日米修好通商条約
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日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。日本側は下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震、アメリカ側の全権は駐日総領事タウンゼント・ハリスとで神奈川沖のポウハタン号上で調印した。
明治32年(1899年)7月17日に日米通商航海条約(昭和15年(1940年)1月20日失効)が発効されたことにより失効した。
[編集] 経緯
はじめ、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許の獲得に尽力したが、武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能(なかやま ただやす)・岩倉具視ら中・下級公家88人が抗議の座り込みを行ったため(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)、それを受けて天皇が「先祖に申し訳ない」と頑なな態度を採って頑強に拒否したため勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で老中堀田正睦は辞職に追い込まれる。 ハリスはここでアロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐにはあらかじめ、日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得した。大老の井伊直弼はこれを脅威に感じ、天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切った。
[編集] 内容
- 神奈川(1859年7月4日)・長崎(1859年7月4日)・箱館(函館)(もとから)・新潟(1860年1月1日)・兵庫(1863年1月1日)の開港。(下田の閉鎖(1860年1月4日))
- 領事裁判権をアメリカに認める。
- 江戸(1862年1月1日)・大阪(1863年1月1日)の開市
- 自由貿易
- 関税はあらかじめ両国で協議する。
- 内外貨幣の同種同量による通用。
- 片務的最恵国待遇
ただし、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜、兵庫ではなく神戸であった。このことは条約を結んだ各国から批判もされたが、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化した。
また、最恵国待遇については、当初アメリカ側からは双務的な最恵国待遇を提案されたものの、鎖国政策を出来るだけ維持して、一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えがなかった幕府側から断ったとする説もある。
幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。「開国」と「尊皇攘夷」が思想・政治論的にせめぎあっているなかで、難しい舵取りではあった。
[編集] 関連項目
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