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小渕恵三 - Wikipedia

小渕恵三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第84 代内閣総理大臣
小渕 恵三
(おぶち けいぞう)
生年月日 昭和12年1937年6月25日
出生地 群馬県吾妻郡中之条町
出身校 政治学修士(早稲田大学)
学位・資格 光山社役員・大学院生
世襲の有無 2世
父・小渕光平衆議院議員
在任期間 平成10年1998年7月30日
 - 平成12年2000年4月5日
選挙区 群馬5区
所属(推薦)党派 自由民主党

小渕恵三(おぶち けいぞう、1937年6月25日 - 2000年5月14日)は、昭和・平成期における日本政治家衆議院議員(12期)。内閣総理大臣第84代)。群馬県名誉県民。正二位 大勲位。血液型A型

内閣官房長官外務大臣自由民主党総裁などを歴任。「人柄の小渕」と呼ばれた人柄の良さなどを生かし、内閣総理大臣にまで登りつめた。自由党公明党連立政権を樹立し(自自連立、自自公連立)、現在の政府与党の枠組みをつくった。また、不況のどん底にあった日本経済の復興にも尽力し、景気回復への道筋をつけた。郵政族の実力者として知られ、郵政事業懇話会会長などを歴任した。

目次

[編集] 概要(出生 - 自民党議員)

[編集] 出生-早稲田大学時代

1937年、群馬県吾妻郡中之条町に製糸業を営む小渕光平(衆議院議員・群馬県トラック協会会長)・小渕千代光山社役員)夫妻の次男として生まれる。中之条町立中之条中学校1年の時、衆議院議員に当選したものの、小学校しか出ていなかったため強烈な学歴コンプレックスを抱えてしまった父の強い意向により学習院中等科に編入。以後は東京都北区王子に移住。

中等部卒業後、東京都立小石川高等学校進学を志すも断念。都立北高校に進学。在学中は文学を耽読。太宰治に傾倒する。また、高瀬学の主宰した学内の読書サークル「月曜会」に加入し、プラトンなどの輪読を行った。司馬遼太郎に喚起される。浪人中は予備校にも通わず太宰研究に没頭。

二浪の末、早稲田大学第一文学部英文学科に進学。当初は文学を耽読する生活を送っていたが、父・光平が衆議院議員在職中に脳梗塞で志半ばで無念の死を遂げると、父に投票してくれた有権者・選挙活動を手伝ってくれた女工らへの責任を感じ、政治家になることを決意する。

そこで一念発起し、人格改造に着手。政治家になるためのスキル獲得のため、サークル活動に積極的に取り組んだ。雄弁会(弁論術を学ぶため)、富木流合気道(日本合気道協会)の合気道部(乱闘国会を目の当たりにして。小渕は合気道四段)、詩吟の会(声をよくするため)、書道部(政治家になれば揮毫を求められると思ったから)、観光学会(堤義明主宰)(選挙区の群馬3区は四万温泉沢渡温泉等の温泉地のため)、アジア友の会、沖縄東京学生文化協会など、数多くのサークルに所属した。加えて、選挙対策として吾妻青年政治研究会会長・群馬早稲田会会長等を歴任。着実に地歩を固めていった。

[編集] 政治家へ

小渕光平死亡後、1960年第29回衆議院議員総選挙があった。しかし、当時小渕にはまだ被選挙権がなかった。そこで、地元では元参議院議員群馬県知事長野県知事を歴任した伊能芳雄らを立てたが落選。結果的にこの時、伊能が議席を取れなかったことが小渕の政界進出を導いた。大学院在学中の1963年、海外視察旅行に行った。当時アメリカの施政権下にあった沖縄県から出発し、台湾タイインドネシアパキスタンインドスリランカイランサウジアラビアクウェートウガンダエチオピアエジプトトルコポルトガルスペインノルウェーフィンランドフランススイスドイツイタリアイギリスアイルランド,アメリカアルゼンチンチリウルグアイブラジルなど計38ヶ国を歴訪。アメリカ滞在時、一旅行者として行っただけにもかかわらず、強引に当時司法長官であったロバート・ケネディに面会し、サインをもらったという

