山崎拓
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山崎 拓(山﨑 拓、やまさき たく、本名:やまさき ひらく、昭和11年(1936年)12月11日 ‐ )は、昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(12回)。近未来政治研究会(山崎派)会長。
防衛庁長官(第49代)建設大臣(第61代)。自由民主党政務調査会長(3期)、党幹事長(2期)、党副総裁を歴任。
生年月日 | 昭和11年(1936年)12月11日 |
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出生地 | 満州国(現:中華人民共和国)大連市 |
出身校 | 早稲田大学商学部卒業 |
学位・資格 | 商学士 |
前職・院外役職(現在) | 福岡県議会議員 会社員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・安全保障委員会 日本国憲法に関する調査特別委員会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
福岡2区 |
当選回数 | 12回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(山崎派) |
党役職(現在) | 安全保障調査会長 沖縄振興委員長 憲法調査会特別顧問 |
会館部屋番号 | 衆・第2議員会館332号室 |
ウェブサイト | Fight!TAKU |
目次 |
[編集] 概要
福岡県ボウリング連盟会長、日本ソフトボール協会会長。いわゆる「防衛族」の実力者とされる。学歴は早稲田大学商学部卒業。学位は商学士(早稲田大学)。山拓(やまたく)と呼ばれる。
[編集] 経歴
満州国大連市(現在は中華人民共和国の大連市)で生まれた。たまたま、同じ日に母方の祖父の山口慶八が福岡県三池郡開村(現在の高田町の一部)で炭鉱開発に成功したため、父親に生まれてきた子の名を「開」とするよう電報を打った。父親は開拓の「拓」の字を名付け、読み仮名を「ひらく」とした。炭鉱開発と満州開拓を掛けた名前である。父方の祖父の山崎和三郎は飯塚炭鉱を経営し、玄洋社の幹部であった。
太平洋戦争敗戦後帰国し、福岡県福岡市で育つ。小学校3年生の時に片目を失明する。福岡教育大学附属福岡中学校、福岡県立修猷館高等学校、早稲田大学商学部卒業。学位は商学士(早稲田大学)。大学卒業後は大手タイヤメーカーのブリヂストンで5年間のサラリーマン生活を送る。一時期、選挙資金を稼ぐ為にシュウマイなどを「駅弁」として売り歩いたこともあり、後に自身が「九州でシュウマイを初めて売った男」と語っている。この商売は上手く行かずに畳んでいる。本人曰く「武士の商法」。
1967年に福岡県議会議員に当選。この頃に中曽根康弘に見出され、1969年の総選挙に無所属出馬するも落選。浪人生活を経て、1972年に衆議院に初当選し、その後建設大臣、防衛庁長官を歴任。
旧渡辺派に属していたが、1998年、近未来政治研究会(山崎派)を結成して独立。当時、渡辺派にはベテラン議員が他派に比べ抜きん出て多数存在しており、山崎への代替わりを拒んだため、中堅・若手が中心となって独立した。 1999年、盟友の加藤紘一とともに、「憲法改正」を掲げ自民党総裁選に出馬し、小渕恵三に敗北するも総裁候補としての認知を得たが、小渕首相の方針の下、徹底的に非主流派へと追いやられる。総裁選後は加藤派・山崎派のみが非主流派となった。次期総裁選へ向けて打開策を模索していたが、小渕首相が急死し、総裁選が行われることなく森喜朗が首相となり、反攻の切っ掛けを失う。追い詰められた加藤が低支持率の森内閣に対し「加藤の乱」を起こし、森喜朗首相の辞職を求めて加藤に同調。しかし、宏池会(加藤派)は森側に切り崩され、大失敗に終わった。その中で山崎派は衆議院議員の19人の内、脱落者を2人出しただけに留まり、結束の強さが評価された。
翌年、小泉首相就任後、党内に人脈を持たない総理に重宝され、2001年には自民党幹事長に就任。抵抗勢力の批判を一身に受け止め、小泉首相の防波堤となり続け、山崎の政治生活でもっとも力を発揮した時期となる。2003年9月の総裁選で、支持の見返りに山崎・竹中の更迭を要求された小泉は、山崎を幹事長から更迭したが、政権運営に欠かせないため自民党副総裁に起用した。
一時期はポスト小泉の有力候補とも言われたが、女性スキャンダルが度々週刊誌に取り上げられてイメージが低下した。取り上げた週刊誌に対し多額の損害賠償請求を行うなど法廷闘争をおこなったものの敗訴に終わっている。その渦中で行われた03年9月の第43回衆議院議員総選挙では、民主党の古賀潤一郎に敗れて落選し、副総裁を辞職した。この一連のバッシング報道には週刊文春を介した野中広務の指図も囁かれた。
