菅直人
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菅 直人(かん なおと、昭和21年(1946年)10月10日 ‐ )は、日本の政治家。衆議院議員(9期)。民主党代表代行。
厚生大臣(第74代)、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代)等を歴任した。
生年月日 | 昭和21年(1946年)10月10日 |
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出生地 | 出生地:山口県宇部市 本籍地;岡山県御津郡建部町 |
出身校 | 東京工業大学理学部応用物理学科卒業 |
学位・資格 | 理学士(東京工業大学) |
前職・院外役職(現在) | 弁理士 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・懲罰委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
東京18区 |
当選回数 | 9回 |
所属党派(現在) | 民主党(菅グループ) |
党役職(現在) | 代表代行 ネクスト副総理大臣 東京都総支部連合会常任顧問 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館323号室 |
ウェブサイト | 菅直人の公式ウェブサイト |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 生い立ち
- 昭和21年(1946年)10月10日、山口県宇部市に父・菅寿雄(元セントラル硝子会長)、母・純子の長男として生まれる(本籍地は岡山県御津郡建部町)。宇部興産工場長だった父の転勤に伴い、三鷹市下連雀に転居した関係で、山口県立宇部高等学校から東京都立小山台高等学校に編入し、1970年東京工業大学理学部応用物理学科を卒業。1971年に弁理士試験に合格。
- 東京工業大学在学中は、左派の学園紛争に対抗する民族派学生グループの「学内正常化運動」(“学園正常化運動”とも)に積極的に参加。
[編集] 政界入り
- 市川房枝の選挙事務所代表として選挙参謀として市川の当選に尽力したことが政界入りのきっかけ。その後、1976年の第34回衆院選に東京7区(当時)から無所属で立候補し落選したが、こうした活動が江田三郎の目に止まり、誘われる形で社会市民連合に参加し1977年の第11回参院選では社会市民連合から出馬したがまたも落選し、1979年の第35回衆院選では社会市民連合から名称を変更した社会民主連合から出馬したが台風による低投票率による影響でまたも落選したが、1980年の第36回衆院選で初当選。土地問題などを中心に政策通として頭角を現す。
- 1981年には丸山ワクチンの不可思議な不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せている。
[編集] 与党時代
- 細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長をつとめる。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として、政策調整に当たった。因みに悪評高き「住専処理スキーム」決定時の与党政策責任者が菅である。また当時の自民党政務調査会長の加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれた。
- 村山内閣総辞職後、成立した第1次橋本内閣内閣で、厚生大臣(第74代)として入閣。薬害エイズ事件の処理に当たり、歴代厚生大臣たちが見つけられなかった厚生省の行政の過ちを徹底的に捜索する体制を敷き、行政の過ちを証拠立てた。(この時の捜索体制は、官僚内部からも官僚の操縦法として優れているという評判がたったほどに徹底したものだった。)行政の明白な過ちによってエイズに感染せざるを得なかった多くの悲劇的な被害者たちに対して、はじめて行政の責任を認めて謝罪した。その際大臣として厚生行政の責任者として土下座をして謝罪。被害者の感動を呼び、主要メディアはこぞって絶賛した。その為、一躍時の人となる。この際に副次的に官僚の説明責任という言葉を広めたことでも知られ、その点は功績としてカレル・ヴァン・ウォルフレンらから評価されている。
- 1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入り、問題解決の端緒となる。
- 1996年8月のO-157騒動の時には、「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根を買う消費者はほとんどいなくなり、結果倒産・破産するカイワレ農家が続出、自殺者まで出る事態となった。(そのほとんどが自営業者や零細企業である)そのため風評を考慮した結果、記者会見を開き、その場でカイワレのサラダを食べて、安全性のアピールをした。「O-157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」と主張した。