早大大学院在学中の1963年11月、第30回衆議院議員総選挙に旧群馬3区から自民党公認で出馬し、47350票を獲得し初当選(4議席中3位当選)。26歳という若さであった。父の地盤は脆弱だったが、4人区で自民2・社会2という構成だったので、自民党の県連などが全面的にバックアップしたために当選できた。同期には橋本龍太郎中川一郎大出俊田中六助伊東正義渡辺美智雄などがいる。

しかし、同一選挙区には福田赳夫中曽根康弘、社会党書記長に登りつめた山口鶴男と大物が揃い、いわゆる上州戦争が繰り広げられており、超有名政治家に挟まれていた小渕は、自らを「ビルの谷間のラーメン」「米ソ両大国の谷間に咲くユリ」と喩えていた。また、福田と中曽根は「福田料亭・中曽根レストラン」といわれたように、有権者に対し、福田は料亭、中曽根はレストランのごとく手厚いご馳走を用意してもてなした(饗応は選挙違反であるが、事実上野放しにされていた)。しかし小渕陣営はせいぜい手製のおむすびかかけそばを用意するのが精一杯で、"小渕飯場"と呼ばれるほどだった。このような有様だったので、毎回選挙には苦労した。しかし、小渕は「金帰火来」という言葉に代表される地道な選挙活動を展開し、落選はしなかった。社会党が複数候補擁立を諦め、一時期候補を立てていた公明党も擁立を見送ると、群馬3区は1990年第39回総選挙で、連合が第二の候補を立てるまで事実上の無風区となった。その後も小渕は議席を維持した(連続12回当選)。


1967年、現在環境保護運動家として活動する大野千鶴子と結婚。仲人は橋本登美三郎

自民党内では、佐藤派→田中派→竹下派→小渕派と一貫して保守本流を歩き、自民党内の実力者として着々と地歩を固め、渡部恒三小沢一郎橋本龍太郎らとともに、いわゆる「竹下派七奉行」に列せられるなど、将来の宰相候補として期待された。また、竹下登に一貫して師事し、竹下直系として力を握った。1970年1月20日に郵政政務次官(第3次佐藤栄作内閣)に就任。就任時、「郵政省で政務次官をやるからには現場の職務を深く理解したい」と考え、郵政外務職員に混じって自ら郵便配達を行い、当時の郵政省職員、郵便局局員を驚かせ、また、支持を得ていった。こうしたパフォーマンスは現在では珍しくないが、当時としては異例で大いに話題をよんだ。(ただ、竹下登は「代議士が郵便配達員になったのではなく、郵便配達員が代議士になったようだ」と語ったという)

1972年、自民党総裁選で、田中角栄と福田赳夫が激突した。小渕は、派閥の長である佐藤栄作の意中の候補で、同郷の福田ではなく田中に投票した。そのため、福田首相を熱望していた群馬県民の怒りを買い、その年の暮れに行われた第33回総選挙で大苦戦を強いられた。また、そのときに小渕が展開した「バッファロー作戦」という選挙パフォーマンスがまた大不評で、結果的に落選こそ免れたものの全国最低得票で辛くも当選した

1972年7月12日に建設政務次官(第1次田中角栄内閣)に就任し、1973年11月25日には総理府総務副長官(第2次田中改造内閣)に就任した。このように、小渕は3回も政務次官に就任しているが、政務次官就任は通常2回が限度とされており、非常に異例であるといえる

1979年11月9日、総理府総務長官沖縄開発庁長官(第2次大平正芳内閣)として初入閣。同期のなかで大臣になったのは最も遅かった。

この間、木曜クラブ常任委員会議長として竹下総裁実現に奔走。1987年11月6日に発足した竹下登内閣で内閣官房長官に就任し、内閣総理大臣臨時代理を務めた。また、官房副長官を務めた小沢一郎とのコンビは、竹下によって「小・小コンビ」(スモールコンビ)と呼ばれた。

[編集] 「平成おじさん」から首相へ

官房長官時代に天皇昭和天皇)が崩御元号変更にあたり、記者会見で新しい元号平成」を公表した。新元号の発表は、国民的な注目を集めていたこともあり、小渕は「平成おじさん」として一躍超人気者となり、ステッカーが発売されるなどした。小渕が恭しく「平成」と書かれた額を掲げるシーンは、いまだに時代を象徴する映像として多く利用されている。

