豊臣秀頼
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豊臣 秀頼/羽柴 秀頼(とよとみのひでより、とよとみ ひでより/はしば ひでより、文禄2年8月3日〔1593年8月29日〕 - 慶長20年5月8日〔1615年6月4日〕)は、天正時代から江戸時代初期の大名。
幼名は拾丸(ひろいまる)。父は豊臣秀吉、母は秀吉の側室である浅井長政の娘茶々(淀殿)。子は、側室との間に国松と天秀尼。官位は右大臣。
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[編集] 生涯
[編集] 秀頼誕生~秀吉の死
秀吉57歳のときの子で、大坂城で生まれる。1595年(文禄4年)、秀吉から関白職を譲られていた豊臣秀次が失脚して切腹したため、秀頼が豊臣氏の後継者として伏見城で育てられた。秀吉は晩年に秀頼を補佐するため五大老・五奉行の合議制を整え、1598年に死去し、秀頼は大坂城に移った。
秀吉死後には五大老の徳川家康が影響力を強め、さらに豊臣政権内でも対立が起こり、五大老の前田利家の死去、五奉行の石田三成の失脚などで豊臣政権は家康が主導するかたちとなる。
[編集] 関ヶ原の合戦
1600年(慶長5年)に三成らが家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された、五大老毛利輝元の庇護下におかれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。だが、家康はその戦後処理において羽柴宗家の所領を勝手に分配し、秀頼は戦前は全国に220万石あった所領の内、大名への預け地となっていた分をとられて摂津・河内・和泉65万石まで減らされ、政権後継者から摂河泉の一大名の立場となる。
さらに1603年(慶長8年)、家康が朝廷より征夷大将軍に任じられ、江戸城の普請を行い武家政権構築を始めた事により、秀頼は実質的に権力の座から外された。豊臣家と徳川家の確執が起るが、同年には秀頼は秀吉の遺言もあり2代将軍徳川秀忠の娘千姫(家康の孫、母は淀殿の妹・於江与)と結婚し、1605年右大臣となる。京都で秀頼と会おうとした家康は秀頼の上洛を希望するが、生母の淀殿が反対して拒否を続けた。このときは家康が断念し、六男・松平忠輝を大坂城に派遣し、面会させている。1611年(慶長15年)、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都・二条城で家康との会見を行った。
しかしその後も徳川家に臣従することはなかった。つまり秀頼は、形式的には依然として家康の主筋だったわけである。一方、秀頼にとっては頼るべき存在であった加藤清正、浅野幸長、池田輝政は大坂の陣が始まる前に病死してしまっている。
[編集] 大坂冬の陣
形式的には主筋である豊臣家を別格扱いすることを許容出来なくなった徳川家康は、1614年(慶長19年)に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発する。福島正則、加藤嘉明など主な大名に檄をとばしても大坂城にさっぱり集まらず、真田幸村(真田信繁)、後藤又兵衛(後藤基次)、長宗我部盛親、毛利勝永ら浪人衆が入城した。ただ、浪人衆と大野治長・淀殿らが対立し、最後まで対立は解けなかった。例えば真田幸村などが京都進撃を唱えても、大野治長などが頑強に反対し大坂城篭城に決するということもあった。しかし戦闘では浪人衆の活躍により、徳川軍は堅固な大坂城攻めに苦戦し、次第に食料や弾薬が尽きはじめた。家康は冬になり将兵などの士気が著しく低下したため和議を提案。秀頼は当初、和議に反対したといわれているが、淀殿の主張などによって和議が実現した。
[編集] 大坂夏の陣
しかし和議は徳川方の謀略であり、一時的なものにすぎず、家康は豊臣方との約束を無視して大坂城の全ての堀を埋めてしまう。大坂方はこれに抗議するが、これも無視され、逆に浪人の総追放や国替えを要求された。翌1615年(慶長20年/元和元年)に浪人の総追放や国替えを拒否したため、家康は大坂城への侵攻を宣言、大坂夏の陣が起こる。真田信繁(=真田幸村)は豊臣軍の士気を高めるために秀頼出陣を望んだが、結局果たせなかった。淀殿が我が子かわいさの為に頑強に首を縦に振らなかったと言われている。それでも真田幸村は「日本一の兵(つわもの)」と絶賛される獅子奮迅ぶりで、徳川方を次々と蹴散らした後、家康本陣への突撃を敢行。徳川家康を後一歩のところまで追いつめるが、仕留めきれなかった。その後幸村は力尽き討ち死に。他の豊臣方の部隊も次々と壊滅していった。
[編集] 羽柴家(豊臣宗家)滅亡
やがて大坂城天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるも徳川軍に包囲された。天守閣炎上の前に、大野治長は千姫をひきわたすことで秀頼の助命を嘆願したといわれているが果たせず、秀頼は母・淀殿や大野治長とともに自害した。享年23。
その後、息子の国松は殺害されるが、娘の天秀尼は仏門に入ることにより助命されている。
墓所は京都市東山区の養源院ほか。
また大阪市中央区の豐國神社には、秀吉及び叔父に当たる豊臣秀長と共に祀られている。
昭和55年、大坂城三ノ丸跡地より秀頼とみられる遺骨が発掘され、京都清涼寺に埋葬された。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 1596年(文禄5)5月13日、従三位左近衛権中将