- 2004年2月19日、大阪高等裁判所が堺市のO-157感染とカイワレを食べたこととの因果関係が争われた裁判において、カイワレが原因とする判断は問題があり、厚生労働省に対してカイワレの生産業者に対して損害賠償を命じた。発表したことに関して判決では「公表することによって被控訴人が被る打撃や不利益に思いを至せば、その時点では、公表すべき緊急性、必要性があったものということはできない。」と主張。一部で異論もある。
- 参考:大阪高等裁判所 平成14年(ネ)第1531号 損害賠償請求控訴事件
- 上記の判決に対して、菅は、ホームページの今日の一言で、「大阪地裁でO-157の件でカイワレが原因という当時の厚生大臣(私)の公表の仕方に問題ありという判決がでた。東京の同じような裁判では発表の仕方は妥当(相当性あり)という判決であったが大阪は反対の結論。疫学調査の結果を十分な科学的根拠がないとしているが、集団食中毒などでは極めて有効な調査方法。裁判官の判断は疑問。」と反論している。
- 著書『大臣』(岩波新書)は、前書きで自身が「現役の政治家が岩波新書から本を出すとは異例だが」と書く通り、前代未聞の出来事でベストセラーとなった。
[編集] 民主党結党
- 1996年9月28日、鳩山由紀夫と民主党を結成。鳩山と共同代表となった。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。1998年4月27日に新進党解党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流して、新民主党を結成し、代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。
- 1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。橋本龍太郎首相は敗北の責任から内閣総辞職に追込まれた。首班指名選挙では、自由党と共産党は参議院では第一回投票から菅に投票し参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。自民党を揺さぶるかに見えたが、その後、金融国会では「政局にせず」との姿勢で、当初、協力的であった自由党の離反を招き、自自連立政権に道を開いてしまう。1999年(平成11年)の党代表選挙で鳩山由紀夫に敗北。党政策調査会長に就任する。
- 2000年(平成12年)には党幹事長に就任。2002年(平成14年)に党代表の鳩山由紀夫の辞任を受けて、党幹事長代理の岡田克也と党代表選挙を争い、党代表に再び就任した。その後、岡田には党幹事長就任を要請するなど党内融和を積極的に進めた。
[編集] 民由合併
- 2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した。同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェストに掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例区では自民党を上回った。そしてこの選挙を通じて、全ての政策分野について事後チェックを前提とした期限付きの明確な政権公約を各党が競い合うマニフェスト(政権綱領)選挙へと日本を導くきっかけとなったことは、菅の功績として否定できない。
- JR東海が研究しているリニアモーターカーに関心を持っており、2003年総選挙の少し前に同社の研究所を視察した。民主党政権ができたら中央リニア新幹線の実現に向けて前向きな政策をとることを示唆するものという観測がなされた。
[編集] 年金未納問題
- 2004年4月21日に行った会見で菅は「約束したことを何もやらない『やるやる詐欺』だ。総合点で言えば、30点くらいだ」と発言し、小泉首相の政策を批判した。因みに『やるやる詐欺』とは当時、流行していたオレオレ詐欺を捩って使った造語。
- 同年に江角マキコ出演のCM放送を機に、国民年金未納の国会議員が相次いで発覚した際、菅は「(与党の未納者に対して)ふざけてますよね。未納三兄弟っていうんですよ。」と選挙運動等で自民党議員に対する批判を展開した。その後、自身の未払いが発覚(後に、社会保険庁の過失による冤罪と判明)し、同年5月10日に党代表を辞任。
[編集] 宿敵からの勝利
- 2005年9月11日の第44回衆院選では、東京都の民主党候補では僅差ながらも唯一小選挙区での勝利を果たす。なお、この選挙では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認(比例単独2位)でついに立候補し、事実上の一騎打ちとなった。郵政民営化を前面に出す自民党に対して大逆風のなか全開票区で勝利し、面目を保った(土屋正忠候補は比例復活当選)。
- 土屋とは宿敵として対抗関係にあったが、2005年総選挙の少し前に行われた東京都議会議員選挙武蔵野選挙区、土屋の市長辞職を受けて行われた武蔵野市長選挙ではいずれも菅の推す候補が土屋側に勝利し、長年の対立に決着がついたとの観測がなされた。