昭和天皇崩御にともない、官房長官として大喪の礼などの重要課題を取り仕切るなど、抜群のリーダーシップを発揮し、重要課題を乗り越えた。官房副長官(事務)だった石原信雄とは同郷ということもあり、その連携は強固であった。

しかし、官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に堀内俊夫環境庁長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。

1991年4月、当時自民党幹事長だった小沢一郎が、東京都知事選挙に際し、NHK論説主幹だった磯村尚徳を強引に担ぎ出したものの、自民党都連は小沢に反発し現職の鈴木俊一を推すという分裂選挙を引き起こし、結局鈴木が完勝。小沢が引責辞任したため、自由民主党幹事長に就任。このとき、金丸は小渕幹事長就任の経緯について「ファースト・インプレッションだ」と語った。

1992年10月経世会(のち平成研究会。竹下派)会長の金丸信東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれると、金丸の後継をめぐって小沢一郎と反小沢派の対立が激化。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕との間で後継会長の座が争われた。一時は羽田の会長就任に傾いたが、小沢の政治スタイルへの反発が強く、小渕が後継の派閥領袖となった。しかし小沢、羽田らは反発して改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。1993年、羽田らは自民党を離党して新生党を結成した。

その後、1994年に自民党副総裁に就任したものの、党務に従事したため、重要閣僚のポストには無縁で埋もれかけた。

1995年、自由民主党群馬県支部連合会の会長選挙に際し、衆院選での小選挙区の候補者選考をめぐって小渕に不満を持っていた中曽根康弘が小渕の県連会長続投に異議を唱え、それに同調した福田康夫らにより小渕は自民党群馬県連会長の座を退任に追い込まれた(後任は尾身幸次元経済企画庁長官)。群馬県では「小渕の政治生命もこれで終わり」という声がもっぱらであった。

1996年1月村山富市首相の辞任に伴い、小渕派の橋本龍太郎が内閣総理大臣に就任。小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、野中広務らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。橋本の対抗馬であった河野洋平とソリの合わなかった加藤紘一に党幹事長のポストを渡すなどの工作を行った。

また、同年10月第2次橋本内閣の発足に当たって、衆議院議長就任の話がもちあがる。小渕自身、一時は意欲を示したが、いわゆる「上がりポスト」である議長になれば将来の首相の芽がなくなると地元の支持者たちが猛反対し、側近の額賀福志郎青木幹雄綿貫民輔らや秘書の古川俊隆らも反対であったため、固辞した。小渕の名前が消えた後、議長には竹下に近い伊藤宗一郎が就任した。

1997年9月第2次橋本内閣改造内閣外務大臣に就任し表舞台に復帰。対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)を外務省の強い反対を押し切って締結するという歴史的な業績を上げた。この事業に関しては、政敵の土井たか子菅直人からも高い評価をうけている。また、「人間の安全保障」(ヒューマン・セキュリティ)の概念を打ち出したことなどが功績として挙げられる。日本でもっとも豊富なアセアン人脈を持つことでも知られ、東南アジア等での外交も積極的に展開した。在任中に開催された長野オリンピックでは、開会式の演出を旧知の間柄である浅利慶太に依頼し、オリンピックを成功へと導いた。

1998年7月30日第18回参議院議員通常選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本の後継首相になる。しかし、橋本と同派閥の小渕の登板に、当初は各方面から批判を浴びることとなった。(首相としての活動は別記)

首相在任中の2000年4月2日に、脳梗塞を発症し(前日から兆候が見られたとも言われる。一例としては記者の質問に対して答弁できず無言になり、言葉を回答するのに10秒前後の時間を費やした。これは一過性の軽い脳梗塞の発症と言われ梗塞が回復したとき言葉を出せたとされる。この様子は余りにも有名。)順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院する。執務不能となり、内閣官房長官の青木幹雄を首相臨時代理に指名したとされる。青木の首相臨時代理就任に際し、脳梗塞で意識を失いつつあった小渕本人に、指名を行うことが出来たか否かが、野党・マスメディアに「疑惑」として追及された。小渕が倒れたことを発表した青木の記者会見で、記者から「脳死ではないのか?」との異議も出たが、青木はこれを否定した。

