大内啓伍
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大内 啓伍(おおうち けいご、1930年1月23日 - )は、日本の政治家。早稲田大学法学部卒。民社党・佐々木委員長の下で政審会長を歴任し社公両党と連合政権構想を取りまとめたが2度の衆参同日選で白紙撤回することとなる。細川内閣で厚生大臣となるが、民社党の解散に反対した。解散後は塚本三郎とともに自由民主党に参加した。
[編集] 略歴
- 1971年民社党の理論誌『革新』を創刊し、編集長に就任(寺井融によると、実務は寺井が行ったという。連載「裏方物語」 2)。その他、同盟・民社党の研修機関「富士政治大学校」校長等を歴任。
- 1976年第34回衆議院総選挙で、旧東京2区(中選挙区制)より初当選。激戦区で、党幹部でありながら毎回苦戦を強いられる。
- 1977年佐々木良作委員長の下で政審会長に就任。
- 1985年佐々木委員長の退任に伴い塚本三郎委員長の下で書記長に就任。
- 1986年衆参同日選で自身が落選する。
- 1989年2月塚本委員長のリクルート事件の絡む疑惑の責任を取る為に執行部が退陣=書記長辞任。
- 1990年2月第39回衆院選で復活当選し永末英一委員長が病気療養で辞任した為、委員長に就任。
- 1992年7月の参院選で民社党は、交渉会派から転落する敗北を喫した。
- 1993年7月の衆院選で15議席獲得するも民社党として最後の総選挙だった。8月6日細川連立内閣で厚生大臣に就任。
- 1994年4月羽田連立内閣で厚生大臣に留任するも6月に退任。村山連立内閣で自民党が与党に復帰。12月に民社党解党から新進党に参加すると見られたが、大内は塚本常任顧問と共に、創価学会が支持母体の公明党が新進党に合流するのを理由に不参加。塚本常任顧問=霊友会、大内=立正佼成会であった。塚本は直接、大内は自由連合を経由して、自民党に入党。自由連合では総裁の地位にあった。
- 1995年から2000年まで自民党東京都連の最高顧問に就任。
- 1996年10月の第41回衆院選では新井将敬に敗れ落選し、新井死去による補欠選挙は出馬断念。
- 2000年6月第42回衆院選では比例区に回るが再び落選。政界引退へ。
[編集] 著書
- 『朝のこない夜はない-保革伯仲から連合時代へ』富士社会教育センター出版局、1975年。
- 『われ、事に後悔せず』大和出版、1995年、ISBN 4-8047-1341-7。