しかし、2004年9月27日に首相補佐官に起用された。その後、参院選出馬を目指すも、スキャンダル疑惑を抱えた山崎を出馬させることへの抵抗が党内にあり、派内でも連敗は政治生命を決定的に失う事を意味するので見送りが主張された。また、当時自民党福岡県連に力を持っていた古賀誠や麻生太郎が公認を与えない等と牽制も行った。一旦、出馬を見送った山崎だったが、民主党の古賀議員の学歴詐称の責任を取った辞職に伴ない2005年4月24日に行われた衆議院議員補欠選挙で勝利し、国会にも返り咲く。議員復帰後、「衆議院郵政民営化に関する特別委員会」の与党筆頭理事に就任する為、同年5月20日に首相補佐官辞任を表明すると共に、衆議院において民営化法案の通過後に補佐官復帰を示唆。同日、首相はこれを了承した。同法案を巡る政局では自派閥から山崎の右腕と言われていた自見庄三郎の造反を許すものの脱落は最小限に留め、第44回衆議院議員総選挙では自身も選挙区で勝利し派の勢力も伸ばした。(この選挙で自見は落選、その後党の勧告に従い離党し、2006年に国民新党入りした。只、自見は過去に郵政大臣を務めていた事から郵政民営化に反対したという事情がある。ともに福岡県の都市部を地盤としていただけに山崎個人にとっては地元の盟友を失う打撃となった。)
しかし選挙を受け同年10月31日に発足した第3次小泉改造内閣で、これまでも主流派ながらも厚遇されて来なかった自派が完全に冷遇されたことに怒り、これを機に、自派を反主流派寄りの姿勢へ転換させたとも言われる。11月9日、超党派で靖国神社に代わる新たな追悼施設の建設を目指す議員連盟「国立追悼施設を考える会」を発足させ、会長に就任。
2006年3月13日、突然韓国を日帰りで訪問し、金大中前大統領や与党・ウリ党の鄭東泳議長、野党・ハンナラ党の李相得元事務総長と個別対談した。山崎本人は今回の訪韓を「私用だ」「表敬訪問だ」と発言していたが、「日韓の現状や将来についての意見交換をした」とした。また同じく冷遇されている加藤と共に次期総裁候補であった福田康夫を持ち上げて親中・親韓振りをアピールするなど小泉政権の路線を否定するような行動が目立ったが、これも首相も了解済みの「ガス抜き」に過ぎないとの見方もある。
積極的な憲法改正論者で、党内きっての安全保障の論客だが、一方ではハト派が多いとされるアジア・アフリカ問題研究会に早くから参加するなど、独自の政治的スタンスを取っている。
[編集] 人物
柔道と野球が好きで、特に柔道は失明で臆病になった自分の心を奮起させるため中学から始め、最終的には六段になった。ソフトボールは地元事務所でチーム(拓サンデーズ)を組み定期的に試合をしている。また、日本ソフトボール協会の会長を務めている。
また、政策通でも知られる存在である。小泉政権下では靖国神社問題を除いて自身の政策を封印し、小泉改革の実現に奔走した。
政局にはそれほど強くない。小沢一郎ら羽田グループの離党の遠因を作ったと宮沢派の中堅幹部らから批判されたり、「加藤の乱」で加藤紘一に殉じての失脚劇、2006年の自民党総裁選挙の反安倍勢力の結集に失敗したことなどが挙げられる。しかし一方で人望が厚く、渡辺美智雄との師弟関係は強固であったし、「加藤の乱」でも派内の大多数から身を預けられた。
座右の銘は「可能性を信じる」。
「政治家になっていなかったらAV男優になっていた」と述べた事を愛人とされる女性に暴露され、名誉毀損として裁判を起こしたが後に訴えを取り下げた。
[編集] 政治履歴
- 1972年 第33回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し初当選
- 1978年 厚生政務次官(第1次大平内閣)
- 1980年 防衛政務次官(鈴木内閣)
- 1984年 内閣官房副長官(第2次中曾根改造内閣)
- 1989年 防衛庁長官(宇野内閣)
- 1991年 建設大臣(宮澤内閣)
- 1995年 自由民主党国会対策委員長、
自由民主党政務調査会長(3期)を歴任
- 1998年 旧渡辺派を離脱して山崎派(近未来政治研究会)を結成
- 2001年 自由民主党幹事長(2期)
- 2003年 自由民主党副総裁
- 2004年 内閣総理大臣補佐官(非常勤、2005年5月辞任。総理特命事項担当。第2次小泉改造内閣)
- 2005年 衆議院議員補欠選挙で当選
また、1973年には渡辺美智雄、石原慎太郎、中川一郎らとともに青嵐会結成に参加したが、すぐに脱会している。
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『転換期の光芒 : 厚生政務次官日記』り-ぶる出版企画、1980年5月
- 『転機に立つ日本の防衛』り-ぶる出版企画、1982年5月
- 『アジア太平洋時代と日米安保 : 寄稿・講演・対談集』サンドケー出版局、1996年9月、ISBN 4914938987
- 『2010年日本実現』ダイヤモンド社、1999年7月、ISBN 4478180245
- 『憲法改正山崎拓 : 道義国家をめざして』生産性出版、2001年5月、ISBN 4820117106
[編集] 関連文献
- 『山崎拓・全人像』黒田京平著、行研出版局、1993年2月
- 『せんせい : わたくし山崎拓自民党幹事長の愛人でございました』山田かな子著、飛鳥新社、2003年4月、ISBN 4870315564
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Fight TAKU!(公式サイト)