家族は昏睡状態の小渕に好きな音楽(クラシックや、沖縄の小学生の合唱曲等)を聴かせたが、意識を取り戻すことはなかった。倒れてから約1か月半を経た同年5月14日午後4時7分に、病室で家族に見守られながら亡くなった。享年62。翌日、新聞各紙は小渕の死を一面トップで報道し、テレビニュースでもトップニュースとして伝えられた。また、ワイドショーでも大きく取り上げられるなど、多くの国民からその死を悼まれた。なお奇しくも父と同じ病気で倒れ、同じ病院で亡くなっている。

5月15日、その前日(死亡当日)の日付で大勲位菊花大綬章が贈られた。死後、村山元首相により衆議院本会議で弔辞が朗読された(衆院での総理大臣経験者への弔辞は、野党第一党党首が行うのが通例であり、本来なら民主党代表の鳩山由紀夫が弔辞を読むはずであった。しかし、遺族側がこれを拒否し、例外的に総理大臣経験者で野党社会民主党衆院議員(前党首)の村山による弔辞となった。当時、鳩山は小渕のドコモ株疑惑(実兄の小渕光平 (2代目)と秘書の古川がドコモの未公開株を保有し、実質70億円とも90億円ともいわれる利益を得たとの疑惑)を強烈に追及していた。これが急死の一因(野中広務談、野中は後日、国会で、小渕への哀悼の意を表明した鳩山を「前首相の死の一因があなたにあったことを考えると、あまりにもしらじらしい発言」と、痛烈に批判した)とも言われ、遺族は鳩山に強烈な悪感情を抱いていたという。とは言え、小渕の体調のために公の問題の追及に手心を加えることは、支持者に対する裏切りと言え、鳩山を責めることはできない。

6月8日日本武道館において内閣・自民党合同葬が執り行われ、それに合わせた弔問外交も行われた。

2か月後の2000年の衆議院選挙には次女の優子が後継として群馬5区から出馬し、次点の山口鶴男(元日本社会党書記長・元総務庁長官)に13万票以上の大差をつけて当選した。(以後3期連続当選)

2006年5月、七回忌を前に「小渕元首相を偲ぶ会」が開催され、森喜朗・橋本龍太郎・青木幹雄・小寺弘之ら多くの要人が参加した。死後6年も経つというのに、会場には2000人近い人が集まり、改めて小渕人気の高さを示した。また、席上では小渕優子の激励も行われたという。

[編集] 小渕内閣の実績

1998年の参議院選挙で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると、橋本内閣は総辞職に追い込まれ、小渕が自民党総裁選に出馬した。当初、橋本からの政権禅譲が期待されたが、梶山静六小泉純一郎が総裁選に出馬し、激しい選挙戦を展開。田中眞紀子から、「梶山は士官学校卒業だから「軍人」、小泉は変な人だから「変人」、そして小渕は「凡人」」などと評されるなど、世論の厳しい批判にさらされた。しかし、本来小泉に投票しなければならないはずの亀井静香らが梶山に票を流すなどの工作もあり(後に亀井らは清和会を離脱)、梶山と小泉を破り党総裁に就任した。

7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任。しかし、与野党が逆転している参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、マスコミの小渕叩きは尋常ではなかった。新聞誌上に「無視された国民の声」などという国民を扇動する見出しが並び、就任早々から「一刻も早く退陣を」などと書きたてた新聞もあった。また、江藤淳に「天下の奇観・小渕内閣」と批判されたり、永六輔には「あんな顔(小渕の顔)を毎日見なければならないかと思うとウンザリする」とまでいわれるなど、マスコミ迎合の文化人の小渕イジメは苛烈を極めた。

総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。この概念は石川嘉延により引き継がれ、2005年現在、静岡県のスローガンの一つとなっている。

同年10月、金融再生法案は野党・民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で防衛施設庁調達実施本部背任事件をめぐって、額賀福志郎防衛庁長官問責決議が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。この時から、当時の参議院議長斎藤十朗と政治手法をめぐって火花を散らしていた。

