秦
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秦(しん、ピン音:Qín、? - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。
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[編集] 歴史
[編集] 周代
秦は伝説によれば殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされる。しかしこの始祖伝説はおそらくは秦が中国に入った後に作られたものと思われる。秦の本当の出自は後に穆公が西戎の覇となることから考えて、西戎そのものではないかと考えられる。
紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったと言う。しかしこれも実際にあったことなのかは不明である。
秦が最初に興った所は現在の甘粛省礼県であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。
[編集] 春秋戦国時代
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、風俗的に中原諸国と大きく異なり、当初は野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いた。
九代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者と為り、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力を付けた。晋が驪姫(りき、驪は馬編に麗)の乱で混乱すると、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓の地で撃破した。更に恵公が死んだ後に恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになるが、文公死後には再び晋を撃破して、領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。
しかし、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。それでもそれなりの力は保持していたものの春秋中期以降の主役は北の晋と南の楚であり、それに西の秦と東の斉が脇を固める変則的な四強時代を作っていた。
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した。この内の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる。
この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制へと生まれ変わらせた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動により秦は徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に咸陽へと遷都した。
その後、孝公の子の恵文王の紀元前324年に王を名乗る。紀元前316年に恵文王は蜀(四川省)を占領し、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。
恵文王の子の昭襄王の時代に宰相・魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。しかし魏冄の権力があまりにも大きくなったことを憂慮した昭襄王は魏冄を退けて、代わりに范雎を登用する。范雎が進言したのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば近くの土地が手に入り、それはすぐに秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。紀元前260年に白起を趙に進行させ、白起は長平の戦いで趙軍を撃破し、趙の捕虜40万を坑(穴埋にして殺すこと)した。さらに紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収した。
この時期、東では斉が伸張しており、殷の末裔である宋を併合するなど周辺諸国を圧迫していた。紀元前288年には斉を東帝、秦を西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。
しかしその斉は強勢を警戒され楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落。亡国寸前まで追い詰められた。このことで秦の覇権は決定的なものとなり、統一へ向かっていく。
[編集] 統一王朝
紀元前247年に即位した政は、李斯を丞相として国力増強に努め、ついに紀元前221年に中国を統一し、自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。
始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。万里の長城の建設は主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海・象(しょう)・桂林の3つの郡が置かれた。これは、中国王朝によるベトナム支配の始まりでもある。
始皇帝の死後、宦官趙高が太子扶蘇・丞相李斯や始皇帝の血族者ら権力者を次々に暗殺し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を敷いた。始皇帝が死んだ事で一辺にたがが緩み、翌年には陳勝呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。
二世皇帝と趙高は章邯を将軍として討伐軍を送る。章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破し、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし項梁のおいの項羽との決戦に破れ、章邯たちは捕虜となる。項羽は咸陽に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万を穴埋めにして殺してしまった。
章邯が大敗したことを聞いた趙高は狼狽し、二世皇帝を暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定を図ろうとするが、子嬰らによって誅殺された。
その後、劉邦が咸陽へ入ると、子嬰は降伏し、秦は滅亡した。劉邦は子嬰を殺さないことにしていたが、後から咸陽にやってきた項羽は子嬰を殺し、咸陽の美女財宝を略奪して、火をかけ、咸陽は廃墟となった。
[編集] 政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢が前後400年の長きに渡った理由の一つは秦の制度を人民の反発を受けることなく踏襲できたことがある。
秦の成立は単なる中国の統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。
[編集] 官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である。(詳しくは前漢の項を参照。)
地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、太守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。ちなみに、胡亥の代になると郡県制により各地の役人の数が減らされる結果となり、各地で相次いで起きた反乱を抑えられなくなってしまった。
[編集] 法制
秦と言えば商鞅により作られた法家思想による厳しい法律と言うイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。
漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったと言う。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としてると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。
そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。
[編集] 経済
始皇帝は統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。
ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。殊に、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。これが真実とすれば、世間に伝えられる暴君としての始皇帝像は、誤ったものであり、秦が滅亡した一因として、二世皇帝の経済政策の誤りが考えられる。
[編集] 文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。
石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。
詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。
この2つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。
思想的には法家が当然強いが、しかし道家も同じように強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。
世界遺産に登録されている、始皇帝陵は始皇帝が13歳の時から建築が開始され発掘された始皇帝陵から、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が伺えるようになっている。
[編集] 秦の統治者
[編集] 秦公
[編集] 王
[編集] 皇帝
[編集] 関連先
[編集] 外部リンク
- 史記秦本紀(漢文、簡体字)
- 史記秦始皇本紀(漢文、簡体字)
- 秦始皇兵馬俑博物館
- 二十五史 (簡体中国語/繁体中国語)
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