽川円山川加古川)に被害が集中している。

一方二風谷ダム沙流川)・大谷ダム五十嵐川)・真名川ダム(真名川)・矢作ダム(矢作川)・大野ダム(由良川)・下筌ダム(津江川)のように洪水調節によって被害拡大を抑制したダムが多かった。このことからダムに対する再評価も現れ始め、足羽川ダム(部子川・福井県)や筒砂子ダム(筒砂子川・宮城県)のように一旦凍結となったダムが建設再開するというケースも出てきている。だが、ただし書き操作による放流の増加が目立ってきており、平成18年7月豪雨における川内川の水害と鶴田ダムの関連性が指摘されるなど、ダム単独での治水が建設当時の予測を超える水害の発生に対応できず、限界が生じてきているのも事実である。

旱魃については1994年と2005年の旱魃が特に深刻であった。1994年の場合は特に東海地方において事態が深刻だった。特に知多半島では水源の牧尾ダム(王滝川)・阿木川ダム(阿木川)・岩屋ダム(馬瀬川)が枯渇、一般家庭では日19時間断水、工業地帯では操業自粛・短縮といった事態となり約500億円に上る被害を与え景気に影響を及ぼした。この時完成したばかりの長良川河口堰が知多半島に緊急送水、その威力を発揮し現在では知多半島の水源の一つとなった。

一方2005年の場合は全国的かつ長期間の旱魃であり、特に四国地方は早明浦ダムが完全に枯渇し香川県愛媛県高知県が厳しい給水制限を余儀なくされたが、特に深刻だったのは徳島県であった。吉野川流域では水分配を巡り香川県と対立、細川内ダム建設を中止した那賀川流域では流域の全ダムが枯渇するという異常事態となり、阿南市等工業地帯の損害は100億円を超えるという試算が出た。徳島県では吉野川流域でも約50億円以上の被害が出ており、河川開発に関して微妙な立場に立たされている。この水不足による給水制限は長期化しており、年が明けた2006年(平成18年)になっても多くの地域で引き続き制限が行われている。

環境保護が最優先か、人命・財産保護が最優先か容易に結論が出せないが、求められるのは一部のダム反対論者のような観念的・独善的反対論ではなく流域の真の利益になるような事業の推進であり、その上でダムよりも有益な事業が見出されダム事業が不要ならば、建設中止も当然の選択肢となる。また、地球温暖化の影響で短期集中型の豪雨被害が頻発していることを踏まえ、根本である河川整備計画の見直しが必要であるという意見もある。しかし、最初から「ダム」という選択肢を否定することは、建設的な意見を妨げる恐れもある。いずれにしても事業者の説明責任が今まで以上に問われることは、言うまでもない。

[編集] 文化財と最新技術

なお、この時期はダムが文化財として認知されるケースが多かったことも特徴である。水道用ダムとして本庄ダム(二河川・広島県)及び布引五本松ダム生田川)が、発電用ダムとして丸沼ダム(片品川・群馬県)、治水ダムとしては豊稔池ダム(柞田川・香川県)が国の重要文化財に指定されたのを始め、小牧ダム(庄川富山県)・塚原ダム(耳川宮崎県)が国の登録有形文化財となった。この他土木学会によって多くの明治・大正期建設ダムが「土木遺産」に指定されている。

ダム技術も大きく進歩。従来は不可能といわれていた堆砂排出技術が実用化された。黒部川出し平ダム(関西電力)では貯水池からの排砂放流が1991年に開始され、宇奈月ダム(国土交通省北陸地方整備局)完成後は連携排砂として実施されている。環境に対する影響を今後改善する事が課題とはなっているが、宿命的悩みの種であった堆砂問題の解決策が見出されたことは大きな前進である。この他佐久間ダム(天竜川)や美和ダム三峰川)における排砂トンネル建設等、堆砂が深刻なダムにおいて対策が現在行われている。型式においても、経済性と安定性に優れた台形CSGダムが日本によって開発され、億首ダム(億首川)で実用化が始まっている。コスト縮減が業種を問わず官民一体で叫ばれている中、注目されている工法である。

[編集] 今後のダム史(2007年~)

年代 出来事
2007年 日本最大の多目的ダム、徳山ダム揖斐川)が完成予定。
2010年 荒瀬ダムの発電用水利権の有効期限。

今後のダム事業は、ダム建設に適する地点が減少することから大規模なダム建設に関してはその計画が経年的に減少する。また、公共事業に対する厳しい国民の目、環境影響評価法による環境対策の厳格化、財政問題などにより現在計画されているダム事業が中止することも十分考えられる。このため、今後は既存のダムを再開発して機能を増強する手法が、今まで以上に増加することが予想されている。この他治水専用で通常時は貯水しない「穴あきダム」や「小規模生活貯水池」事業も増加してくることが考えられる。いずれにしても1950年代1960年代のような大規模ダム建設時代が訪れることは、もうない。

課題として、極めて長期化したダム事業を今後どのようにしていくかも問われていく。「利根川改訂改修計画」に基づく利根川水系8ダム計画最後のダムとなった八ッ場ダム吾妻川)は本体工事に向けて周辺整備にようやく着手することができたが、計画発表された1952年(昭和27年)以来、ここに漕ぎ着けるまで実に54年が経過している。川辺川ダムについても代替地造成や仮排水路工事が進められたが、下流住民の反対表明等で本体工事が遅延。1967年(昭和42年)の計画発表以来39年が経過。設楽ダム(豊川)や日本初の台形CSGダムとなる億首ダム(億首川)は1978年(昭和53年)に発表されてから28年、新桂沢ダム新丸山ダム等に至っては完成予定の目処すら立っていない現状にある。今後は、余分な建設コストを抑えるためにも迅速な事業進捗が不可欠となるが、実際は環境・住民の理解獲得等に難渋するケースがほとんどである。毎年のように災害・旱魃が襲い来る現状では、事業者も流域自治体も住民も速やかな結論を出すことも重要であると言われているが、現状は難しい。

[編集] 参考文献

  • 『多目的ダム全集』:建設省河川局監修。国土開発調査会 1957年
  • 『日本の多目的ダム』1963年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1963年
  • 『日本の多目的ダム』1972年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1972年
  • 『日本の多目的ダム』1980年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1980年
  • 『ダム年鑑 1991』:日本ダム協会1991年
  • 『ダム便覧 2006』:日本ダム協会。2006年
  • 国土交通省河川局 ウェブサイト

[編集] 関連項目

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