しかし、その一方で、政権基盤の安定を模索し、野党の公明党自由党に接近。11月に公明党が強引に主張した地域振興券導入を受け入れ、自由党党首・小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。

1999年1月、自由党との連立政権発足。この事で政権基盤が安定し、小渕は強力なリーダーシップを発揮し、周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法通信傍受法住民票コード付加法(国民総背番号制)など、「内閣の一つや二つは潰れる」とまでいわれていた重要法案を次々に成立させた。この様な政治手腕に対して中曽根康弘元総理は文藝春秋誌において「真空総理」と評した。

当初極めて低かった支持率も内閣成立後じわじわと上昇した。逆に時が経つにつれてその性格や気配りが報道関係者や国民の心を掴み、「ブッチホン」等の流行語を生み出すまでの人気を得るに至った。佐野眞一により「ハイパー庶民」とも呼ばれた。又、財政再建への道筋をつけた事や、外交面での手腕など、政策的にも高い評価を受け、政権の長期化が予想された。ただ、本人はあくまで冷静で、「支持率が上がったからといって一喜一憂してはいけない。政権発足時に比べれば支持率は大きく上昇したが、今後、支持率は反転し低落傾向に向かうだろう。その時、もう一度支持率を上昇傾向に向かわせられるかどうかが勝負だ」と語っていた。

同年9月、自民党総裁選でYKKの一角・加藤紘一元防衛庁長官と山崎拓元防衛庁長官を圧倒的大差で打ち破り総裁に再任。10月に公明党が正式に与党参加。続く内閣改造党三役人事では、幹事長・森喜朗を留任させ、総務会長には加藤派が推挙した小里貞利を拒否、政調会長・池田行彦を一本釣りし総務会長に横滑り起用し、加藤のライバルであった元総裁で早稲田出身の河野洋平を外相に起用した。又、山崎派が推挙した保岡興治の入閣も拒否し、早大雄弁会の先輩・深谷隆司を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事と囁かれた(加藤・山崎の出馬は当初から勝ち目がなく、総裁選を無投票でなく投票にして党の活性化をはかるという建前と、総裁候補として一度総裁選に名乗りを上げるために行われた側面が強い。しかし、小渕は無投票再選にこだわった。人事後に、加藤・山崎派への冷遇に懸念を表明した橋本派幹部に対して、「あいつは俺を追い落とそうとしたんだぞ」と言葉を荒げたといわれる。好々爺と思われた小渕の激しい一面を見せた機会であった)。

又、この時の人事では同時に持ち前の気配りを発揮し、早稲田大学雄弁会OBから玉沢徳一郎農林水産大臣、深谷隆司通産大臣、青木幹雄官房長官、森喜朗自民党幹事長を起用。又、地元の群馬県から福田赳夫の娘婿の越智通雄金融再生委員長、中曽根康弘の息子・中曽根弘文文部大臣、山本富雄の息子・山本一太外務政務次官を起用した。

2000年2月、自由党の要求を受け衆院の比例代表区定数を20削減する定数削減法を強行採決で成立させた。3月には、教育改革国民会議の開催を始めた。

同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、連立離脱を通告されるが、翌日に脳梗塞で緊急入院。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。いわゆる五人組によって後継に森喜朗が選出され、小渕内閣の閣僚は、小渕を除いて森内閣に引き継がれた。

小渕内閣の特徴として、実力のある重量級の国務大臣を次々登用した事が挙げられる。総理はあくまで全体の方針を策定するだけで、各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せるというのが小渕の基本姿勢であり、チームワーク型の内閣である。組織論では、総理が強いリーダーシップを執り国務大臣はその補佐に徹するだけの小泉純一郎時代の内閣のような大統領型内閣と、組織運営の違いがよく対比される。

また、「日本一の借金王」と自称したように、無駄な公共事業を推し進めた張本人として批判されることもある。合計約42兆円の経済対策の内訳は、たしかに公共事業が約4割を占めているが、減税や金融対策などにも充てられた。在任中は、日本銀行ゼロ金利政策やアメリカの好景気もあって、経済は比較的好調で、ITバブルが発生した。