- 同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補するが、2票差で前原誠司に敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されるがこれを固辞した。
- 党代表戦に敗れた後は団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動とバイオマスの活用を盛んに提唱している。
[編集] トロイカ体制
- 2006年4月7日、「メール問題」による前原執行部総退陣を受けて行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争うが、47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任を要請され承諾し、現在党代表代行として国会論戦について主に担当している。若手議員とのパイプ役を務めているともいわれている。
- また党幹事長の鳩山由紀夫とともに自民党の外交戦略などに不満を持つ加藤紘一や山崎拓との連携を示唆する発言をしている。ただ党代表の小沢一郎は「自公政権では駄目」と言うなら歓迎と言ったが、政権党にいる限りはないと冷めた目で見ているが、自公さ連立政権時代に加藤とは「KKライン」と呼ばれていたため注目が高まっている。
[編集] 人物評、政策
- 1980年の解散総選挙で議員に当選するまで、選挙で3回落選している(そのうち1回は参議院選挙)。また弁理士試験も3回落ちている。
- 1978年度版の平凡社百科年鑑に名前が載るなど、議員になる前からそれなりの知名度を持っていた。
- 当時菅の選挙を手伝っていたジャーナリストの下村健一(元TBSアナウンサー)によると、「初当選から十年で自民党に対抗しうる勢力をつくり、その後十年で天下をとる」話を聞かされていたという。(因みに下村以外に当時学生だった久和ひとみも菅の事務所に出入りしており、選挙の際はウグイス隊長を務めた。また、歌人の俵万智も久和ひとみの下でウグイス嬢を務めた。)
- 1999年に「週刊文春」で報じられた戸野本優子との不倫疑惑に関して菅自身は男女関係を否定。その際の「一夜は共にしたが男女関係はない」という表現が、世間の流行語となったことも。戸野本優子は、その後、菅直人と親交関係にある法政大学五十嵐敬喜教授の研究室に入室。
- 「イラ菅」というニックネームを持つ。短気激情型との評である。殴られたり蹴られた秘書も、過去には多数存在する。2006年の党代表選挙の際に、若手議員がかつて菅に怒鳴られた経験から支持を渋るエピソードが報じられたこともある。近年は丸くなったとも言われている。
- 愛妻家(恐妻家)としても有名である。
- 自民党議員に多い世襲を批判していた中で、菅源太郎が2003年の衆議院議員総選挙に岡山選挙区から民主党公認で立候補。一部からの異論に対しては地盤が異なっており、世襲とは言えないと反論。菅源太郎は2回連続して落選し、比例復活当選もしなかったため、民主党の公認基準では、次回の総選挙では公認されない。
- 菅直人のパフォーマンスは食べ物に関するものが多い。O-157でかいわれ大根が打撃を受けた時には、かいわれ大根、狂牛病が騒がれると牛丼、トリインフルエンザが騒がれると焼き鳥をそれぞれ食べた。(また自著『大臣』によるとかいわれ大根を食べるプレゼンテーションは知り合いの雑誌編集者からのアドバイスだったことを明らかにしている。)
- 防衛に関しては、自衛隊に治安維持活動、国際協力を行う部隊の創設を政策として持っている。
- 国会質疑における彼はかなりの攻撃型であり、小泉首相からも国債30兆枠についての公約違反を厳しく追及することによって「この程度の公約を守れなかったことは大したことではない」との失言を得ている。
- 猫好きであり、自宅には拾って来て育てている猫がいる。
- 2003年10月に北朝鮮の日本人拉致問題・核問題への対応を批判。その際に、当時民主党公認候補だった西村眞悟の応援演説の中で「フセインやスターリンの銅像が倒れた歴史の中で、北朝鮮のあの大きな銅像も倒れる日が来ると確信している」と述べると、北朝鮮は「もともと菅直人は何の政治哲学や政治能力もない愚かな政治家だ」と北朝鮮得意の謀略としての人格攻撃を菅に対して行い、話題を呼んだ。このことについて菅は不快感を隠さなかった。拉致問題に関しての菅は、拉致被害者全員の原状回復・核問題の解決・国交正常化・経済支援の三本柱を別々に行うのではなく、パッケージとして行う政策を提唱。
- 東京工業大学在学中に麻雀点数計算機を発明し、特許を取得し、いくつかの企業に製品化を持ち掛けたが、実用化には至っていない。現在もなおその試作機が存在する。
- 趣味はスキューバダイビング(ただし、ライセンスは取得していない)、囲碁。
- 1989年、韓国 盧泰愚大統領(当時)に対して送られた「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」に署名している。2002年にこの名簿の中に北朝鮮の拉致工作員である辛光洙が入っていることが判明。安倍晋三が批判して論議を呼んだ。