- 1598年(慶長3)4月20日、従二位権中納言(参議を経ずして権中納言への転任は、摂関家藤原氏の官位昇進の例に倣う)
- 1601年(慶長6)3月27日、権大納言
- 1602年(慶長7)1月6日、正二位
- 1603年(慶長8)4月22日、内大臣
- 1605年(慶長10)4月13日、右大臣
- 1607年(慶長12)1月11日、右大臣辞任
[編集] 人物
秀頼は公家風の教育を受けていたと言われ、伝存する筆跡は高い評価を受けている。 現在、一部で小柄で文弱なお坊ちゃまの少年というイメージが出回っているが、実際は身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったと伝わる(イメージ的には、現代の大相撲力士・黒海太とほぼ同格の体格である)。この点は近年のドラマ、舞台などでは忠実に再現され、成人後の秀頼は身長の面で大柄な役者が演じることが多い。体重の面を「忠実に」再現した役者となれば、「春日局」での渡辺徹がその代表である。
このため5尺(約152cm)も無いと言われている小柄で有名だった秀吉の実子かどうかが疑われる一因にもなっている。ただし、祖父・浅井長政や祖母・お市が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でもなんら不思議はない。
顔は天然痘の後遺症である痘痕が残っていたとも言われる。また家康と二条城で秀頼と会見した時に秀頼のもつカリスマ性に恐怖した家康が、豊臣家打倒を決意したと記録するものもある程、武将としての威厳があったとされる。
徳川家康の孫で、敵でもあり妻でもある千姫との仲は良かったらしい。しかし子供は出来ず、秀頼の側室の子供を養子とした。
[編集] 秀吉との父子関係について
秀頼が秀吉の実子ではないとする説は古くから考えられていた。秀吉は農家の出身でもあることから戦国大名としては稀な非男色家であり、一方多くの女性を愛したとされている。例えばルイス・フロイスの「日本史」には「300名の側室を抱えていた」とあり、誇張が含まれているとしても相当数の女性が常時大坂城にいたようである。
しかしそれにしては淀殿以外に実子が存在せず(長子豊臣秀勝ら長浜城時代の子の実在を疑う研究者も多い)、また淀殿だけが2人の子供を生んでいることからそうした説が唱えられたものと考えられる。なおこの場合、当然豊臣鶴松も秀吉の子とは考えにくい。また秀吉との間に外見の類似性がないという見方もあるが、前述の祖父母の血統に加えて信長が秀吉を「猿」と呼んでいたことは後世の創作とも言われており、この点は検証に値しない(※豊臣秀吉の項を参照)。
では秀頼の実父は誰か、という問いに対しては大野治長説と石田三成説があり、珍説の類では徳川家康説、名古屋山三郎説もある。治長は淀殿と乳兄弟であったこと、三成はその才気を淀殿に買われていたこと、などがその主な理由である。特に治長は淀殿と密通していたとの記録もあることから、治長こそ実父であると考える学者は多い。ただしこうした説の正当性を示す根拠は存在せず、江戸時代以降に豊臣家と縁故の武将の地位を不当に貶めるために、殊更論われたとも言われている。
なおかつて秀吉に子がいない(少ない)ことは高台院に原因がある、という考え方があったがこれは男尊女卑に基づく陋習であり、高台院以外の多くの女性との間にも子が出来にくかった(長浜城時代の子を事実として含めれば、夭折した男児二人、女児一人が秀頼の前にいたことになる)ことから、やはり秀吉自身が子供が出来ない(出来にくい)体質であったと考えるべきだろう。
家康が秀吉死後(厳密には前田利家死後)、すぐに豊臣家の勢力を削ぐ事に傾注したという動きも、当時既にそうした疑念が広まっていた傍証であるという考え方もある。
[編集] 伝説
死亡について 死体が判明しなかったことから『日本西教史』クラセ・ジアンでは落城時に死亡とも母妻をともなって辺境の大名に落のびたとあり、平戸のリチャード・コックス日記には城内に焼死とも薩摩、琉球に逃げたともあり、また、大坂城落城後、上方に「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きものいたり鹿児島へ」という童歌がはやったことなどから秀頼は自害せず太閤恩顧の武将により密かに救出され落ち延びたとする脱出の風説が流れたことがうかがえる。
誰が秀頼を匿ったかについては、次のとおり島津、加藤など諸説がある。
- 熊本城には「昭君の間」という部屋があり、ここが秀頼の居室であったとの言伝えが残されている。
- 鹿児島県鹿児島市谷山に200人の落人があったがそれが秀頼と噂されたとあり、『左衞門佐君傳記稿』にはこのちに秀頼公の墳あると記す。
- 鹿児島県鹿児島市上福元町木之下に「伝秀頼公由緒地」の碑のある石塔の墓がある。
- 大分県日出町長流寺に伝秀頼の息子国松の五輪等の墓がある。
- 天草四郎の父親との説もある。天草四郎に秀綱という名があると鹿児島で伝えられている。
- 蒲鉾が大の好物であったという。
[編集] とよとみ「の」
「豊臣」姓とは「源」「平」「藤原」などと並ぶ本姓であるが、この本姓というものは「徳川」や「織田」、そして「羽柴」といった単なる名字・苗字とイコールではない(具体的には本姓、名字のそれぞれの項目を参照されたい)。
その本姓を用いた「豊臣秀頼」という名は、言うなれば「源義経=みなもとのよしつね」や「平将門=たいらのまさかど」と同じで、本姓の読みである「とよとみ」と名の読みである「ひでより」の間に所属を意味する「の」を入れて「豊臣秀頼=とよとみのひでより」とするのが正しいとも言えるが、少なくとも現代では「とよとみひでより」と「の」は無しで呼ぶのが一般的である。