[編集] 人物

  • 郵政省が所管するアマチュア無線に造詣が深く、あまり知られていないが熱心なアマチュア無線家でもあり、議員で構成する「国会アマチュア無線クラブ」の会長も務めていた。1986年8月13日の日本初アマチュア衛星JAS-1の打ち上げに大きく貢献。また、アマチュア衛星JAS-1b・アマチュア衛星JAS-2の打ち上げにも貢献した。
  • 学生時代から沖縄問題に関心を持ち、後の九州・沖縄サミット開催実現につながった。同サミットの会場となった沖縄県名護市の万国津梁館近くには、小渕の像が建立されている。(群馬県中之条町吾妻郡総合図書館の駐車場にも、小渕恵三の銅像が建っている。ちなみに、同町内には、佐藤栄作の揮毫による実父の小渕光平の顕彰碑も建っている)
  • 愛称は「恵ちゃん」、または「おぶっちゃん」「ぶっちゃん」。学習院時代のあだ名は「群馬」。早稲田大学雄弁会時代は「文教委員長」と呼ばれていた。
  • 佐野眞一は小渕の庶民的出自よりハイパー庶民と命名。
  • 河口湖別荘を建築した竹下に誘われ、小渕も竹下の横に別荘を建築。しかし、途中で建設会社が倒産し、別荘としては機能しなかった
  • 浜田幸一には買われていた。浜田幸一の大ベストセラー「日本をダメにした九人の政治家」のなかでも、中曽根康弘の部分で小渕に触れ、「まじめな、しっかりした政治家」「これからは小渕君のような人間が引っ張るような形にしなければ自民党は終わりだ」などと褒めていた
  • 江沢民中国国家主席(当時)の来日時、江主席の日本に対する謝罪要求をはねつけた。一説では、謝罪要求の受け入れを促す外務官僚を、机を叩いて怒鳴りつけたと言われる。
  • 好物は焼肉温泉まんじゅう。また、馬刺しホルモン焼きも好きだった。特に焼肉では牛が好きで、都内の人気焼肉店『スタミナ苑』に総理在任中も頻繁に足を運んでいた。また、夫人の手料理の中では、炊き込みご飯コロッケを特に好んだ。小渕の自家用車の運転手によれば、甘いものが好きで、アンパン団子をよく買って食べていたという。小渕はそうしたときは必ず運転手にも団子を買ってやり、パンは半分に割って、運転手にあげていたという。この運転手は小渕の死後、毎日新聞のインタビューに答え、「やさしくて、あれ以上の先生はいません」と涙ながらに語った。
  • 趣味はの置物の収集・映画鑑賞・音楽鑑賞(クラシック)・絵画鑑賞、演劇鑑賞など幅広い。また、アマチュア無線や切手収集にも造詣が深かったが、これらは小渕が郵政族であったことと密接な関係があると思われる。これらに加え、前述したように読書を好み、太宰に傾倒した。これに付随して、太宰の本を求めて各地の古本屋を巡るなど、古本収集も熱心に行い、太宰の初版本などのコレクションを持っていた。
  • 人事院が2000年に実施した、国家公務員1種・外務公務員1種採用の新人を対象にしたアンケート「新人官僚が考える理想の上司」で、当時中日ドラゴンズ監督だった星野仙一に次いで2位に入った。これは、首相としては1992年の調査開始以来最高順位であり、小渕人気が若手エリート官僚にも浸透していたことを示した。
  • 首相としてはじめてベストファーザー賞を受賞した
  • また、あまり知られていないが、歴代で初めて修士号をもった内閣総理大臣であった。

[編集] 年譜

  • 1937年 出生
  • 1963年 衆議院議員選挙初当選
  • 1979年 大平内閣に総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣
  • 1986年 衆院予算委員長に就任
  • 1987年 竹下内閣で官房長官に就任
  • 1991年 自民党幹事長に就任
  • 1994年 自民党副総裁に就任
  • 1997年 橋本内閣で外務大臣に就任
  • 1998年 自民党第18代総裁に就任し、第84代内閣総理大臣に就任
  • 2000年 脳梗塞のため永眠