[編集] 一族
[編集] 家族・親族
[編集] 系譜
- 菅氏 中世の岡山県に勝田郡を拠点に活動し菅原道真の末裔を称する美作菅家党とよばれる武士集団があった。その一族の有元佐延の孫・佐常は下神目村に住み菅納左近と称して菅氏の祖となる。菅直人の父祖は代々下神目出身で、その末裔である。なお江戸時代の菅家は庄屋を務めた家であり現在も下神目には菅という名字が多く家紋は菅原氏の紋の梅鉢である。美作菅家党は有元家を宗家として近世作州の名門とされ、蓋然性として高いといわれる。一方、系譜の正統性は未詳。父祖の出自に関して鎌倉時代に台頭した有力農民あるいは土豪ではないかとする声も一部にある。
佐常……善三郎勝重━實太郎重秀━元太郎家重━實忠重━寿雄━直人━源太郎
[編集] 略歴
[編集] 学歴
[編集] 政歴
- 昭和51年(1976年)
- 12月5日 第34回衆議院議員総選挙 落選。
- 昭和55年(1980年)
- 6月22日 第36回衆議院議員総選挙 初当選。
- 昭和58年(1983年)
- 12月18日 第37回衆議院議員総選挙 2期目当選。
- 昭和61年(1986年)
- 7月6日 第38回衆議院議員総選挙 3期目当選。
- 平成2年(1990年)
- 1月24日 第39回衆議院議員総選挙 4期目当選。
- 平成5年(1993年)
- 7月18日 第40回衆議院議員総選挙 5期目当選。
- 平成8年(1996年)
- 平成9年(1997年)
- 平成10年(1998年)
- 4月27日 新民主党結党、党代表に就任。
- 平成11年(1999年)
- 平成12年(2000年)
- 6月25日 第42回衆議院議員総選挙 7期目当選。
- 9月9日 党幹事長に就任。
- 平成14年(2002年)
- 平成15年(2003年)
- 11月9日 第43回衆議院議員総選挙 8期目当選。
- 平成17年(2005年)
- 9月11日 第44回衆議院議員総選挙 9期目当選。
- 9月17日 党代表選挙で落選。
- 平成18年(2006年)
- 4月7日 党代表選挙で落選し、党代表代行に就任。
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『新・都市土地論』飛鳥新社、1988年12月、ISBN 4870310481
- 『国会論争「土地政策」』新評論、1992年11月、ISBN 4794801599
- 『変革の時代』開発社、1995年6月、ISBN 4759100938
- 『日本大転換 二十一世紀へ希望を手渡すために』光文社、1996年10月、ISBN 4334971261
- 『民益論 われら官僚主導を排す』(鳩山由起夫との共著)、PHP研究所、1997年7月、ISBN 4569556426
- 『大臣』(『岩波新書』)、岩波書店、1998年5月、ISBN 4004305586
- 『改革政権準備完了 私に賭けてください』光文社、2002年9月、ISBN 4334973582
- 『総理大臣の器 「菅」対「小泉」マニフェスト対決』幻冬舎、2003年10月、ISBN 4344004051
- 『政権交代のシナリオ 「新しい日本」をつくるために』(小沢一郎との共著)、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908
[編集] 関連文献
- 『がんばれ菅直人』板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810373304
- 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769
- 『菅直人の一歩 : 薬害エイズ問題でなぜ官僚に勝てたのか?』伊藤雄一郎、ハローケイエンターテインメント、1996年、ISBN 4584182469
- 『菅直人総理待望論 菅直人政権で日本はこう変わる』木下厚著、あっぷる出版社、ISBN 4871771482
- 『菅直人は天下を取れるか』山口朝雄著、エール出版社、1998年、ISBN 4753917576
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 菅直人の公式ウェブサイト(公式サイト)
- 菅直人氏動画メッセージ「団塊世代の第2ステージ」(超人大陸)
- 民主党 web-site
- 菅家系図
- 姫井家系図夫人の系譜
- 美作菅党系譜
- 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 菅原氏【1】
- O157とカイワレに関する損害賠償裁判控訴審判決
- 対談「HANDSHAKING」
- 早稲田大学人物研究会・菅直人講演録
- 民主党(1996 ‐ 1998)代表
- 初代: 1996 ‐ 1998
-
- 先代:
- 結成
- 次代:
- 民主党(1998 ‐)合流
- 民主党(1998 ‐)代表
- 初代: 1998 ‐ 1999
第3代: 2002 ‐ 2004 -
- 先代:
- 結成
鳩山由紀夫