[編集] 名言

  • (ゴルフ場で女子大生に)「ボク、知ってる? コレ、コレ(額を掲げるまねをしながら)」
  • (景気低迷時に、八百屋で)「カブ上が~れ~」
  • ナイジェリアイボ族では"オブチ"という単語が"It's god”という意味であると聞き)「俺も神様だ」
  • 大相撲で優勝した琴錦功宗のパーティーで)「群馬の名物は、カカア天下・コンニャク空っ風生糸とみな"K"がつくが、今回琴錦のKが加わった。私のケイゾウもKなのでよろしく」
  • ("冷めたピザ"といわれ)「レンジでチンすれば温かくなる。みなさんもホットでクイックな小渕ブランドのピザを売ったらどうか」
  • (国会での強行採決を批判され)「多数決はいかんというが、選挙で得票の低い人から当選するとなったら、私を含めここにいる先生は全員当選してしまう」
  • ズンドコ節で)「終戦講和は吉田さん、日ソ交渉鳩山さんで、今や竹下ふるさと創生、10年たったら小渕さん」
  • 「小渕内閣は3日ももたんといわれていたのに3週間持ち、3ヶ月持ち、この間300日を越えました」
  • 「人気の橋本、実力の小沢、そして人柄の小渕です」
  • メジャーリーグでの始球式後)「小渕晴れだ」
  • BBCのインタビューに答えて)「私はオブチだが、オプチミストだ」

[編集] 村山富市元首相による追悼演説(抜粋)

サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。

思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために二十三万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。

革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した一九六〇年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。

サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。だが、やすきにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。

七月二十一日から二十三日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いをはせるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和のたっとさを改めて心に刻むはずです。

君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。だが、君ならそれで十分だった。君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。

今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。

[編集] 主な名称・キャッチコピー

  • がけっぷち内閣(土井たか子) — 小渕の「ぶち」とがけっぷちの「ぷち」をかけている
  • 泥舟内閣(加藤芳郎
  • 真空総理・真空器官(中曽根康弘)
  • スポンジ人間(竹村健一
  • 凡人(田中真紀子)
  • 非凡人(小泉純一郎
  • ボキャ貧(自称) — 「ボキャブラリー貧弱」の略
  • イラ渕(自称)
  • 日本一の借金王(自称)
  • 冷めたピザタイム誌)
  • 暗愚の帝王
  • 平成おじさん
  • ケイゾー議員
  • 猛牛
  • 人柄の小渕

[編集] 交友関係

  • 橋本龍太郎
  • 堤義明 
  • 玉沢徳一郎 雄弁会の先輩。衆院選に初出馬した小渕を献身的にサポートした
  • 堀川とんこう 小学校の同級生。
  • 村山富市 小渕死去を悼み弔辞をよむことを、小渕家から要請された(これは、自民党総裁経験者の追悼演説は、歴代、日本社会党委員長が行っていたことから、最後の日本社会党委員長の村山に要請された。)

[編集] 主な役職

[編集] 自由民主党での主な役職

  • 自由民主党総裁(1998-2000)
  • 自由民主党副総裁(1994)
  • 自由民主党幹事長(1991)
  • 自由民主党副幹事長
  • 自由民主党国会対策副委員長
  • 自由民主党総務
  • 自由民主党顧問
  • 自由民主党青年部長
  • 自由民主党学生部幹事
  • 自由民主党こんにゃく対策議員懇談会代表世話人
  • 自由民主党電気通信問題調査会長
  • 自由民主党都市公園緑地対策特別委員長
  • 自由民主党医療基本問題調査委員長
  • 自由民主党群馬県支部連合会会長
  • 自由民主党衆議院群馬県第5区支部長
  • 自由民主党新聞販売懇話会会長

[編集] 衆議院での主な役職

  • 衆議院大蔵委員長
  • 衆議院予算委員長
  • 衆議院安全保障特別委員長
  • 憲政記念館運営委員

[編集] その他の役職

  • 日本釣振興会会長
  • みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長
  • 郵政事業懇話会会長
  • 自動車整備議員連盟会長
  • 消防議員連盟会長
  • 映画議員連盟会長
  • 釣魚議員連盟会長
  • 浄化槽対策議員連盟会長
  • 情報産業振興議員連盟会長
  • 大規模リゾート建設促進議員連盟会長
  • 大学設立推進議員連盟世話人
  • 日本・スリランカ友好議員連盟会長
  • 日本・ベトナム議員連盟会長
  • 日本・モルディヴ友好議員連盟会長
  • 日本ブラジル国会議員連盟副会長
  • 日本アルゼンチン友好議員連盟会長
  • モザンビーク共和国議員連盟名誉顧問
  • 日本会議国会議員懇談会発起人
  • 国会アマチュア無線クラブ会長
  • 国会フィラテリスト議員クラブ会長
  • 国際連合貢献議員研究会会長
  • 国土開発幹線自動車道建設審議会会長
  • 阪神・淡路復興対策本部長
  • 中央省庁等改革推進本部長
  • 男女共同参画推進本部長
  • 産業構造転換・雇用対策本部長
  • 高度情報通信社会推進本部長
  • 地球温暖化対策推進本部長
  • 障害者施策推進本部長
  • 放射能漏れ事故対策本部長
  • 食料・農業・農村政策推進本部長
  • グアテマラ大統領就任式特派大使
  • 対ロシア・中央アジア対話ミッション団長
  • パレスチナ選挙監視団団長
  • 群馬県アマチュアボクシング連盟会長
  • 木曜クラブ常任委員会議長
  • 経世会事務総長
  • 経世会会長(1993-)
  • 平成研究会会長

[編集] 賞罰

[編集] おもな受賞歴

[編集] 栄典

[編集] 家系

[編集] 家族・親族

[編集] 系譜

  • 小渕氏
信平━━光平━━┳光平 
        ┗恵三 ┏剛
         ┣━━┣暁子
         千鶴子┗優子             

[編集] 主な著作・論文

  • 「政治と文学」(早稲田大学卒業論文、1962年)
  • 「三十九人目の大蔵委員長」(1977年)
  • 「鈍牛 角を砥ぐ」『諸君』(1998年)

[編集] 主な出演番組

[編集] 関連文献

  • 「石油と砂漠と人間とー文化と経済から中東を語る」(小渕恵三対談集)上毛新聞社
  • 「小渕恵三の615日。―第84代内閣総理大臣の全公務記録」光進社
  • 「小渕恵三 全人像」後藤謙次
  • 「自民党の若き獅子たち」大下英治
  • 「永田町の”都の西北”」大下英治
  • 「凡宰伝」佐野眞一
  • 「父のぬくもり」小渕暁子
  • 「父が読めなかった手紙」小渕暁子
  • 「三人の総理と一人の親友について語ろう」竹村健一
  • 「奔流の中の国家」櫻田淳
  • 「健児の塔」松本国雄
  • 「激録!総理への道―戦後宰相列伝 田中角栄から森喜朗まで」大下栄治
  • 「野中広務 差別と権力」魚住昭
  • 「政治とは何か 竹下登回顧録」竹下登
  • 「永田町大乱」鈴木棟一

[編集] 関連項目

[編集] 関連人物



[編集] 外部リンク


 内閣総理大臣
第82・83代
橋本龍太郎
84
1998 ‐ 2000
第85・86代
森喜朗
自由民主党総裁
第18代: 1998 ‐ 2000
先代:
橋本龍太郎
次代:
森喜朗
外務大臣
1997 ‐ 1998
先代:
池田行彦
次代:
高村正彦
自由民主党副総裁
1994
先代:
金丸信
次代:
山崎拓
自由民主党幹事長
1991
先代:
小沢一郎
次代:
綿貫民輔
内閣官房長官
1987 ‐ 1989
先代:
後藤田正晴
次代:
塩川正十郎
沖縄開発庁長官
1979 ‐ 1980
先代:
三原朝雄
次代:
中山太郎
総理府総務長官
1979 ‐ 1980
先代:
三原朝雄
次代:
中山太郎
経世会会長
1992 ‐ 1996
先代:
竹下登
次代:
最終
平成政治研究会会長
1996
先代:
初代
次代:
最終
平成研究会会長
1996 ‐ 1998
先代:
初代
次代:
綿貫民輔
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